goo blog サービス終了のお知らせ 

への次郎が行く

カメラと地図を片手に気ままに出かけます。

半世紀前の葛飾堀切菖蒲園

2024年08月29日 | 古い写真

もう半世紀も前、大学進学のために上京し、葛飾区堀切に住みました。最寄りの駅は、京成電鉄堀切菖蒲園駅

 

当時、駅の名前から、近くに菖蒲園があるんだろうとは思っていました。しかし、行ったことがあったのかどうか、記憶がはっきりしませんでした。

 

この夏、古い写真を整理していたら、その菖蒲園の写真が出てきました。

 

 

そうそう、こんな感じだった

この光景は、覚えています。「菖蒲まつり」の時期には、駅から誘導するように、道に提灯が吊り下げられていました。

 

正面突き当りに「堀切菖蒲園」と書かれた看板が写っています。

入口の近くです。菖蒲の時期には、道路の両側にお店が出ていたんですね。

 

当時は、入口に大きな太い門柱が立っていました。

これは、おそらく冬に行った時の写真でしょう。奥に雪つりが見えます。

 

「菖蒲まつり」の時期の園内の光景です。

 

半世紀前の堀切菖蒲園の写真、これを見ると何度か行っているようですね。でも、これを見ても、行った記憶がどうしてもよみがえりませんでした。

 

おそらく菖蒲園の近くに住んでいるということで、そんなに気もないのに、行ってみたんだと思います。

今はどうなっているのかなぁ・・・

                                          


寅さん第9作ロケ地  多治見

2024年08月23日 | 寅さん

ひと月近く続く猛暑日。外出を控え、家にこもっています。

 

数日前、こもりながら寅さん第9作柴又慕情』(1972年夏公開)を観ました。

吉永小百合さんがマドンナを演じた作品です。

 

映画の最後のほうで、吉永小百合さん演じる歌子が陶芸家のところに嫁ぎ、夫と窯場で働いている場面が映し出されました。

 

松竹の公式サイトでは、この場面の撮影地は愛知県春日井市高蔵寺町とされています。しかし、ちびとらさんたち先達によって、この場面は岐阜県多治見市で撮影されたことが明らかにされています。ただし詳しい住所は伏せられています。おそらく個人宅が特定されないように、配慮したのでしょう。

 

 

多治見で撮影された場面を観ていたら、珍しい陶器が映っていました。

 

ここからが多治見で撮影された場面です。

袋を抱えた歌子が近所のおじさんに挨拶したあと、こちらにやって来ます。

 

歌子は作業場にいるのところに入って来ます。

珍しい陶器とは、円の中の陶器です。

 

次の場面です。夫が手元で徳利を作っています。左側には、完成した徳利。

 

再び作業をしている夫を見つめる歌子。右上には、あの珍しい陶器。

このあと、夫の作業が一段落します。

 

作業場から出てきた夫は後ろで、歌子が持ってきたアイスを食べながら一休みします。

歌子は庭で乾かしていた陶器を運ぶ手伝いを始めます。歌子が運んでいるのは、あの珍しい陶器です。

 

何度も出てきたこの珍しい陶器、調べたら燗瓶(かんぴん)というもの。徳利の一種の酒器で、お酒を入れて直火でお酒を温めるものだそうです。

 

 

多治見の焼き物について調べてみました。

焼き物の主な産地は、多治見に4か所あります。市之倉高田(たかた)、滝呂、それに「平成の大合併」によって編入された笠原です。

明治時代以降、陶器産業の近代化と大量生産のために、製品ごとの産地分業化を進め、産業の効率化を図ったそうです。その結果、市之倉は高田は酒徳利滝呂は洋食器笠原はモザイクタイルが中心に生産されるようになったようです。

燗瓶を含む徳利類は、おもに高田で生産されていたんですね。その理由は、高田で採れる土(青土 あおと)にありました。焼きあがると、保水性がよくなるのだそうです。

 

 

1分に満たないこの短い場面、高田で撮影されたかどうかは分かりません。でも仮に、高田で撮影されていたとしたら、山田洋次監督は、高田と徳利の関係を知っていたのではないでしょうか。そんな感じがしてきました。

                                         


親戚から梨が届きました

2024年08月21日 | 雑記

奥さん  「ちょっと、開けてみて

への次郎 「梨かぁ

買い物から帰ってきたら、ソファーの上に置いてありました。

 

栃木県の親戚から送られてきたものです。開けてみると、

 

ほら、いい色!

3Lサイズが13個も入っていました。

梨って、お尻を上にするんですね、初めて気づきました。

 

への次郎 「品種は何だろう?

奥さん  「今の時期は幸水だね

さすが梨生産量第3位の県出身、詳しい。

 

さっそくこの日の夕食後のデザートで、みずみずしい姿を現しました。

食べてみると、果汁と甘さたっぷり、梨本来の歯触りも感じることができました。

 

毎年届く定期便。

これが届いたら、わが家の夏も終わりです。

                                              


寅さん第16作ロケ地  寒河江

2024年08月17日 | 寅さん

2泊3日の山形夏旅の最終日、寒河江慈恩寺を訪れました。1975年秋、ここで寅さんの第16作葛飾立志篇』の撮影が行われました。いつものように、事前にちびとらさんたち先達から情報を仕入れて行ってきました。

 

 

ある日、女子高生順子(桜田淳子)が寅さんを訪ねてきます。順子は寅さんがかつて世話になったお雪の娘でした。順子からお雪さんが亡くなったと聞いた寅さん、墓参りに山形に向かいます。

 

映像】 寅さんは、山形の上山でひと商売をしたあと、大江から舟で最上川を渡り、寒河江の慈恩寺にやって来ました(地図の)。撮影は晩秋でしょうか、落葉しています。

現在】 木の葉が茂って背後が見えにくいですが、木の後ろに山門の屋根を確認できました。石垣の上の建物は、慈恩寺の事務所です。

 

 

映像】 寅さんは道なりに、まっすぐ坂道を進んで行きます()。

現在】 茂った木の葉が邪魔をし、左半分の見通しが悪くなっていました。

 

 

このあと寅さんは、お雪さんのお墓に参り、そこで住職(大滝秀治)に会います。先達によると、その場面の撮影は、慈恩寺の裏山で行われたそうですが、時間の関係で行けませんでした。

 

 

映像】 お墓からおりて来て、住職は寅さんに生前のお雪さんのことを話しながら戻って行きます()。

現在】 住職の後ろの木、いまも元気でした。背後は、慈恩寺の東に隣接している華蔵院通用門です。

 

 

映像】 二人はお雪さんのことを話しながら石段のところまで戻り、そこで別れの挨拶を交わします()。

現在】 映像左の大木は切り倒されていましたが、根は残っているのか、小さい木が育っていました。また石段の真ん中に、手すりが新たに設置されていました。

 

 

映像】 石段を登っていく住職に、寅さんが声を掛けます。このあと、二人の間でやり取りがあります。「子曰く。朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」。住職は、寅さんに学問を勧めます。住職の後姿を見送る寅さん、ぺこんと頭を下げます()。

現在】 石段の上にあるのは慈恩寺ではなく、華蔵院です。住職は華蔵院の和尚だったのでしょうか。

 

映像】 住職と別れた寅さん、大きなカバンをさげ、慈恩寺の山門の前をとぼとぼと歩いて行きます()。

現在】 山門の前にあった木々は切り倒され、新たに石灯籠が2基置かれていました。

 

 

映像】 寅さんを見送るように、住職が鐘楼で鐘をひとつきします()。

現在】 この鐘は、慈恩寺の鐘です。住職はやはり、慈恩寺の和尚なんでしょうね。

 

 

最後に、地図に撮影場所を示してみました。

ロケは、慈恩寺から華蔵院までの狭い範囲で行われていたことが分かりました。

                                           


懐かしい神田駿河台と中央大学

2024年08月13日 | 古い写真

奥さん  「えっ!? 御茶ノ水?

への次郎 「そう。駅を出たところ

 

古い写真を整理していたら、セピア色になった懐かしい写真が出てきました。

 

国鉄御茶ノ水駅聖橋口を出て、交差点を渡ったところです。

左端に地下鉄千代田線新御茶ノ水駅の入口があります。季節は

 

このあたりは神田駿河台といって、高台になっています。

道なりに下っていくと、向かい側にニコライ堂が見えてきました。

 

日本最大の正教会の大聖堂です。

ニコライ堂の真下の道、数えきれないほど歩きました。

 

この先の道は、緩いカーブになって下っていきます。

日曜日の朝なのでしょうか、駅の近くなのに人がほとんど写っていません。

 

緩いカーブを曲がりきったところです。右前方の建物は、日大理工学部校舎です。

道路をよく見ると、一部が凍っています。薄っすらと、雪でも降ったのか。

 

手前が日大理工学部の校舎ですが、同じ高さの向こうの建物、

日大ではありません。母校です。母校の5号館です。

 

手前が5号館、その向こうは中央図書館

5号館の右並びには、4号館大講堂・3号館。さらに進むと、明治大学があります。

 

中央図書館です。右隅に、ちらっと見えるのは、

4号館でしょうか。

 

中央図書館の左奥に見えるのが1号館

 

1号館の奥には、中庭を囲むようにコの字型をした2号館がありました。

目の前の道路を向こうに渡ると、

 

そこが母校の正門。母校とは、中央大学です。

この日、正門は閉じられていたんですね。

 

写真は、ここで終わっていました。

 

正門が閉じられた最後の写真、じっと見ていたら、なんとなく思い出してきました。母校の校舎の解体が始まるという新聞記事を見て、最後の姿を見に行ったことがあります。その時の写真でしょう。時期は、1979年の3月末か。

 

 

人生で一番自由な時でした。その時期を過ごした母校、今ここにはありません。学内の反対を押し切り、八王子に移転しました。しかし移転から半世紀もしない2023年、一部の学部を都心に戻しました。思うにこの八王子移転、失敗でした。

母校の発展のためには、残りの学部も早く都心に戻さなければいけません。しかし、どこに広大な土地があるのでしょうか。移転を決定した当時の経営陣、眼力がありませんでした。

 

奥さん  「懐かしい姿だね

への次郎 「どうなったかなぁ、跡地