南海泡沫の後で

貨幣収集を時代背景とともに記述してゆきます。

中国・壹角紙幣

2022年12月27日 23時08分34秒 | アンティーク コレクション
中国の壹角紙幣。

今回のこの紙幣は中華人民共和国の発行した紙幣のうち、1949年第1版、1953年第2版に連なる第3版で、1962年に発行開始され、1980年代初め頃まで発行された。その第3版紙幣のうちの一つである。なお、角(Jiao)は人民元の補助通貨単位で10分の1元である。そのさらに10分の1が分(Fen)となる。

この壹角紙幣は1962年の年号があるが、他に裏面の印刷色が異なるバージョンがある。しかし弐角紙幣と混同しやすいという理由ですぐ回収されたため、そちらは稀少とされている。
年号は、裏面中央の額面の1のローマ数字下に小さく1962とある。サイズは105×50mm。1分紙幣よりは幾分ましであるが、小さく、粗末な拙い紙幣である。おそらく膨大な量が印刷され使用されたと思われる。発行側からすれば、硬貨よりも紙幣の方が当然安価である。だからか、こうした小銭の紙幣が中国では使用され続けた。
なお現在は流通貨幣としての使用は停止されている。



この紙幣が発行された1962年、ある一人の学生が北京大学を卒業した。その人は周鐸という。


周鐸という人は、有名人などではなく、全くの無名である。ネットで検索してもわずかに明朝の政治家が同姓同名で3名ほど見受けられる程度で、
当の本人らしい情報は見当たらない。もしかすると中国国内での何らかの書籍に記述があるかもしれないが、後述する本人の運命からするに、
中国国内ではこの60年代の学生であった周鐸本人の情報は全く皆無であろう。


周鐸についてはある本から運命を知ることができる程度である。卒業後何かの分野で活躍したなどではない。

むしろそれは完全に逆であった。
周鐸は非情な運命に完全に圧潰させられた人物であった。そしてその非業の運命さえも全く知られてはいない。周鐸を押し潰した極悪な力は、彼を無名の、永遠の無の暗闇に消し去ってしまった。



周鐸はもとは精華大学の学生であった。周鐸は1949年に精華大学に入学した。専攻は外国語であり、英語であった。周鐸は外国語の学生であった時、大学からある通訳の派遣の任務を命じられ、従事することとなる。
それは公安機関の取り調べの通訳であった。
当時、中華人民共和国建国後、外国から多数の華僑が帰国してきており、公安は彼ら華僑を拘束し、スパイ容疑で取り調べを行っていた。
公安はその華僑の中で中国語が得意でない者達の通訳として大学に派遣を要請し、周鐸に通訳を任じたのである。(現在の我々からすれば考えられない事であるが)
しかし取り調べは語学学生が立ち会う種類のものではなく、陰惨なものであり、華僑に対して拷問、虐待が行われ、周鐸は従事しつつも内心に沈黙していられない正義心を持っていたようである。
1951年からこの通訳の仕事に従事し、1954年に北京大学に編入された。(精華大学は1952年に理科系の大学へと改革された)

そして毛沢東の罠である百花斉放百家争鳴が唱えられたとき、周鐸は自身の体験した公安での不正、暴虐を北京大学で発表したのである。
正義心からの行動であったと思われる。


しかし、百花斉放百家争鳴運動がどのようになったかを考えればすぐ想像が付くように、周鐸はこの告発によって、逆に彼は右派、反革命分子と断罪されてしまう。百花斉放の後に続く反右派闘争により、周鐸は4年の「労働改造」処分を科せられるのだった。多くの右派とされた人々と同様に。

しかしかれは4年の労働刑を無事終え戻ることができた。右派のレッテルを貼られたものの、北京大学へ復学することとなった。
1949年から13年後の1962年、北京大学外国語学部を周鐸は卒業した。他の若者に混じり、すでに30歳は過ぎていたであろう。


しかし右派分子たるレッテルを貼られた周鐸はエリート大学卒業者にふさわしい職業に就くことは一切できなかった。その後北京大学付属工場で働いていた。

大躍進運動の失敗後、文化大革命の狂気の嵐の前の短い期間、周鐸は大学付属の末端の工場労働者として食いつないでいた。どのような心境であったのだろうか。


そして毛沢東の狂気の産物の、文化大革命が始まる。

文化大革命の時、周鐸は北京大学の主要な職員ではなかったし、大学の教員でもなかった。
しかし紅衛兵は周鐸を捕まえ監禁した。右派分子たるレッテルは永劫剥がれないのである。在学中に4年の労働刑を終えたのにも関わらず、再び「階級闘争の敵」「反革命分子」として打倒せんとしたのである。すでに周鐸は底辺に打ち落とされていたのであるが…

1968年、紅衛兵は周鐸を極右とし、北京大学内にある私的制裁・拘禁を目的とした監獄施設に閉じ込めた。そして数年にわたり「闘争」の名の下に虐待し続けたのである。この施設は大学内に設けられており、軍や警察が設けたものではなく、文革の間、紅衛兵が作っていた監獄なのである。
当時、こうした場所は通称「牛棚」と呼ばれていた。「牛棚」とは牛小屋の意味である。なぜ牛小屋というのかは、文革の時、反革命とされた人々を「牛鬼蛇神」と蔑称したことから来ている。
紅衛兵の「牛棚」には北京大学内の建物が一棟あてがわれ、そこには北京大学の教職員で紅衛兵の攻撃対象となった人々が拘禁されていた。
そして紅衛兵の暴力、狂気が支配する非人道的な収容生活を強いられていたのである。


周鐸は70年代の文革が終わりに近づくころまでこの北京大学内の「牛棚」に拘禁されていた。そして紅衛兵の陰惨ないじめ、暴力を連日受け、生きていた。
同時に収容されていた教授の証言が彼の悲惨さを伝えるのみである。紅衛兵達は周鐸を弱い者いじめの標的にし、連日の殴打や精神的な暴力など様々な虐待を繰り返した。勿論環境、食事もまともなものでは無かった。

周鐸は、連日の暴力、悲惨極まる収容生活に、精神を病んでいったようである。証言によると、土を食べる、落ちている柿の皮を食べるなど、異常な様子となっていた模様である。
健康を害し、顔色悪く髪は抜け、歯もすべて無くなっていたという。おそらく40代だったはずであるが...

1970年代の半ばに近づくと、混乱の果て、文化大革命も勢いが衰えはじめる。そして「牛棚」から収容者達は釈放されるのであった。
多くの者は大学へと戻ったが、周鐸は北京大学を去った。そしてまもなく亡くなったという。
「牛棚」から解放された後、周鐸がどこに行き、いつ頃死んだのかは、不明である。



周鐸の悲劇について知り得るのは以上である。



周鐸が北京大学を卒業した年から今年で60年。周鐸は大学を中退せずにすみ、卒業できた。その時、周鐸の胸中に、不安の混じる複雑な心理はあれど、少なくとも中国の最高学府・北京大学卒業者としての晴れがましい矜持を持つことが、一瞬ではあれ、できたのではないかと思われる。









                         参考文献:集公舎刊【負の世界記憶遺産】文革受難死者850人の記録
                                             王友琴 他著 2019年











フランス・100フラン白銅貨

2022年11月23日 23時51分23秒 | アンティーク コレクション
フランスの100フラン貨。ニッケルと銅の白銅貨である。

6g、φ24。1954年から1959年までこのデザインで発行された。第4共和制の頃である。第二次大戦後に進んだインフレによるデノミ前のフランであるから、100フランでも小さなコインである。25%の白銅貨で流通貨幣として標準的な材質である。

コインの絵は、表面にはトーチを持った自由の女神の横顔。裏面はオリーブと小麦の枝と100フランの表記、自由・平等・博愛のフランス語表記。
なかなか優美な趣のある美しいコインである。

前回の頑なな中国のアルミ貨とは全くもって趣が異なる。自由の女神の絵はどことなくアールデコ調にも感じられる。
その自由の女神の横顔のうなじのあたりに極めて小さい文字でCの中にRの文字が刻印されている。
これはこのコインの図案を手がけたロベール・コシェのイニシャルである。また裏面下部にも肉眼では見えにくい程の極めて小さい文字でR.COCHETと刻印されている。
このロベール・コシェはこの頃コインやメダルなどのデザインを手がけていた造形芸術家であった。メダル制作で有名だったようである。他には1960年代にモナコでコイン制作の図案を手がけたようである。

このコインにも至極些細であるが、バリエーションが存在する。裏面の植物の図柄のところに造幣局の工場によって小さなBのイニシャルの有無
があった。これは造幣局を表していた。Bは、ノルマンディー地方にある小さな町のボーモン・ル・ロジェの意味である。ボーモン・ル・ロジェの他にパリでも生産されていた。パリのものはBのような印はなく無銘である。

このコインの自由の女神の絵柄は美しく、小さい白銅貨だが優美である。


しかしこのコインが作られた1958年、この女神の横顔からはほど遠い、血生臭い現実がフランスにはあった。


アルジェリア戦争である。

1954年の第1次インドシナ戦争の敗北・旧仏領インドシナからのインドシナ諸国独立に続けて、アルジェリア戦争が勃発した。
アルジェリア戦争は勃発後、決着がつかないまま解放戦線と仏軍との血生臭い応酬が繰り返され、
テロ、暗殺、拷問、処刑など互いに蜿々と数年、繰り返していたのだった。終焉はまださらに4年後の1962年。

アルジェリア戦争はゲリラ戦であり、非戦闘員も巻き添えの残虐な戦いであった。
しかもあまり我が国では知られていないが、この1958年にはフランス軍は60万人以上の国軍および国家警察などの兵力をアルジェリアに派兵していた。
この数はベトナム戦争の際のアメリカ軍の最も多い派兵時期の兵員数(1968年・549500名)を超える。なお、米軍のベトナム戦争における死亡者は58200名。(そのうち100名がカナダ人)それに対しアルジェリア戦争における仏軍の死者は28500名である。一件少ないように見えるが、実はこの数には現地アルジェリアで仏軍側として戦ったアルジェリア人は入っていない。彼らは「アルキ」と呼ばれ、対仏協力者とその家族であった。その戦死者数は正確にはわかっておらず数万名といわれる。しかもアルキは1962年まで忠実に仏軍側として戦ったが、戦後脱出できなかった彼らアルキは、裏切り者として大勢が虐殺されたのだった。


この100フラン白銅貨が発行された1954年から私の手元にある1958年のコインが作られるまでの4年の間、激しい戦いが続いていた。
とはいえ、1954年に突然独立戦争が何もないところから急に始まったわけではない。古くは19世紀には複数回の大反乱があった。アルジェリアをフランスが植民地に支配したのは1830年であるが、それから山岳地帯までの全土を支配し終るのはその後30年近くかかっている。
20世紀に入り、第一次大戦には多数のアルジェリア人がフランス軍に動員され戦ったが、その人々の中からナショナリズムの機運が高まる。
そして第二次大戦にも再び多くのアルジェリア人が動員されたが、1945年5月8日のドイツ降伏時にはアルジェリアでは反逆事件が起こり、フランス側120名が虐殺され、(そのうち2名はイタリア兵捕虜だった)軍による鎮圧でアルジェリア人多数が死亡した。その数は不明であるが数千名とも4万名とも言われている。対ドイツ勝利の陰でアルジェリアでは反逆事件をフランス軍が弾圧していたのである。
この反逆事件後、アルジェリア人ナショナリストはいったん雌伏の時期に入るが、水面下で活動は続けられ、仏領インドシナの独立の年である1954年についに独立戦争に入るのである。

その後4年、虐殺が繰り返されるような血みどろの内戦が繰り返される。そしてフランス第4共和制はこのアルジェリア戦争を終らせることができず、しかし強硬な軍の一部・極右・独立を認めない在アルジェリアの欧州系植民地人(ピエ・ノワールと呼ばれる)はあくまで独立を認めず、駐留軍は勝手にアルジェリアで臨時政府を設立、コルシカ島を占拠。耐えきれなくなった第4共和制は終焉、ド・ゴールが大統領となり第5共和制が始まる。第2次大戦の英雄であるド・ゴール将軍に、右派のアルジェリア駐留軍、植民地人、極右は大いに期待したが、ド・ゴールは早い段階でアルジェリア戦争にこれ以上フランスが戦うよりもアルジェリア独立が世界情勢の趨勢であることを認識していた。そして結局は手のひらを返すようにして右派を裏切り、アルジェリアの独立へと戦争を終らせるのである。



アルジェリア戦争はフランス植民地のなかの独立戦争でも最も長く、もつれた戦争であった。他の植民地に比べ、白人入植者が多かった為といわれる。コロンもしくは後にピエール・ノワと呼ばれる欧州系入植者は100万人にも達していた。この入植者達が独立を拒み
フランス植民地のままのアルジェリアを強硬に求めたのである。他のチュニジア、モロッコ、仏領インドシナはもっと早くに独立を果たしていたが、アルジェリアだけが1962年まで遅れ、しかもその前後には独立を拒む極右による反乱計画、ド・ゴールとポンピドーの暗殺計画まで起きるなどフランス国内に及ぼした悪影響もまた多大であった。
またこの戦争はアルジェリア人対フランス人のみならず、アルジェリア人対アルジェリア人、フランス人対フランス人の戦いでもあった。
いわば四つ巴ともなったこの戦いの間、相互にテロ、誘拐、暗殺が繰り返され、インフラの破壊が繰り返された。アルジェリア民族解放戦線が
テロにより殺したアルジェリア人は16000名。フランス人2700名。極右フランス人の組織OASがテロで殺したフランス人も数百名に登る。またアルジェリア人の独立勢力間でも勢力争いがあり、4300名以上が死亡している。

しかし結局ド・ゴールがアルジェリア独立に動き、1962年にアルジェリアが正式に独立を果たすと、極右のフランス人も
さすがにアルジェリア国内では先行きに不安が募り弱体化していくことになった。アルジェリア国内の入植者はほとんどすべて
フランスへ出国することとなる。

ド・ゴールは植民地のままのアルジェリアをフランスが保ち続けることは逆にフランス本国にとって逆手であると第5共和制よりも以前に認識していたようである。ただそれを実行するのが困難であったのである。しかし国内世論もアルジェリア独立へと傾き、アルジェリア国内のフランス人と駐留軍は強硬に反対していたが、アルジェリア独立へと終らせた。1954年から8年に渡る長い独立戦争が終ったのである。
またド・ゴールは本国の人口増加よりも遙かに激しいアルジェリアの人口爆発を懸念していたようでもある。アルジェリアからの大量の移民が国内に押し寄せ、フランス国内がイスラム化することはあってはならないと考えていた。


この100フラン白銅貨は1959年で発行は終了する。
そして1960年、フランスは悪化するインフレに対応するため100分の1のデノミを行う。フランスのアルジェリア戦争の戦費は500億新フランといわれる。インフレを促進させたのは間違いないだろう。

それまでの100フランは1新フランとなり、旧フランと呼ばれるようになる。それでも旧フランはしばらく通用することができた。
とはいえ徐々に減っていき、ユーロ導入時には旧フラン貨は使用停止となっていた。
このコインも1960年、新フランの新1フランニッケル貨にとって替えられる。勿論手元にあるこの1958年の100フラン貨も廃貨である。

この手元にある100フラン貨は、入手時は黄ばんでおり、黄銅貨と思っていた。おそらく愛煙家の居室に長らくあったのであろう。
白銅貨なので本来は銀色である。薄めた塩素で漂白してみると、やはりシルバーに戻り、美しくなった。

ただ、コインの絵柄の女神の横顔を見ていても、その頃にあった出来事は到底想像できない。
歴史とは調べない限りは、その真の姿を現さない、一筋縄ではいかない複雑なものである。



中国・5分アルミ貨

2022年10月28日 23時49分47秒 | アンティーク コレクション
           
数年が過ぎた。

このブログがまだネットで閲覧できることに感謝せねばならないだろう。
前回の記事よりすでに数年。ブログを始めてから11年以上経過している。

昔の記事の文章など稚拙だ。ただ己の幼稚、無知を恥じ入る。

自分自信にも老いを感じる。何かを残したいとか、見てもらいたいとか、特に思わない。
コイン購入に興味もなく、カタログ類も全てない。
時折贋物だらけのネットオークションか、手元に残ったコインを眺めているだけだ。

どうせ集めたところで自らが鬼籍に入る折、手に握ってどこかに行けるわけもない。


古銭とは、いやこの世のすべての遺物とは、すべてそうされてきた物である。過去の人々が取り扱い、あの世に持って行くこともなく残存しているだけの物だ。誰も手に持っていくことはできなかった。

過去の遺物はすべて過去の人間の努力、営為の結果である。その時代時代の必死な人々の営為…

しかし...人は死の折に、何もかも全部を、手放す。どんなに何かを築き上げても、残そうとしても、何も持って行くことはできない。
かって古い時代、人間はそれを受け入れられず、死後の世界に富と力を持って行くことを切望した。しかし現代では否定されている。
死後何かを持って行くことはできない。死とは完全な終焉なのだ。


中国の1956年の5分アルミ貨。

この5分アルミ貨は現在はほぼ流通していないと思われる。80年代以前は硬貨としての役目があり、流通していたが、当然ながら、インフレで姿を消した。2000年代までは5分硬貨はまだ細々と流通していたようであるが、2022年現在さらにインフレが進行しており、貨幣としては役割を終えていると思われる。
この意匠は、まだ中国が簡体字を導入する文字改革以前だったため、中華人民共和國、伍分と書かれている。発行は同一デザインで2000年まで続けられた。同一デザインとはいえ、極わずかな細部の違いがあるようで、発行年により、稀少品も存在するようである。しかし社会主義国家然とした無味乾燥な硬貨である。
φ24、1.6g。

このコインは1956年の年号。
中華人民共和国建国の1949年より後、7年が経過している。
1956年の中国では何があったか。

百花斉放である。

百花斉放とは正確には「百花斉放百家争鳴」といわれる。毛沢東が主導した運動で、広く言論を解放し共産党への批判も認め国民からの意見を求める、といった政策であった。

この後の中国がたどる道筋を見ればすぐ想像がつくように、これは嘘であり、完全なまやかしであった。
共産党への批判意見をも募りながら、意見が出てくるにつれ、毛沢東はすぐに手のひらを返し、批判者を右派分子として弾圧し始めたのだ。
結局率直な批判者たちはすべて右派、反党分子としてすぐに翌年から、「反右派闘争」として弾圧されることとなる。
毛沢東は早くも翌年には逆転させ、批判者達を右派分子にでっち上げ、弾圧したのである。


批判を言った人々の多くは、真摯だったのではないかと思われる。
しかし、毛沢東の狂気に警戒を怠ったのである。
毛沢東と共産党の狂気はすでに建国後、三反五反運動という形で現れていた。この運動は、本来は旧中国に跋扈していた汚職、贈賄等を払拭せんとした運動であったが、すぐに変形し、資本家階級への闘争が加えられ、資本家は害毒と断定され、20万人以上が自殺に追い込まれるという異様な運動となっていた。しかも密告が奨励され、互いに監視しあったのである。

このような前例があったにもかかわらず、共産党を信じ、百花斉放百家争鳴のスローガンのもと、率直に批判的意見を述べた人々は、要は騙されたのである。右派分子のレッテルを党から貼られることは、当時致命的であった。

反右派闘争の結果、55万人以上が摘発され、西方の強制収容所へと送られたのである。しかも反右派闘争の目標を達成すべく、数あわせのでっち上げ、讒言さえ行われるようになっていた。
この結果、すべての人々が口を閉ざすこととなる。毛沢東と共産党への批判を誰も口にしなくなり、何もかもすべて礼賛、礼賛となっていくのである。毛沢東への個人崇拝が収斂されていったのだ。
そしてさらなる狂気の大躍進運動とその結果としての大飢饉に突き進んでいくのである。

反右派闘争により、砂漠の強制収容所へ送られた人々も大飢饉の犠牲となった。その恐るべき様相は映画監督・王兵の作品に詳細に描写されている。


百花斉放百家争鳴に呼応し、勇気を持って批判的意見を声にした人々。その呆然、その無念、絶望は察するに余りある。
もはや旧中国でない、暴君の支配する古代王朝ではないのだからと、中国は新世界なのだからと…

しかし古代の王朝と狂信的な共産主義者は、根源は何も変わらない。
毛沢東の狂気は、古代王朝の暴君と結局同じなのだった。史記に伝わる大王や皇帝たちと…
いやむしろ、古代の王朝の人々が憤慨するかもしれない。これほどの人為的な大飢饉で民を苦しめ、膨大すぎる空前絶後の死者を出したことはなかったと...

ただ、右派分子とされた人々の、彼らの無念は、古代中国の暴君の圧政と暴虐に苦しんだ民の無念とはやや異なるかもしれない。
古代中国の暴君は、王や皇帝個人の狂気の産物だと思えば、まだ理解できるものではある。王が残酷で愚かだからと…
しかし社会主義の理想を信じていたにもかかわらず、理不尽に右派とされた人々は、不条理すぎる無念を味わうことになった。
そして多くの人々を待ち受けていたのは大飢饉による餓死。
彼らが収容された西方の収容所では、砂漠の中、地中に掘られた穴に住んでいた。
大躍進の失敗による大飢饉が深刻になってくると、収容所内でも人肉食が横行し、死体が至る所にあったという。

反右派闘争を経験した人もほぼもう他界しているだろう。


1958年に始められた毛沢東の妄想の産物たる大躍進運動は、中国全土、中国国民を狂気の渦の中に突き落とし、結果、農業に大打撃を与え、
食料生産が著しく滞る事態を惹起した。
そして絶望的な大飢饉となる。犠牲者数は3千万とも言われるが、不明である。
大躍進についてはまたこの頃の年号のコインが手に入ればとも思う。

三反五反運動、百花斉放百家争鳴、反右派闘争、大躍進運動と大飢饉、そして文化大革命。ある種異常ではあるが、一貫した連続性がある。
この狂気の連続した時代を生み出した原因には、マルクス思想に根本的欠陥があると思えてならない。


このコインの入手はどうしたものだったかよく覚えていない。たしかネットでまとめ売りしていたものだったか。
表面はすり減り、紋章の細部はわからなくなっている。手垢がこびりついていて、古いわりに魅力もなく、ただの遺物としての風情しかない。
ただ年号としての数字の「1956」が、やや重く見える。












アルゼンチン・1レアル銅貨(ブエノスアイレス)

2015年10月13日 01時48分55秒 | 投資
もう書くこともなく長い日数が経過したが、見ている人も細々と存するようではあり、
特にこれと言った事もなく、わざわざ書くこともない日常であり、なおかつコインの買い集めもしてはいないものの、記述していないコインも結構手元にあり、一旦始めた以上はこの瑣末な文の集まりでさえも、遺棄するのも惜しい気もして、ようやく書くこととした。




一昨年、私の地元の町にあった某古銭店が閉店した。Kと言う屋号であった。


そのKなる店は所在は私の地元の市の市街地の中心地の片隅にあった。開店時期は4年ほど前だったと思う。よく覚えてはいない。
都合3年程度の営業期間であった。高齢の店主が一人、店をやっていた。

開店当時、その老店主が一人で準備を行い開店したのだが、什器も看板もアクリル製の外装用の看板もすべて古くさい使い回しであった。
もとは関東で古銭とチケットのショップを営んでいたらしい老店主は、元の店は子息に譲り単身、私の地元のこの町へ来、
古銭店を開業したとのことであった。

店舗在庫も什器もどうも全て関東にあった元の古銭店から送り届けて使った模様であった。
そのため店舗内は洒落たものではなく、什器も寄せ集めで中は何もかも雑然としており奥は薄暗く、長い時間過ごしたいとか、何度も行ってみたいと思う
店内の様子ではなかった。
それでも少しづつ時間の経過とともに買い取り品などが雑然と集まってくるようになってはいた模様である。それとても若干といった具合であったと思う。


他県からはるばる来て、何を思ってのことであったのか、その事業の動機は一体何だったのか。親族との不和か、引退後に一つだけ好きな冒険的な振る舞いをしてみたかったのか。
そうした内々の事情を詳しく語り聞くほどになるには私が足繁くその古銭店に通い、交流を深める必要があっただろうが、
私は最初のうち2、3回行ってみただけで、結局その後全く行かなかった。当然交流など皮相的に極微に有った程度である。

その2、3回行ってみた時に話を少々聞いたので、老店主がこの町にわざわざ一人で移住して、一人でなにもかも手配して開店し、営業し、一人でマンションに暮らしていることなどを知ったのである。

そうした話は簡単な世間話程度に行われたのだが、老店主との会話は正直なところそう盛り上がるものでもなく、
小売店の接客には不向きな晦渋な性格の持ち主の老店主が何度も繰り返す同じ話は聞きとりづらく、店にいる時間とともに疲れを覚えた。


しかし店舗の賃貸料は、いくら斜陽のわが町とは言えど、中心地にほど近いところであったので月々の支払いは結構な金額であったと思う。
その店舗の賃貸料や自分の住処のマンションの賃貸料など合わせると、ちょっとやそっと古銭が売れたところで
十分賄えるほどの売り上げがあったとは思えず、むしろ開店当初から閉店までほとんどの期間赤字だったのではないかとも
勝手に想像するのだが、結局不明である。


老店主の話によると以前は古銭の収集家としてその方面にはそれなりに名を知られた富裕な人物がこの町におり、
そうした得意先がこの町にいくつかあり商売で以前数回関東から来ていたことがありそれで開業を決断したとのことであった。

たしかに今から3、4年ほど前は金銀プラチナは2、30年に一度の大相場の後だったし、巷ではコインブームもそれに引き吊られて起きていたような時期であったから、コインの収集がまたブームになり古銭店も軌道に乗るのではないかという期待もあったのだろうが、
今になって、過去の昭和の時代にいたような古銭の大収集家が今もなお何人もこの斜陽の町にいるのかどうかは、
どうもそうではないほうが蓋然性が高いようにも思われ、以前記述したようなわずかの期間少しだけ光芒を放ったかのように見える
金銀貨幣のブームは今はもうどうも霧消したように見えるし、結局商売としては、好事の域であったのではないだろうか。
ちなみにその方面にはつとに有名だったと言う大収集家はずっと以前、他界しているとのことであった。


そもそもそれであったのかもしれない。
貯蓄した資産を使って引退後に一人で見知らぬ遠方に住みついてみたかったのかもしれない。
出奔のようなことをしてみたかったのかもしれない。


老店主は古銭研究会を希望者を募り立ち上げ公民館で勉強会など開きたいと語っていた。また市の内外に出かけ史実を調査したいと語っていた。
どれほどそうした試み・目的が達成されたのか、閉店後も今も続けられているのかは知らない。
もしかすると古銭研究会も立ち上げられたかもしれないが、解散しているのではないかと思う。
老店主ももうわが町を立ち去っていると思う。


古銭店の在庫はコインホルダーに入れられた1円銀貨などが目立つようにガラスケースに陳列され、紙幣の類もあった。
しかし1円銀貨などはすべて薬品で洗いがかけられており、未洗いの物はなく、いずれも化学的な光沢を放っていた。
コインホルダーにはスタンプで金額と種類が記されており、それらの商品の数々は、どうも以前のコインショップ時代の
売れ残りをそのまま陳列しているような、時代遅れの感があった。
だから開店していても次々と来客があり商品が売れていく様子はなく冷やかし客が物珍しさに一人位入ってくるだけであった。
少なくとも私が訪れている機会の最中にはそうであり、他に誰かが何かを買っている場面はなかった。

しかも晦渋な老店主には冷やかし客に対しても物腰柔らかい初対面でも好感のもてる接客態度などと言うものは全くなく、むしろ居心地の悪い雰囲気を醸し出していたために、客がまた入りたくなるような、また来てみたくなるような後味はなかったと思う。むしろ老人の気難しさを
感じて立ち去る人々がほとんどだったと思われる。


私も訪問時に多少物色してみたもののあまり欲しいコインはなかった。洗いのかかった古い銀貨類は見た目だけ綺麗にしたものであり
そうしたものは昭和のコインブームの時には喜ばれたであろうが、大衆がコインにほとんど見向きもしない現今では、
過去のブームの痕跡を引きずっているような商品に見えたのである。こうした昭和のコインブームの面影が残滓のように什器の影に感じられるような
店内であった。

外国コインも少量あったが、これもまた洗いがかけられている物が多く欲しい物は少なかった。
それでもなにがしかは買っておかないとどうも立ち去り難く、このアルゼンチンの19世紀の銅貨を買ったのである。


アルゼンチン、ブエノスアイレスが発行した1レアル銅貨である。未洗いの、当時よりそのままのどす黒くなった銅貨である。
コインホルダーに入れられパックされたものの、いつから在庫になったものかはわからない。

発行は1840年。この年のみである。Φ26、4g。
表面の絵や文字の彫りは浅く頼りなく、流通すればたちまち摩耗しそうなコインである。
特段欲しいと思って買ったわけではない。アルゼンチンの19世紀のコインに格別興味が湧いたというわけでもない。

あの老店主の、ごく短い間だけ続いた古銭店もなき今、このコインを手にとって眺めても格別の情趣もない。
むしろ手にとって眺めるあいだずっと、あの店の薄暗い情景が思い出される。
会話が弾んだとか、コインと歴史に関する妙味が深まったとかではない、独特の暗さのある店の雰囲気に。

このアルゼンチンのコインも、私が買わなければどうなっていたのだろうかと思う。おそらくどこかほかのコイン商に引き取られたのではないだろうか。












中国・1分紙幣

2014年03月22日 23時03分32秒 | 投資
ほとんど芝居の入場チケットのような中国の紙幣である。


中国では人民共和国成立後は紙幣は低額面貨においては硬貨と並行してごく一般的に使用されていた。むしろ発行枚数を見ると硬貨は少なかったようだ。
そのため補助貨幣としての角(jeao・日常会話では毛・mao)、分(fen)の紙幣がそれぞれあった。
しかし現在、分単位でのやり取りはほぼ日常において、消滅している。硬貨と紙幣とが分にはあった。2007年に分の紙幣は廃止された。
分のコインは、日常生活においても流通はほとんどない様子だ。売り手側も分の硬貨は受け取らない。また買い手側にお釣りで分のコインを差し出しても
受け取らないという。いずれ完全に消滅するだろう。(中国の市場では野菜や果物、惣菜や穀物などは500gを1斤としての量り売りだから
元、角、分単位まで計算すれば発生するのである。また利息計算などでは分単位は依然として行われている。)


今回の紙幣は、1960年代に発行された1分紙幣である。最低額面貨だ。1953年となっているのになぜ1960年代なのかは後述する。
1分は10分の1角であり、100分の1元である。
かってはこのシリーズの分紙幣が1、5、10分と3種発行され、流通していた。


中国は、1949年の中華人民共和国成立の頃は、あまりに長く続いた戦乱のためにインフレは悪性を帯びてとめどもなく進行しており
1949年だけで物価は75倍にも騰貴し、著しく民衆生活を圧迫していた。

それ以前より、共産党政府は日中戦争および引き続く国共内戦のためにバラバラになり複数の貨幣が入り乱れていた国内事情を鑑み、自らの支配地域が拡大するにつれて要求される新しい貨幣制度を統一的にするために1948年に中国人民銀行を設立、人民元(人民幣・RMB)を発行する。


さらに1949年以後はインフレを収束するため、人民が現金を一定額までしか保有できない制度を設けたり、折実単位と呼ばれる
労働の対価たる賃金を始め公債や預貯金などの価格を日常生活物資の物量に置き換えて、それに日々公表の公定価格をかけて、価格を定めるという制度を導入、物価騰貴の平衡に努力するのであった。(現代のわれわれの生活からは考えられないような制度であるが)

しかし結局、朝鮮戦争(中国では抗美援朝戦争と呼称)の勃発と中国人民志願軍による参戦などもありインフレは収まりきらず。
1955年にそれまでの1万元を1元とするデノミを実施することになった。こうしてインフレは収束する。(切り下げ率がスゴイが)

こうしてちょっとWikiから引っ張ってくるだけで、中国がいかに長い間戦争とともにあったかが知ることができる。
1927年の南昌起義から朝鮮戦争の停戦の1953年までで実に26年。1937年の日中戦争からしても16年。朝鮮戦争は国内戦ではないにしても人民志願軍も参加しており死者の数も推定数10万といわれ、人的ダメージも大きい物があった。
戦争が打ち続けば、悪性のインフレも進行するのは当然である。日常生活物資の生産と供給が著しく阻害され、食料品から何から物資が枯渇するからだ。特に日中戦争と内戦は中国経済に深刻な大打撃となり農業生産も停滞、日中戦争期には戦場の地方では飢饉も起き大量の餓死者が出るほどであった。

そうした臥薪嘗胆の後、朝鮮戦争への義勇軍派遣はあったものの、1950年代に入り、中国はようやく束の間の平和な日々を送る。
内戦終結後、人民共和国成立後、国家再建・社会主義・人民解放の夢へと向かい始めるのである。(とはいえ、1958年には毛沢東の迷妄と狂気の政策である大躍進運動が始まる。)

中国人民銀行はそんな中、1948年に最初の人民幣を発行する。第1版人民幣と呼ばれているシリーズだ。
その後粗悪な紙質と種類の多さを改善しより現代的に改めた第2版人民幣を1952年から着手、1955年のデノミ後に発行する。
その後さらに1962年に第3版人民幣を発行する。この時、分紙幣も第2版と同デザインで継続して発行されるが、通し番号がなくなりローマ数字
のみとなる。


サイズは小さく、低額面向けとなっている。日常的にコイン代わりになるようにと思われる。また、人口膨大な中国で、金属製のコインを導入するより
低額面貨にも紙幣を印刷して流通させる方が低コストかつ省資源ではある。
自動販売機や券売機などもない時代であるから紙幣であろうと信用さえあれば問題なしと判断したのであろう。



紙幣そのものは薄黄色地に茶の1色刷りで絵柄が印刷されている。表面は農業用トラックの絵である。赤いローマ字でⅠ、Ⅲとある。
裏面は中華人民共和国の国章。その周りに中国人民銀行、壹分と書かれ、他にウイグル語やチベット語で同様に書かれている。

分紙幣は他に2分、5分があった。それぞれ緑、青地の紙であった。文盲の人民も多数いたろう。その場合色分けの方が使いやすく理解しやすかったであろう。大きさも違えてあった。
とはいえ紙質、絵柄の印刷、ともに安物で、たった一色で印刷された絵柄も素っ気なく味気ない。その頃中国の経済力、技術力ではこの程度であったろう。
おそらく膨大な数量が印刷されたと思われる。かっては分の紙幣も日常生活においては相当需要があったと思われる。
年号は1953年であるが、写真の物はローマ数字のみの印刷で、これは1953年に発行されたわけではなく1962年の第3版である。
第2版の分紙幣にはローマ数字と7ケタのアラビア数字が印刷されていたが第3版になってローマ数字のみとなった。
そしてその後45年にもわたり使用され続けることとなる。第3版となってもデザインは同一でしかも年号も1953年というのが中国の大らかさか、雑さか。
印刷されている年号と発行された年は違うのである。第2版は1955年、第3版は1962年である。



この紙幣は妻が今から20年以上前に友人と2人で中国旅行した際に持ち帰ったものである。
といっても市場で貰ったのではなく、銀行で兌換券を円に戻した際の余りだったと言っていたようだ。
その頃は角紙幣は良く使っていたが分紙幣はほとんど使っていなかった様子だ。そのままずっと妻が持っていた物を私が貰ったわけである。
ちなみに中国では2007年に分紙幣が廃止されたころから前後して、人民幣収集ブームが起こったようである。
古い第1版人民幣や、第2版、第3版人民幣のなかでもレアアイテムが収集対象となり価格がたちまち高騰したようである。

偽札が日常茶飯事の中国であるから、当然これらも贋作がたくさん作られたようである。骨董店の店先などに並んだようだ。
偽札ブームは分紙幣にまで及んでいる。今現在、中国の土産物屋やちょいとこうしたものを売っている骨董屋などでは分紙幣の贋物も
何食わぬ顔をして売られている。ヤフオクにもそれらは流入していると思われる。とはいえせいぜい高くても数百円だが。
売る方は悪くない、買うほうが悪いという思考なのであろう。むしろ贋物を安く買って楽しめばいいじゃないかという考え方
だろうか。同じじゃないかというわけであるかもしれない。

私の物はもとより第3版のものであるし、妻が1990年代前半に中国から持ち帰ったものであるから贋物ではないのは確かだが、
だからといってこれといった価値もない品物ではある。しかしこれといった価値のない物までも贋物を数百円出して買いたくはないものだ。
それでも贋物をわざわざ作る商魂が中国らしく面白い。


ところで、第3版人民幣が発行された1962年は、大躍進運動が失敗であったことを劉少奇に批判され、毛沢東が最初で最後の自己批判を行った年である。大躍進運動の結果は餓死者3000万と言われる。
しかし毛沢東の狂気と迷妄は終焉してはおらず、復讐の権化となり、60年代に文化大革命へとつながる。いずれまた触れたい。