南海泡沫の後で

貨幣収集を時代背景とともに記述してゆきます。

フランス・100フラン白銅貨

2022年11月23日 23時51分23秒 | アンティーク コレクション
フランスの100フラン貨。ニッケルと銅の白銅貨である。

6g、φ24。1954年から1959年までこのデザインで発行された。第4共和制の頃である。第二次大戦後に進んだインフレによるデノミ前のフランであるから、100フランでも小さなコインである。25%の白銅貨で流通貨幣として標準的な材質である。

コインの絵は、表面にはトーチを持った自由の女神の横顔。裏面はオリーブと小麦の枝と100フランの表記、自由・平等・博愛のフランス語表記。
なかなか優美な趣のある美しいコインである。

前回の頑なな中国のアルミ貨とは全くもって趣が異なる。自由の女神の絵はどことなくアールデコ調にも感じられる。
その自由の女神の横顔のうなじのあたりに極めて小さい文字でCの中にRの文字が刻印されている。
これはこのコインの図案を手がけたロベール・コシェのイニシャルである。また裏面下部にも肉眼では見えにくい程の極めて小さい文字でR.COCHETと刻印されている。
このロベール・コシェはこの頃コインやメダルなどのデザインを手がけていた造形芸術家であった。メダル制作で有名だったようである。他には1960年代にモナコでコイン制作の図案を手がけたようである。

このコインにも至極些細であるが、バリエーションが存在する。裏面の植物の図柄のところに造幣局の工場によって小さなBのイニシャルの有無
があった。これは造幣局を表していた。Bは、ノルマンディー地方にある小さな町のボーモン・ル・ロジェの意味である。ボーモン・ル・ロジェの他にパリでも生産されていた。パリのものはBのような印はなく無銘である。

このコインの自由の女神の絵柄は美しく、小さい白銅貨だが優美である。


しかしこのコインが作られた1958年、この女神の横顔からはほど遠い、血生臭い現実がフランスにはあった。


アルジェリア戦争である。

1954年の第1次インドシナ戦争の敗北・旧仏領インドシナからのインドシナ諸国独立に続けて、アルジェリア戦争が勃発した。
アルジェリア戦争は勃発後、決着がつかないまま解放戦線と仏軍との血生臭い応酬が繰り返され、
テロ、暗殺、拷問、処刑など互いに蜿々と数年、繰り返していたのだった。終焉はまださらに4年後の1962年。

アルジェリア戦争はゲリラ戦であり、非戦闘員も巻き添えの残虐な戦いであった。
しかもあまり我が国では知られていないが、この1958年にはフランス軍は60万人以上の国軍および国家警察などの兵力をアルジェリアに派兵していた。
この数はベトナム戦争の際のアメリカ軍の最も多い派兵時期の兵員数(1968年・549500名)を超える。なお、米軍のベトナム戦争における死亡者は58200名。(そのうち100名がカナダ人)それに対しアルジェリア戦争における仏軍の死者は28500名である。一件少ないように見えるが、実はこの数には現地アルジェリアで仏軍側として戦ったアルジェリア人は入っていない。彼らは「アルキ」と呼ばれ、対仏協力者とその家族であった。その戦死者数は正確にはわかっておらず数万名といわれる。しかもアルキは1962年まで忠実に仏軍側として戦ったが、戦後脱出できなかった彼らアルキは、裏切り者として大勢が虐殺されたのだった。


この100フラン白銅貨が発行された1954年から私の手元にある1958年のコインが作られるまでの4年の間、激しい戦いが続いていた。
とはいえ、1954年に突然独立戦争が何もないところから急に始まったわけではない。古くは19世紀には複数回の大反乱があった。アルジェリアをフランスが植民地に支配したのは1830年であるが、それから山岳地帯までの全土を支配し終るのはその後30年近くかかっている。
20世紀に入り、第一次大戦には多数のアルジェリア人がフランス軍に動員され戦ったが、その人々の中からナショナリズムの機運が高まる。
そして第二次大戦にも再び多くのアルジェリア人が動員されたが、1945年5月8日のドイツ降伏時にはアルジェリアでは反逆事件が起こり、フランス側120名が虐殺され、(そのうち2名はイタリア兵捕虜だった)軍による鎮圧でアルジェリア人多数が死亡した。その数は不明であるが数千名とも4万名とも言われている。対ドイツ勝利の陰でアルジェリアでは反逆事件をフランス軍が弾圧していたのである。
この反逆事件後、アルジェリア人ナショナリストはいったん雌伏の時期に入るが、水面下で活動は続けられ、仏領インドシナの独立の年である1954年についに独立戦争に入るのである。

その後4年、虐殺が繰り返されるような血みどろの内戦が繰り返される。そしてフランス第4共和制はこのアルジェリア戦争を終らせることができず、しかし強硬な軍の一部・極右・独立を認めない在アルジェリアの欧州系植民地人(ピエ・ノワールと呼ばれる)はあくまで独立を認めず、駐留軍は勝手にアルジェリアで臨時政府を設立、コルシカ島を占拠。耐えきれなくなった第4共和制は終焉、ド・ゴールが大統領となり第5共和制が始まる。第2次大戦の英雄であるド・ゴール将軍に、右派のアルジェリア駐留軍、植民地人、極右は大いに期待したが、ド・ゴールは早い段階でアルジェリア戦争にこれ以上フランスが戦うよりもアルジェリア独立が世界情勢の趨勢であることを認識していた。そして結局は手のひらを返すようにして右派を裏切り、アルジェリアの独立へと戦争を終らせるのである。



アルジェリア戦争はフランス植民地のなかの独立戦争でも最も長く、もつれた戦争であった。他の植民地に比べ、白人入植者が多かった為といわれる。コロンもしくは後にピエール・ノワと呼ばれる欧州系入植者は100万人にも達していた。この入植者達が独立を拒み
フランス植民地のままのアルジェリアを強硬に求めたのである。他のチュニジア、モロッコ、仏領インドシナはもっと早くに独立を果たしていたが、アルジェリアだけが1962年まで遅れ、しかもその前後には独立を拒む極右による反乱計画、ド・ゴールとポンピドーの暗殺計画まで起きるなどフランス国内に及ぼした悪影響もまた多大であった。
またこの戦争はアルジェリア人対フランス人のみならず、アルジェリア人対アルジェリア人、フランス人対フランス人の戦いでもあった。
いわば四つ巴ともなったこの戦いの間、相互にテロ、誘拐、暗殺が繰り返され、インフラの破壊が繰り返された。アルジェリア民族解放戦線が
テロにより殺したアルジェリア人は16000名。フランス人2700名。極右フランス人の組織OASがテロで殺したフランス人も数百名に登る。またアルジェリア人の独立勢力間でも勢力争いがあり、4300名以上が死亡している。

しかし結局ド・ゴールがアルジェリア独立に動き、1962年にアルジェリアが正式に独立を果たすと、極右のフランス人も
さすがにアルジェリア国内では先行きに不安が募り弱体化していくことになった。アルジェリア国内の入植者はほとんどすべて
フランスへ出国することとなる。

ド・ゴールは植民地のままのアルジェリアをフランスが保ち続けることは逆にフランス本国にとって逆手であると第5共和制よりも以前に認識していたようである。ただそれを実行するのが困難であったのである。しかし国内世論もアルジェリア独立へと傾き、アルジェリア国内のフランス人と駐留軍は強硬に反対していたが、アルジェリア独立へと終らせた。1954年から8年に渡る長い独立戦争が終ったのである。
またド・ゴールは本国の人口増加よりも遙かに激しいアルジェリアの人口爆発を懸念していたようでもある。アルジェリアからの大量の移民が国内に押し寄せ、フランス国内がイスラム化することはあってはならないと考えていた。


この100フラン白銅貨は1959年で発行は終了する。
そして1960年、フランスは悪化するインフレに対応するため100分の1のデノミを行う。フランスのアルジェリア戦争の戦費は500億新フランといわれる。インフレを促進させたのは間違いないだろう。

それまでの100フランは1新フランとなり、旧フランと呼ばれるようになる。それでも旧フランはしばらく通用することができた。
とはいえ徐々に減っていき、ユーロ導入時には旧フラン貨は使用停止となっていた。
このコインも1960年、新フランの新1フランニッケル貨にとって替えられる。勿論手元にあるこの1958年の100フラン貨も廃貨である。

この手元にある100フラン貨は、入手時は黄ばんでおり、黄銅貨と思っていた。おそらく愛煙家の居室に長らくあったのであろう。
白銅貨なので本来は銀色である。薄めた塩素で漂白してみると、やはりシルバーに戻り、美しくなった。

ただ、コインの絵柄の女神の横顔を見ていても、その頃にあった出来事は到底想像できない。
歴史とは調べない限りは、その真の姿を現さない、一筋縄ではいかない複雑なものである。