南海泡沫の後で

貨幣収集を時代背景とともに記述してゆきます。

中国・1分紙幣

2014年03月22日 23時03分32秒 | 投資
ほとんど芝居の入場チケットのような中国の紙幣である。


中国では人民共和国成立後は紙幣は低額面貨においては硬貨と並行してごく一般的に使用されていた。むしろ発行枚数を見ると硬貨は少なかったようだ。
そのため補助貨幣としての角(jeao・日常会話では毛・mao)、分(fen)の紙幣がそれぞれあった。
しかし現在、分単位でのやり取りはほぼ日常において、消滅している。硬貨と紙幣とが分にはあった。2007年に分の紙幣は廃止された。
分のコインは、日常生活においても流通はほとんどない様子だ。売り手側も分の硬貨は受け取らない。また買い手側にお釣りで分のコインを差し出しても
受け取らないという。いずれ完全に消滅するだろう。(中国の市場では野菜や果物、惣菜や穀物などは500gを1斤としての量り売りだから
元、角、分単位まで計算すれば発生するのである。また利息計算などでは分単位は依然として行われている。)


今回の紙幣は、1960年代に発行された1分紙幣である。最低額面貨だ。1953年となっているのになぜ1960年代なのかは後述する。
1分は10分の1角であり、100分の1元である。
かってはこのシリーズの分紙幣が1、5、10分と3種発行され、流通していた。


中国は、1949年の中華人民共和国成立の頃は、あまりに長く続いた戦乱のためにインフレは悪性を帯びてとめどもなく進行しており
1949年だけで物価は75倍にも騰貴し、著しく民衆生活を圧迫していた。

それ以前より、共産党政府は日中戦争および引き続く国共内戦のためにバラバラになり複数の貨幣が入り乱れていた国内事情を鑑み、自らの支配地域が拡大するにつれて要求される新しい貨幣制度を統一的にするために1948年に中国人民銀行を設立、人民元(人民幣・RMB)を発行する。


さらに1949年以後はインフレを収束するため、人民が現金を一定額までしか保有できない制度を設けたり、折実単位と呼ばれる
労働の対価たる賃金を始め公債や預貯金などの価格を日常生活物資の物量に置き換えて、それに日々公表の公定価格をかけて、価格を定めるという制度を導入、物価騰貴の平衡に努力するのであった。(現代のわれわれの生活からは考えられないような制度であるが)

しかし結局、朝鮮戦争(中国では抗美援朝戦争と呼称)の勃発と中国人民志願軍による参戦などもありインフレは収まりきらず。
1955年にそれまでの1万元を1元とするデノミを実施することになった。こうしてインフレは収束する。(切り下げ率がスゴイが)

こうしてちょっとWikiから引っ張ってくるだけで、中国がいかに長い間戦争とともにあったかが知ることができる。
1927年の南昌起義から朝鮮戦争の停戦の1953年までで実に26年。1937年の日中戦争からしても16年。朝鮮戦争は国内戦ではないにしても人民志願軍も参加しており死者の数も推定数10万といわれ、人的ダメージも大きい物があった。
戦争が打ち続けば、悪性のインフレも進行するのは当然である。日常生活物資の生産と供給が著しく阻害され、食料品から何から物資が枯渇するからだ。特に日中戦争と内戦は中国経済に深刻な大打撃となり農業生産も停滞、日中戦争期には戦場の地方では飢饉も起き大量の餓死者が出るほどであった。

そうした臥薪嘗胆の後、朝鮮戦争への義勇軍派遣はあったものの、1950年代に入り、中国はようやく束の間の平和な日々を送る。
内戦終結後、人民共和国成立後、国家再建・社会主義・人民解放の夢へと向かい始めるのである。(とはいえ、1958年には毛沢東の迷妄と狂気の政策である大躍進運動が始まる。)

中国人民銀行はそんな中、1948年に最初の人民幣を発行する。第1版人民幣と呼ばれているシリーズだ。
その後粗悪な紙質と種類の多さを改善しより現代的に改めた第2版人民幣を1952年から着手、1955年のデノミ後に発行する。
その後さらに1962年に第3版人民幣を発行する。この時、分紙幣も第2版と同デザインで継続して発行されるが、通し番号がなくなりローマ数字
のみとなる。


サイズは小さく、低額面向けとなっている。日常的にコイン代わりになるようにと思われる。また、人口膨大な中国で、金属製のコインを導入するより
低額面貨にも紙幣を印刷して流通させる方が低コストかつ省資源ではある。
自動販売機や券売機などもない時代であるから紙幣であろうと信用さえあれば問題なしと判断したのであろう。



紙幣そのものは薄黄色地に茶の1色刷りで絵柄が印刷されている。表面は農業用トラックの絵である。赤いローマ字でⅠ、Ⅲとある。
裏面は中華人民共和国の国章。その周りに中国人民銀行、壹分と書かれ、他にウイグル語やチベット語で同様に書かれている。

分紙幣は他に2分、5分があった。それぞれ緑、青地の紙であった。文盲の人民も多数いたろう。その場合色分けの方が使いやすく理解しやすかったであろう。大きさも違えてあった。
とはいえ紙質、絵柄の印刷、ともに安物で、たった一色で印刷された絵柄も素っ気なく味気ない。その頃中国の経済力、技術力ではこの程度であったろう。
おそらく膨大な数量が印刷されたと思われる。かっては分の紙幣も日常生活においては相当需要があったと思われる。
年号は1953年であるが、写真の物はローマ数字のみの印刷で、これは1953年に発行されたわけではなく1962年の第3版である。
第2版の分紙幣にはローマ数字と7ケタのアラビア数字が印刷されていたが第3版になってローマ数字のみとなった。
そしてその後45年にもわたり使用され続けることとなる。第3版となってもデザインは同一でしかも年号も1953年というのが中国の大らかさか、雑さか。
印刷されている年号と発行された年は違うのである。第2版は1955年、第3版は1962年である。



この紙幣は妻が今から20年以上前に友人と2人で中国旅行した際に持ち帰ったものである。
といっても市場で貰ったのではなく、銀行で兌換券を円に戻した際の余りだったと言っていたようだ。
その頃は角紙幣は良く使っていたが分紙幣はほとんど使っていなかった様子だ。そのままずっと妻が持っていた物を私が貰ったわけである。
ちなみに中国では2007年に分紙幣が廃止されたころから前後して、人民幣収集ブームが起こったようである。
古い第1版人民幣や、第2版、第3版人民幣のなかでもレアアイテムが収集対象となり価格がたちまち高騰したようである。

偽札が日常茶飯事の中国であるから、当然これらも贋作がたくさん作られたようである。骨董店の店先などに並んだようだ。
偽札ブームは分紙幣にまで及んでいる。今現在、中国の土産物屋やちょいとこうしたものを売っている骨董屋などでは分紙幣の贋物も
何食わぬ顔をして売られている。ヤフオクにもそれらは流入していると思われる。とはいえせいぜい高くても数百円だが。
売る方は悪くない、買うほうが悪いという思考なのであろう。むしろ贋物を安く買って楽しめばいいじゃないかという考え方
だろうか。同じじゃないかというわけであるかもしれない。

私の物はもとより第3版のものであるし、妻が1990年代前半に中国から持ち帰ったものであるから贋物ではないのは確かだが、
だからといってこれといった価値もない品物ではある。しかしこれといった価値のない物までも贋物を数百円出して買いたくはないものだ。
それでも贋物をわざわざ作る商魂が中国らしく面白い。


ところで、第3版人民幣が発行された1962年は、大躍進運動が失敗であったことを劉少奇に批判され、毛沢東が最初で最後の自己批判を行った年である。大躍進運動の結果は餓死者3000万と言われる。
しかし毛沢東の狂気と迷妄は終焉してはおらず、復讐の権化となり、60年代に文化大革命へとつながる。いずれまた触れたい。