中国の壹角紙幣。
今回のこの紙幣は中華人民共和国の発行した紙幣のうち、1949年第1版、1953年第2版に連なる第3版で、1962年に発行開始され、1980年代初め頃まで発行された。その第3版紙幣のうちの一つである。なお、角(Jiao)は人民元の補助通貨単位で10分の1元である。そのさらに10分の1が分(Fen)となる。
この壹角紙幣は1962年の年号があるが、他に裏面の印刷色が異なるバージョンがある。しかし弐角紙幣と混同しやすいという理由ですぐ回収されたため、そちらは稀少とされている。
年号は、裏面中央の額面の1のローマ数字下に小さく1962とある。サイズは105×50mm。1分紙幣よりは幾分ましであるが、小さく、粗末な拙い紙幣である。おそらく膨大な量が印刷され使用されたと思われる。発行側からすれば、硬貨よりも紙幣の方が当然安価である。だからか、こうした小銭の紙幣が中国では使用され続けた。
なお現在は流通貨幣としての使用は停止されている。
この紙幣が発行された1962年、ある一人の学生が北京大学を卒業した。その人は周鐸という。
周鐸という人は、有名人などではなく、全くの無名である。ネットで検索してもわずかに明朝の政治家が同姓同名で3名ほど見受けられる程度で、
当の本人らしい情報は見当たらない。もしかすると中国国内での何らかの書籍に記述があるかもしれないが、後述する本人の運命からするに、
中国国内ではこの60年代の学生であった周鐸本人の情報は全く皆無であろう。
周鐸についてはある本から運命を知ることができる程度である。卒業後何かの分野で活躍したなどではない。
むしろそれは完全に逆であった。
周鐸は非情な運命に完全に圧潰させられた人物であった。そしてその非業の運命さえも全く知られてはいない。周鐸を押し潰した極悪な力は、彼を無名の、永遠の無の暗闇に消し去ってしまった。
周鐸はもとは精華大学の学生であった。周鐸は1949年に精華大学に入学した。専攻は外国語であり、英語であった。周鐸は外国語の学生であった時、大学からある通訳の派遣の任務を命じられ、従事することとなる。
それは公安機関の取り調べの通訳であった。
当時、中華人民共和国建国後、外国から多数の華僑が帰国してきており、公安は彼ら華僑を拘束し、スパイ容疑で取り調べを行っていた。
公安はその華僑の中で中国語が得意でない者達の通訳として大学に派遣を要請し、周鐸に通訳を任じたのである。(現在の我々からすれば考えられない事であるが)
しかし取り調べは語学学生が立ち会う種類のものではなく、陰惨なものであり、華僑に対して拷問、虐待が行われ、周鐸は従事しつつも内心に沈黙していられない正義心を持っていたようである。
1951年からこの通訳の仕事に従事し、1954年に北京大学に編入された。(精華大学は1952年に理科系の大学へと改革された)
そして毛沢東の罠である百花斉放百家争鳴が唱えられたとき、周鐸は自身の体験した公安での不正、暴虐を北京大学で発表したのである。
正義心からの行動であったと思われる。
しかし、百花斉放百家争鳴運動がどのようになったかを考えればすぐ想像が付くように、周鐸はこの告発によって、逆に彼は右派、反革命分子と断罪されてしまう。百花斉放の後に続く反右派闘争により、周鐸は4年の「労働改造」処分を科せられるのだった。多くの右派とされた人々と同様に。
しかしかれは4年の労働刑を無事終え戻ることができた。右派のレッテルを貼られたものの、北京大学へ復学することとなった。
1949年から13年後の1962年、北京大学外国語学部を周鐸は卒業した。他の若者に混じり、すでに30歳は過ぎていたであろう。
しかし右派分子たるレッテルを貼られた周鐸はエリート大学卒業者にふさわしい職業に就くことは一切できなかった。その後北京大学付属工場で働いていた。
大躍進運動の失敗後、文化大革命の狂気の嵐の前の短い期間、周鐸は大学付属の末端の工場労働者として食いつないでいた。どのような心境であったのだろうか。
そして毛沢東の狂気の産物の、文化大革命が始まる。
文化大革命の時、周鐸は北京大学の主要な職員ではなかったし、大学の教員でもなかった。
しかし紅衛兵は周鐸を捕まえ監禁した。右派分子たるレッテルは永劫剥がれないのである。在学中に4年の労働刑を終えたのにも関わらず、再び「階級闘争の敵」「反革命分子」として打倒せんとしたのである。すでに周鐸は底辺に打ち落とされていたのであるが…
1968年、紅衛兵は周鐸を極右とし、北京大学内にある私的制裁・拘禁を目的とした監獄施設に閉じ込めた。そして数年にわたり「闘争」の名の下に虐待し続けたのである。この施設は大学内に設けられており、軍や警察が設けたものではなく、文革の間、紅衛兵が作っていた監獄なのである。
当時、こうした場所は通称「牛棚」と呼ばれていた。「牛棚」とは牛小屋の意味である。なぜ牛小屋というのかは、文革の時、反革命とされた人々を「牛鬼蛇神」と蔑称したことから来ている。
紅衛兵の「牛棚」には北京大学内の建物が一棟あてがわれ、そこには北京大学の教職員で紅衛兵の攻撃対象となった人々が拘禁されていた。
そして紅衛兵の暴力、狂気が支配する非人道的な収容生活を強いられていたのである。
周鐸は70年代の文革が終わりに近づくころまでこの北京大学内の「牛棚」に拘禁されていた。そして紅衛兵の陰惨ないじめ、暴力を連日受け、生きていた。
同時に収容されていた教授の証言が彼の悲惨さを伝えるのみである。紅衛兵達は周鐸を弱い者いじめの標的にし、連日の殴打や精神的な暴力など様々な虐待を繰り返した。勿論環境、食事もまともなものでは無かった。
周鐸は、連日の暴力、悲惨極まる収容生活に、精神を病んでいったようである。証言によると、土を食べる、落ちている柿の皮を食べるなど、異常な様子となっていた模様である。
健康を害し、顔色悪く髪は抜け、歯もすべて無くなっていたという。おそらく40代だったはずであるが...
1970年代の半ばに近づくと、混乱の果て、文化大革命も勢いが衰えはじめる。そして「牛棚」から収容者達は釈放されるのであった。
多くの者は大学へと戻ったが、周鐸は北京大学を去った。そしてまもなく亡くなったという。
「牛棚」から解放された後、周鐸がどこに行き、いつ頃死んだのかは、不明である。
周鐸の悲劇について知り得るのは以上である。
周鐸が北京大学を卒業した年から今年で60年。周鐸は大学を中退せずにすみ、卒業できた。その時、周鐸の胸中に、不安の混じる複雑な心理はあれど、少なくとも中国の最高学府・北京大学卒業者としての晴れがましい矜持を持つことが、一瞬ではあれ、できたのではないかと思われる。
参考文献:集公舎刊【負の世界記憶遺産】文革受難死者850人の記録
王友琴 他著 2019年
今回のこの紙幣は中華人民共和国の発行した紙幣のうち、1949年第1版、1953年第2版に連なる第3版で、1962年に発行開始され、1980年代初め頃まで発行された。その第3版紙幣のうちの一つである。なお、角(Jiao)は人民元の補助通貨単位で10分の1元である。そのさらに10分の1が分(Fen)となる。
この壹角紙幣は1962年の年号があるが、他に裏面の印刷色が異なるバージョンがある。しかし弐角紙幣と混同しやすいという理由ですぐ回収されたため、そちらは稀少とされている。
年号は、裏面中央の額面の1のローマ数字下に小さく1962とある。サイズは105×50mm。1分紙幣よりは幾分ましであるが、小さく、粗末な拙い紙幣である。おそらく膨大な量が印刷され使用されたと思われる。発行側からすれば、硬貨よりも紙幣の方が当然安価である。だからか、こうした小銭の紙幣が中国では使用され続けた。
なお現在は流通貨幣としての使用は停止されている。
この紙幣が発行された1962年、ある一人の学生が北京大学を卒業した。その人は周鐸という。
周鐸という人は、有名人などではなく、全くの無名である。ネットで検索してもわずかに明朝の政治家が同姓同名で3名ほど見受けられる程度で、
当の本人らしい情報は見当たらない。もしかすると中国国内での何らかの書籍に記述があるかもしれないが、後述する本人の運命からするに、
中国国内ではこの60年代の学生であった周鐸本人の情報は全く皆無であろう。
周鐸についてはある本から運命を知ることができる程度である。卒業後何かの分野で活躍したなどではない。
むしろそれは完全に逆であった。
周鐸は非情な運命に完全に圧潰させられた人物であった。そしてその非業の運命さえも全く知られてはいない。周鐸を押し潰した極悪な力は、彼を無名の、永遠の無の暗闇に消し去ってしまった。
周鐸はもとは精華大学の学生であった。周鐸は1949年に精華大学に入学した。専攻は外国語であり、英語であった。周鐸は外国語の学生であった時、大学からある通訳の派遣の任務を命じられ、従事することとなる。
それは公安機関の取り調べの通訳であった。
当時、中華人民共和国建国後、外国から多数の華僑が帰国してきており、公安は彼ら華僑を拘束し、スパイ容疑で取り調べを行っていた。
公安はその華僑の中で中国語が得意でない者達の通訳として大学に派遣を要請し、周鐸に通訳を任じたのである。(現在の我々からすれば考えられない事であるが)
しかし取り調べは語学学生が立ち会う種類のものではなく、陰惨なものであり、華僑に対して拷問、虐待が行われ、周鐸は従事しつつも内心に沈黙していられない正義心を持っていたようである。
1951年からこの通訳の仕事に従事し、1954年に北京大学に編入された。(精華大学は1952年に理科系の大学へと改革された)
そして毛沢東の罠である百花斉放百家争鳴が唱えられたとき、周鐸は自身の体験した公安での不正、暴虐を北京大学で発表したのである。
正義心からの行動であったと思われる。
しかし、百花斉放百家争鳴運動がどのようになったかを考えればすぐ想像が付くように、周鐸はこの告発によって、逆に彼は右派、反革命分子と断罪されてしまう。百花斉放の後に続く反右派闘争により、周鐸は4年の「労働改造」処分を科せられるのだった。多くの右派とされた人々と同様に。
しかしかれは4年の労働刑を無事終え戻ることができた。右派のレッテルを貼られたものの、北京大学へ復学することとなった。
1949年から13年後の1962年、北京大学外国語学部を周鐸は卒業した。他の若者に混じり、すでに30歳は過ぎていたであろう。
しかし右派分子たるレッテルを貼られた周鐸はエリート大学卒業者にふさわしい職業に就くことは一切できなかった。その後北京大学付属工場で働いていた。
大躍進運動の失敗後、文化大革命の狂気の嵐の前の短い期間、周鐸は大学付属の末端の工場労働者として食いつないでいた。どのような心境であったのだろうか。
そして毛沢東の狂気の産物の、文化大革命が始まる。
文化大革命の時、周鐸は北京大学の主要な職員ではなかったし、大学の教員でもなかった。
しかし紅衛兵は周鐸を捕まえ監禁した。右派分子たるレッテルは永劫剥がれないのである。在学中に4年の労働刑を終えたのにも関わらず、再び「階級闘争の敵」「反革命分子」として打倒せんとしたのである。すでに周鐸は底辺に打ち落とされていたのであるが…
1968年、紅衛兵は周鐸を極右とし、北京大学内にある私的制裁・拘禁を目的とした監獄施設に閉じ込めた。そして数年にわたり「闘争」の名の下に虐待し続けたのである。この施設は大学内に設けられており、軍や警察が設けたものではなく、文革の間、紅衛兵が作っていた監獄なのである。
当時、こうした場所は通称「牛棚」と呼ばれていた。「牛棚」とは牛小屋の意味である。なぜ牛小屋というのかは、文革の時、反革命とされた人々を「牛鬼蛇神」と蔑称したことから来ている。
紅衛兵の「牛棚」には北京大学内の建物が一棟あてがわれ、そこには北京大学の教職員で紅衛兵の攻撃対象となった人々が拘禁されていた。
そして紅衛兵の暴力、狂気が支配する非人道的な収容生活を強いられていたのである。
周鐸は70年代の文革が終わりに近づくころまでこの北京大学内の「牛棚」に拘禁されていた。そして紅衛兵の陰惨ないじめ、暴力を連日受け、生きていた。
同時に収容されていた教授の証言が彼の悲惨さを伝えるのみである。紅衛兵達は周鐸を弱い者いじめの標的にし、連日の殴打や精神的な暴力など様々な虐待を繰り返した。勿論環境、食事もまともなものでは無かった。
周鐸は、連日の暴力、悲惨極まる収容生活に、精神を病んでいったようである。証言によると、土を食べる、落ちている柿の皮を食べるなど、異常な様子となっていた模様である。
健康を害し、顔色悪く髪は抜け、歯もすべて無くなっていたという。おそらく40代だったはずであるが...
1970年代の半ばに近づくと、混乱の果て、文化大革命も勢いが衰えはじめる。そして「牛棚」から収容者達は釈放されるのであった。
多くの者は大学へと戻ったが、周鐸は北京大学を去った。そしてまもなく亡くなったという。
「牛棚」から解放された後、周鐸がどこに行き、いつ頃死んだのかは、不明である。
周鐸の悲劇について知り得るのは以上である。
周鐸が北京大学を卒業した年から今年で60年。周鐸は大学を中退せずにすみ、卒業できた。その時、周鐸の胸中に、不安の混じる複雑な心理はあれど、少なくとも中国の最高学府・北京大学卒業者としての晴れがましい矜持を持つことが、一瞬ではあれ、できたのではないかと思われる。
参考文献:集公舎刊【負の世界記憶遺産】文革受難死者850人の記録
王友琴 他著 2019年