への次郎が行く

カメラと地図を片手に気ままに出かけます。

ジャガイモを収穫しました

2024年06月18日 | 菜園

出歩いていて、菜園をしばらく放置していました。

 

この日、様子を見に出かけると、

道端の花、アジサイに代っていまた。でも、光が強くて弱り気味。

 

菜園に着いてみると、

春ジャガのが枯れかかっていました。ちょっと早いかもしれませんが、

 

収穫することに。葉っぱと茎を取り除くと、黒マルチが出てきて、

穴のところに、ジャガイモが顔を出していました。

 

黒マルチを、パッとめくってみると、

ごろころ、地表に露出していました。鍬とスコップで掘っていくと、

 

美しい姿のメイクイーンがあれば、

土偶のように、でこぼこのメイクイーンもありました。なぜ? 不思議。

 

全部掘り出して、ミカン箱に入れてみると、ミカン箱半分の収量。

出来は、よくありませんでした。

理由は、葉や茎が茂りすぎて、栄養が実に十分にいかなかったためです。次回栽培に向け、反省材料が出てきました。

 

 

この日収穫したジャガイモ、腐らないように持ち帰って、しばらく日陰で乾かします。

                                        


浅見光彦『化生の海』 加佐ノ岬

2024年06月16日 | ロケ地

沢村一樹さん主演の浅見光彦化生の海』のラストシーン、ここにも三井所剛史(みいしょたけし)の実母宇戸佳代(元女優の深草千尋)が登場します。そこからラストシーンも、石川県加賀市橋立で撮影されたと想像されます。

まず、ドラマの映像を見てみましょう。

 

 

映像

実母が海の見える場所に立っています。そこに浅見光彦がやって来て、剛史が殺害された経緯について自己の推理を説明しはじめます。

 

やがて剛史の妻娘が現れ、光彦が紹介します。実母からは、剛史を捨てた事情と心情が語られます。

この場面、背後に特徴的な小岩が見えます。左の小岩は頂上部にが生えていて、右の小岩は入水部分が鋭角的です。

 

背後に白い灯台が映し出される中、光彦による説明が続き、実母の親族によって起こされた事件の一部始終が明らかにされます。

 

以上の映像から、このラストシーンが撮影されたのは、灯台が上に見える海岸地帯だということです。こういう場所は、橋立には一か所しかありません。それは、橋立の加賀海岸にある加佐ノ岬です。

実際に行ってみました。

 

 

現在

加賀海岸にある灯台です。形状がドラマの灯台と同じです。

左側に小径があったので、下りてみました。すると、

 

立ち入り禁止」を告げる看板と、真新しいフェンスが設置されていました。

「崖崩れ発生」とあるので、今年正月の能登半島地震による崩落でしょう。

 

灯台の反対側に回って海岸部を見下ろしました。

日本海に向かって張り出す出丸のような地形がありました。これが加佐ノ岬です。

 

岬の先の小岩に注目です。拡大してみると、

左の小岩は頂上部の右端がちょっと緑色をしています。その右の小岩の入水部分は鋭角的です。ドラマの映像と、まったく同じです。浅見光彦『化生の海』のラストシーンの撮影は、ここで行われていたのです。

 

 

位置関係

最後に、地図で位置関係を確認すると、

オレンジの下線部分が加佐ノ岬で、ラストシーンが撮影された場所。緑の楕円の部分が北前船主の豪邸があったところで、光彦たち3人が歩いた地区です。

 

 

『化生の海』。この作品は、「浅見光彦シリーズ30回記念作品」として放送されました。北海道・石川・福岡を舞台に、「北前船」とそれにかかわった人たちの人生が交差する、見ごたえのある作品でした。

北前船主の屋敷が残る橋立は、この作品に重要な舞台を提供しています。その古い町並みを実際に歩くことで、ロケ現場の雰囲気を感じることができました。ただ、ラストシーンの撮影現場に足を踏み入れることができなかったのは、能登半島地震のためだとは言え、残念でした。

                                        


浅見光彦『化生の海』   橋立

2024年06月14日 | ロケ地

加賀・越前を旅した際に訪れた橋立は、沢村一樹さん主演の浅見光彦化生の海』のロケ地でした。光彦はなぜ、橋立に行ったのでしょうか?

 

 

北海道に住む三井所剛史(みいしょたけし)が石川県加賀市橋立で遺体となって発見された。たまたま石川県を取材旅行していた浅見光彦(沢村一樹)は、剛史の骨箱を抱いた母娘に出会った。

その後、小樽で再会。そのとき、亡くなった剛史が大切にしていた人形を見せてもらった光彦は、人形を包んでいた紙に橋立村と書かれていたのが気になり橋立へ。も後を追った。

光彦と娘は、剛史の死を不審に思い取材を続けていた新聞記者と加賀市で会い、3人で橋立に向かった。

 

 

映像】 場面が橋立にかわると、赤瓦が印象的な集落が映し出されます。

この場面、どこで撮影されたのか地元の方に聞きましたが、分かりませんでした。

 

 

映像】 橋立に来た3人は、神社の前を通って向こうに歩いて行きます。

現在】 この神社は出水(いずみ)神社。3人が歩いている狭い道は、北前船の船主の豪邸が残っている通りです。

 

 

映像】 光彦と娘は新聞記者から、北前船による橋立の往時の繁栄のさまを聞きながら歩いて行きます。

現在】 右の建物は北前船主の邸宅の一つで、現在は蔵六園として公開されています。

 

 

ここまでの撮影は、橋立のオレンジ線のエリアで行われ、

ここからあとの撮影は、黄線のエリアで行われました。

 

 

映像】 新聞記者「明治の終わりごろに鉄道が発達して、(橋立は)急速に衰退したそうですよ」。

現在】 真ん中に見える高い松が植わっているところが北前船の里資料館。3人は右の方から資料館の前までやって来て、そこから方向を90度変えて、こちらに歩いて来ました。

 

映像】 新聞記者「いまはもう、廃墟になっているところも何軒かありますけど・・・」。

現在】 左側は、北前船主増田又右衛門の屋敷です。ロケ当時あった、手前の小さい小屋のようなものは、ありませんでした。右の建物は、ロケ当時と少し違っていました。

 

映像】 通り過ぎたあと光彦は、石段の上に顔見知りの人がいたような気がして引き返します。

現在】 増田又右衛門邸の石垣の石は、笏谷(しゃくだに)です。福井市で採れる高価な石で、濡れると青色に変色するそうです。

 

 

映像】 石段の上で掃除をしていた女性は、光彦が以前一度取材に来た際、きんつばをごちそうになった女性でした。

現在】 じつはこの女性、三井所剛史が小さい頃に剛史を捨てた実母宇戸佳代(元女優の深草千尋)だったのです。塀の様子は、ロケ当時と少し異なっていました。

 

 

このあとドラマは、三井所剛史殺害の真相に近づいた新聞記者が殺害される連続殺人事件に発展していきます。

 

この場面が撮影された橋立は、江戸後期から明治中期にかけて活躍した北前船の船主の邸宅など古い建物が残っていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

そんな風情のある集落でロケが行われたのは、2011年のこと。それから10年とちょっとしか経っていないので、橋立の古い町並みは、ロケ当時とほとんど同じでした。

                                 つづく

                                            


北陸復興応援の旅④ 道の駅巡り

2024年06月12日 | 旅行

石川県加賀市九谷焼を鑑賞したあと、帰途に就きました。

 

 

道の駅  蓮如の里あわら

やって来たのは、加賀市のお隣り、福井県あわら市の道の駅蓮如の里あわらです。

ここは、メロンの産地なんですかね。スイカもありましたよ。

 

駅のスタンプをもらって外に出ると、目の前にお寺。本願寺派吉崎別院西別院)でした。

境内を通り抜けると、ん? 別のお寺。お城のような真宗大谷派吉崎別院東別院)。

本願寺派と大谷派、もとは一緒。ともに浄土真宗中興の祖・蓮如の流れを汲んでいます。

 

道の駅を出発し、北潟湖畔を走って、

お隣り坂井市をめざしました。

 

 

道の駅  坂井

道の駅坂井です。ここのレストラン、充実しているそうですよ。

ランチ終了時刻が迫っていたので、

 

駐車場に車を止めて、味処けやきまでダッシュ! 着いてみると、 

あああっ!」。

2時前だったのに、狙っていた本日のランチは売り切れていました。

 

 

六条大麦の麦秋

仕方なくスタンプだけもらい、空腹を満たせないまま出発。丸岡ICをめざしました。

 

奥さん 「ほら見て、麦秋よ!

への次郎 「ほんとだ。これぞ初夏の風景だ!

 

車を止め、窓を下げた途端、

ムッ! 焦げたような匂いが鼻をつきました。

福井県は、日本一の六条大麦の産地なんですね。

 

 

道の駅  恐竜渓谷かつやま

丸岡ICで北陸道に入り、中部縦貫道を走って勝山ICでおりました。

道の駅恐竜渓谷かつやまです。

中部縦貫道ではSAはなく、近くの道の駅がSAの役割を果たしています。

 

まず駅のスタンプをポン。やはり、恐竜でした。

福井では、恐竜があちこちで町おこしに一役買っています。

 

販売コーナーに行ったら、店員さんがぺたぺたシールを貼っていました。

奥さん  「半額のもあるよ、お弁当

への次郎 「じゃ、フードコートでいただこうか

ランチにありつけていなかった二人、さっそく買って、空腹を満たしました。

 

 

道の駅  越前おおの荒島の郷

続いてやって来たのは、荒島IC近くの道の駅です。

 

ここは福井県内最大規模の道の駅、地酒コーナーも充実していました。

「盃だけじゃ、片土産だ」。と理由をつけ、辛口スッキリの一本義を購入。

 

地酒をお土産に加え、再び中部縦貫道へ。

 

 

九頭竜湖

現時点の終点九頭竜ICから先は一般道を走り、九頭竜ダムに着いたらひと休み。

 

への次郎 「ほら、あの川沿いの道をのぼって来たんだよ

奥さん  「遠くに見える青い山の向こうから来たってことね

反対側は穏やかな九頭竜湖。誰もいない静かな湖畔。美しい景色を楽しんでいました。

 

そしたら、背後で何か気配して。振り向いて、キョロキョロ。

奥さん 「あっ! あそこ

20mほどの山の上、落石防止柵の上に大きな猿が腰を下ろし、我々を見下ろしていました。

 

ボス猿 「ここは、オレたちのシマだぞ

そう言っているように思えました。

 

への次郎 「長居は無用だ

ボス猿に見送られ、九頭竜湖を後に。こうして一泊二日の加賀越前の旅は終わりました。

                                         


北陸復興応援の旅③ 山代温泉

2024年06月11日 | 旅行

山中温泉のお祝いの宿を後にし、山中温泉街を走り抜けて、

山代温泉に向かいました。

 

山代温泉に着いて観光駐車場に車を止め、駐車場の裏手にやって来ました。

 

 

魯山人寓居跡

ここは大正4年、北大路魯山人が滞在した建物ですが・・・、臨時休館 ??

左手に回ると入口があって、軒下にショウブの葉。

奥さん  「ほら、ご近所にもショウブが飾られているよ

への次郎 「ほんとだ。祭り支度もされているね。お祭りかな

 

 

古総湯

温泉街の中心地・古総湯にやって来ると、赤ちょうちんと祭りの看板が出ていて、

菖蒲湯まつり」をしていました。向こうに人だかりが見えたから、行ってみると、

 

おそろいの法被姿の園児が踊りを披露していました。

古総湯の先では、

 

道路の両側に屋台がずらり。開店の準備をしていました。

古総湯の方から、子供の元気な掛け声と笛の音がしてきたので、戻ってみると、

 

地元の小学生がクラスごとに、神輿を担いで古総湯の回りを練り歩いていました。

ワッショイ! ピッピ! ワッショイ! ピッピ! ワッショイ! ピッピ!

 

 

薬王院温泉寺

神輿の後をついて行くと、左手に温泉寺?!

こっちの方が気になりました。子供たちの神輿と別れ、境内に入って行き、

 

本堂に上がると、お参りする中国人観光客3世代。お寺で中国の方、よく見かけます。

近くに、ここで温泉を発見したとされる行基の石像。なるほど、で、温泉寺なんですね。

 

その先のツバキの下には、与謝野晶子の歌碑。

奥さん  「ほら、この前行った山梨の酒蔵にも来ていたよね、この二人

への次郎 「いろんなところに呼ばれて行って、歌を詠んでいたのかな

 

歌碑の先に服部神社の石段があり、下りて行くと、

魯山人寓居跡前に、さきほどの神輿の一団が集まっていました。

 

 

九谷焼窯跡展示館

次は九谷焼の鑑賞です。法被姿の子供たちに別れを告げ、少し車を走らせました。

九谷焼は山代温泉でも作られていたんですよ。ここに窯跡があります。

 

受付で入場料350円を払って進むと、窯小屋があって、

中には、昭和40年頃まで使われていた現存最古の九谷焼窯がありました。

 

次は窯跡覆屋です。中にあったのは、

文政9年に九谷村から移された登窯の跡(国指定史跡)。ん? 窯の口はどこ??

 

最後は展示館。この建物は築200年の古民家で、九谷焼窯元の住居兼工房でした。

中に入ると、ロクロ体験コーナーがあって、

 

その奥には常設の展示室。さらに奥では、

ほら、あの人。中島誠之助さんのビデオが流れていて、九谷焼を簡潔に学習できました。

 

帰ろうとしたら、展示販売コーナーに目がいって。これ、とても気に入りました。

川崎友山さんの「青手瓜図平盃」。青手(あおて)とは、緑の色絵の具を印象的に配色して、絵付けされた九谷焼の代表的な技法です。

 

加賀の旅、最後にいいお土産が一つ買えました。

                                つづく