私は呉で生まれ,姉達や兄達は大阪、広島、尾道、大野、福井で生まれた。戦中は呉から徳島へ疎開。その後大阪から福井へ。終戦後は大野の開拓地へ。父は戦中は単身赴任で母は大変苦労したと言っていた。父は仕事の為(新聞記者)、二人の姉に女学校を中退させ一年間原野を開拓させた。その後、上の姉は和、洋裁学校へ通い手に職を持ち、下の姉も夜間学校へ通い大学もアルバイトをしながら通って中学校の教師になった。二人の姉のお蔭で私達は現在もこのようにして生活している。当然、戦後物心がつく頃から母が育てていたモルモット、兎、羊、ヤギなどの食べる草を兄達と取に行ったりもした。モルモットは子供が生まれると少し大きくして係の人が取に来ていたのを思い出す。兄から聞いた。実験用に使うらしい。兎は大きくなったら居なくなった。代わりに羊やヤギになってヤギの乳が飲めるようになった。羊の毛で兄達の衣類を。一頭しかいないので順番はなかなか来なかった。高齢になってから母(90)と生活するようになって、私の生まれた直後からの話をよくするようになった。生まれた時は双子の1人で泣かず時間が経ってから泣いたと。もう1人は死んで生まれたと。戦中は、徳島へ疎開中、浜の漁師からウナギの粉を貰ってお乳と一緒に飲ましたと言った。「浜の人達は今に死ぬじゃろうと言うとったようで、よくぞここまで大きく育った」と何回も何回も聞いた。兄や姉達亡くなってもまだ居れる。父が亡くなった後はよく父の夢を見た。母と居る時はよく母の夢を見たが亡くなってからは母の夢は全く見なくなった。毎年終戦の話になると思いだす。若かった頃の母は厳しかったが我が家で約6年居たがとっても優しく可愛い母(96)だった。