前々回に古今和歌集、奥の細道を出し抜いて世界記録遺産に登録された山本作兵衛を取り上げたが、また触れておきたい。
私には一時期、鉱山ブームというのも過去にあったので思い入れが深いのである。
その中の「立ち掘り」なる一枚の画…
明治中期 採炭夫 サキヤマ アトヤマ、ヒトサキ、サシ。二人組の事。
炭丈 スミタケ 一.五〇メートル以上あれば立ち掘りができる、軟らかい部分をスカシてほるが なるべく中を深くスカシこむが
段取りがよい、60センチ余りスカシて下盤石を打ち上げ次に上、ツリ石を叩き落とす、切羽面にボタをはさんでおらぬをキリタオシと
言うて抗主(コゥシ)のドルバコである、筑豊のヤマはボタを含んでおる処が多い、尤も低層炭はホンスばかりであるが量少、昔は天井やバンにボタを含みし粉炭層は残していた。
切羽を平面に採炭する事をツラドリと言うてアラトコ切羽では仂して能率があがらない。いわゆる巧拙の差甚大
軽仂多産、重仂小産、
先山は右ききでも左でツルハシを使わねば一人前ではない。
明治三十二年頃 一函切賃20銭 堅い処は25銭
サシで五、六函位
勘引二合以上それはあがり賞与が一割
見込み出炭奨励金つくから一合引
白米一升十銭
沢庵コンコン一本一銭
甘藷サツマイモ一斤一銭 一銭五厘
…一部俗字などで書かれており変換が不可能なので適当に現代的に入力した。絵には坑道で石炭をツルハシで掘る入れ墨をした男と石炭を集める女。男は褌。女は上半身裸。昔は女が仕事中に乳房を恥じることはなかった。
明治32年頃、石炭を地の底でツルハシで掘って運び出して一箱20銭。作業はツルハシで石炭を掘るサキヤマ(男性)
掘りとった石炭をとって石炭箱に入れて運び出すアトヤマ(このころはおもに女性、もしくは未成年の子供)の二人組で人力で
あった。キャップランプ、ヘルメット、防塵マスク、安全靴など当然ない。
ワラジ、鉢巻、越中褌、カンテラ(種油)である。
坑内の照明設備などない。カンテラの明りが頼り。零細な中小の炭鉱では坑口までの斜面もすべて人力や馬力で石炭を引き上げていた。
蒸気機関のような機械力が導入されていたのは大手だけである。大手以外の零細小鉱山も多かった。
一函いかほどの石炭が入るか。同じ作兵衛のこの時期(明治中後期)を描いた絵をいくつか見ると、石炭運搬用の入れ物をスラと呼んでいたようで絵によって異なるが150キロ~250キロの記述。
「200キロ位積む」スラ函を20度もある急傾斜の坑道を女性が押して上る絵もある。昔の日本人は皆タフだったのだ。
いまの日本人では到底誰も従事しえぬ重労働だ。
そして給料は出来高に応じて。一函石炭を掘り出して20銭だ。サキヤマが病気などで休みの時は女性のアトヤマみずからツルハシをふるって石炭を掘る勇婦もいたという。夫婦でサキヤマ、アトヤマの二人組になることも多く、もしくは他人同士でも二人組になっていた。
危険な地底の肉体労働の対価。石炭一函掘って、写真の20銭銀貨一枚の労賃。それでも前々回書いたように炭鉱での労働は稼ぎがよかった筈だ。
農作業の日雇いや駅夫の日給は30銭の頃なのだ、夫婦で石炭を一日五、六函掘れば1円、1円20銭になる。
但し、それはいつ命を失ってもおかしくない危険を引き受けることでもあった。それに怪我で障害を負い労働ができなくなれば家族もろとも貧困への即転落であった。公的なセーフティーネットなどはほとんどなかった。
闇黒の地底での危険な労働に従事し石炭を掘って一函20銭。この20銭銀貨一枚。
そう考えるととても貴重なものに見えてくる。
写真の竜20銭銀貨は明治32年。まるで石炭の粉塵を浴びたかのような呈である。
ピカピカの未使用品にはない凄味を感じるのだ…
私には一時期、鉱山ブームというのも過去にあったので思い入れが深いのである。
その中の「立ち掘り」なる一枚の画…
明治中期 採炭夫 サキヤマ アトヤマ、ヒトサキ、サシ。二人組の事。
炭丈 スミタケ 一.五〇メートル以上あれば立ち掘りができる、軟らかい部分をスカシてほるが なるべく中を深くスカシこむが
段取りがよい、60センチ余りスカシて下盤石を打ち上げ次に上、ツリ石を叩き落とす、切羽面にボタをはさんでおらぬをキリタオシと
言うて抗主(コゥシ)のドルバコである、筑豊のヤマはボタを含んでおる処が多い、尤も低層炭はホンスばかりであるが量少、昔は天井やバンにボタを含みし粉炭層は残していた。
切羽を平面に採炭する事をツラドリと言うてアラトコ切羽では仂して能率があがらない。いわゆる巧拙の差甚大
軽仂多産、重仂小産、
先山は右ききでも左でツルハシを使わねば一人前ではない。
明治三十二年頃 一函切賃20銭 堅い処は25銭
サシで五、六函位
勘引二合以上それはあがり賞与が一割
見込み出炭奨励金つくから一合引
白米一升十銭
沢庵コンコン一本一銭
甘藷サツマイモ一斤一銭 一銭五厘
…一部俗字などで書かれており変換が不可能なので適当に現代的に入力した。絵には坑道で石炭をツルハシで掘る入れ墨をした男と石炭を集める女。男は褌。女は上半身裸。昔は女が仕事中に乳房を恥じることはなかった。
明治32年頃、石炭を地の底でツルハシで掘って運び出して一箱20銭。作業はツルハシで石炭を掘るサキヤマ(男性)
掘りとった石炭をとって石炭箱に入れて運び出すアトヤマ(このころはおもに女性、もしくは未成年の子供)の二人組で人力で
あった。キャップランプ、ヘルメット、防塵マスク、安全靴など当然ない。
ワラジ、鉢巻、越中褌、カンテラ(種油)である。
坑内の照明設備などない。カンテラの明りが頼り。零細な中小の炭鉱では坑口までの斜面もすべて人力や馬力で石炭を引き上げていた。
蒸気機関のような機械力が導入されていたのは大手だけである。大手以外の零細小鉱山も多かった。
一函いかほどの石炭が入るか。同じ作兵衛のこの時期(明治中後期)を描いた絵をいくつか見ると、石炭運搬用の入れ物をスラと呼んでいたようで絵によって異なるが150キロ~250キロの記述。
「200キロ位積む」スラ函を20度もある急傾斜の坑道を女性が押して上る絵もある。昔の日本人は皆タフだったのだ。
いまの日本人では到底誰も従事しえぬ重労働だ。
そして給料は出来高に応じて。一函石炭を掘り出して20銭だ。サキヤマが病気などで休みの時は女性のアトヤマみずからツルハシをふるって石炭を掘る勇婦もいたという。夫婦でサキヤマ、アトヤマの二人組になることも多く、もしくは他人同士でも二人組になっていた。
危険な地底の肉体労働の対価。石炭一函掘って、写真の20銭銀貨一枚の労賃。それでも前々回書いたように炭鉱での労働は稼ぎがよかった筈だ。
農作業の日雇いや駅夫の日給は30銭の頃なのだ、夫婦で石炭を一日五、六函掘れば1円、1円20銭になる。
但し、それはいつ命を失ってもおかしくない危険を引き受けることでもあった。それに怪我で障害を負い労働ができなくなれば家族もろとも貧困への即転落であった。公的なセーフティーネットなどはほとんどなかった。
闇黒の地底での危険な労働に従事し石炭を掘って一函20銭。この20銭銀貨一枚。
そう考えるととても貴重なものに見えてくる。
写真の竜20銭銀貨は明治32年。まるで石炭の粉塵を浴びたかのような呈である。
ピカピカの未使用品にはない凄味を感じるのだ…