南海泡沫の後で

貨幣収集を時代背景とともに記述してゆきます。

新一円銀貨(大型)

2012年08月15日 22時02分04秒 | 投資
放置され、朽ちるに任せている当ブログだが、連日数十人の方が訪れてくださる。
いったい何が面白くて見られているのかと思うが、まだ終焉はしていないのでとりあえず書いてみることにした。
昨今は愈々我が家で飼育している「特殊動物」に余暇を割く割合が増大している状態で、細君にも気付かれぬよう推敲するのは
容易ではない点御了承願いたい。
飼育中の「特殊動物」は我ら夫婦の体力をはるかに凌駕するタフネスぶりで常時恣意的に動作しており、完全監視が必要なのだ。



新一円銀貨(大型)。

荘印入りである。明治19年。
言うまでもなく荘印入りの物はコレクションとしては論外と言われてきた。



しかし、私は以前も書いたが荘印入りの物は好きである。
荘印とは、旧中国における両替商(銭荘)達が銀貨品質検査・品質保証のために
打刻したスタンプである。

旧中国世界における銭荘の起こりは宋代で、統一的貨幣制度が困難であった中国において各地域に根差して日常用の銅貨と交易通貨である銀錠の両替、地域社会に対する銀行業務のようなことを行い旧中国においては大きな勢力を有していた。

そんな銭荘も20世紀に入り辛亥革命によって中華民国成立後は大きく浮沈を経験することになる。
いくたびかの恐慌や内戦に加え、中華民国政府は諸列強に習い統一的貨幣制度を導入しようとし銭荘が独占していた経済圏は大きく揺らぐことになる。この前後多くの銭荘が消えたが、しかし百戦錬磨で銀行から融資を取り付け生き残れた銭荘は、その後日中戦争が激化し
中国全土がほぼ無政府状態になり、銀行が機能不全に陥るにつれ、再び勢力を盛り返すことになる。

銭荘商人たちがこうした銀貨類に荘印を打刻していたのはいつの頃からなのかはちょっと小生には測りかねるところであるが、
彼等はもとより統一通貨の影がなかった清朝においてはみずから銀を溶かし、銀錠と呼ばれる通商決済用の銀塊を鋳造していたから、
みずからもその手元に入手した外国貿易銀の真贋については真剣だったろうし、また己の勢力範囲圏においてはこうした銀貨類を
貨幣としても流通に用いていたのであるから、銭荘としての信用度の維持として打刻が発生したものであろう。
想像するにこれら銀貨類の贋物もすくなからず贋作しようとする輩がいたと思われる。そのため、当時の中国では
荘印が多い銀貨の方が信用されたと言う。今現在の銀貨コレクターの思考とは真逆だ。

荘印は一円銀貨に限らず当時多く中国に流入した各国貿易銀貨にはたいてい打刻された。メキシコ銀、仏印ピアストル貿易銀、
イギリス貿易銀、清朝の洋銀。打刻のスタンプによってそれぞれ打刻した商人が区別できるようにおおよそなっていたと思われる。
わが国の20銭銀貨に打たれたものもあった。

よく見かけるのは「大」の字だ。他に「易」「コ」とか。
研究資料でもあれば見てみたいものだ。相当数コインを集めて比較するのは大変だろう。チョップを打ったことのある証言者でもいれば話が早かろうが。すでにそのような者はおそらく誰もいまい。銭荘の子孫たちに聞き取りをすればいいかもしれない。

ちなみに、銭荘については資料がネットでも見れるので検索されるとすぐ出てくるであろう。「銭荘の発展と衰退」など研究論文も見れる。
便利だ。

写真の一円銀貨は特徴的な荘印が表面に二つ、打刻されている。なぜ二つあるのかは不明だが、
誇らしげである。ネットでも荘印入りのコインを時折探すが、これはあまり見たことがない打刻で、まるで中世の武器などの刃先のような形状だ。他にも大の荘印が入っている。竜面にも「巨」「オ(?)」「汀」の三つの荘印。複数の銭荘の手を経た筈である。

もとはかなり黒くトーンがついていたようだ。それをいつの頃か誰かが磨いたようである。これは残念である。どす黒くなっていたほうが
凄味があったのだが。100年以上も前の古い銀貨は黒くなっているほうが自然なのだ。
むしろ今は洗いのない方で適宜にトーンがついている方が好まれているのではないか。コイン仲間もいないので他の人々の嗜好は知らない。


一円銀貨については今さらながらの解説などは割愛させていただく。
すでに読者諸氏の方が知悉されておられよう。


写真の1円銀貨、年号は明治19年。この年世界ではどんなことがあったかウィキってみると・・・

国内:
正貨兌換を開始する(銀本位制)
鎮台廃止、6師団設置
帝国大学創立
メートル条約加盟

諸外国:
フロイトがウィーンで開業
スティーブンソン「ジキル博士とハイド氏」出版
自由の女神像完成
コカコーラ販売開始
ルートヴィヒ2世、廃位され翌日死亡
フランツ・リスト死亡

etcetc…
こうした出来ごとの羅列を見ると、想像以上に身近に結びついているのだ。

ちなみにこの年、夏目漱石は月給5円で江東義塾で私立学校の教師をしていた。1円銀貨5枚分である。実際には1円銀貨で支払われたかどうかは
分からない。格差の激しい時代、庶民の中には1円銀貨を手に取ったことがない者も多かったのではないかと思う。

写真の1円銀貨もどういう経緯を経てきたのか。富裕層の資産として退蔵された未使用クラスの物より数十倍も不思議なルートを辿ったのではないか。
明治19年、まだ日清、日露の戦争も始まるずっと前である。わが国で職人によって作られ、海を渡り大陸へ…日清戦争、日露戦争、辛亥革命、第一次世界大戦、ロシア革命、中国の内戦、日中戦争、太平洋戦争、中華人民共和国成立、百花斉放運動と大飢饉、文化大革命…

いったい幾人の人々の手に渡り、どのようにしてまたわが国に戻って来たのか。神のみぞ知るところであろう。コインとは不思議なものである。