信州塩尻発 田舎暮らし日記

生まれも育ちも埼玉県飯能市。現在は移住して長野県塩尻市民です。 田舎暮らしや趣味の事、居合道の事等々を書いております。

今シーズン初の奈良井川で鮎釣り

2018年08月19日 | 釣り


急に涼しくなりましたね。
ここ数日、夜は15℃ほどに冷え込み、窓を閉めて毛布を被って寝るほどですが、また来週は暑くなるようで…

本日は夕方から奈良井川支流の鎖川へヤマメ釣りに行き、約15分で2匹ほど釣れましたが、よーく見ると鮎の輝きが…石の色も良い…

急いで車まで仕掛けを取りに戻ったものの、鮎竿と鮎タモが無かったため、天井糸を外して水中糸を直接渓流竿に取り付け、タモは渓流タモで代用…

鮎ルアーを付けて泳がせること15分…
ようやく1匹掛かってくれたので、オトリを付け替えて送った直後に早速掛かり、意気揚々としていましたが、その後はアタリも魚影も無く納竿。

本日の釣果はヤマメ2匹、鮎2匹の釣果でしたが、当初ヤマメ釣りに行った川で鮎釣りが出来て、ちょっぴり得した気分の釣行でした。

終戦の日 九段の曽祖父の元へ

2018年08月15日 | 歴史


平成最後、73回目を迎えた終戦の日…八月十五日、靖國神社へ参拝して参りました。



九段坂下をはじめ、至る所に機動隊が配置された物々しい雰囲気でしたが、大東亜戦争にて戦死した曽祖父をはじめ、近現代国家日本の礎となられた246万6千余柱の英霊に対し、心からの感謝と哀悼の意を伝え、今後の日本の平和と繁栄、武運長久をお祈り申し上げた次第です。

また、大村益次郎公の像横で開催されていたフォーラムを少し拝見致しました。
開会に当たり、終戦の詔書の玉音放送を拝聴致しましたが、たった73年前の同じく日射しが強いこの日、宮城外苑や最前線の特攻基地などで、悔し涙を流し拝聴された先輩方の御心を察するに、鳥肌が立って身震いし、大変胸が詰まる思いを受けました。

その先輩方が持ち続けた「臥薪嘗胆」の思いが戦後、経済で世界トップの国にまで這い上がる原動力になったのでしょう。
本当に先人達には感謝の念が募るばかりです。
この日本民族の名に恥じぬよう、私も気を引き締め、自身の正しいと思う道に邁進したいと決意するものであります。

また、正午の黙祷は、能楽堂近くの桜の木の陰で行わせて頂きましたが、開始直後に無風だった境内に突如風が吹きました。
それも都内の蒸し暑いものではなく、信州の高原のような、とても涼しい風であり、英霊の御霊が鎮まれているのかと感じて目頭が熱くなった次第です。



普段のお社と違うところは、まず参道を埋め尽くさん程に、多くの参拝者が訪れていたことは然ることながら、何より子供連れの若い御家族や若い女性が多く見受けられたといったところでしょうか。
これはとても素晴らしい事だと思います。

国家繁栄の源は、子供への正しい教育であることは歴史が物語っておりますが、その教育の根幹である幼児期の教育、躾、具体的には常識等社会性の形成は、何より母親…即ち女性に起因するところが極めて大きく、女性の教育こそ、最も重要であると私は考えております。

現に、十代、二十代の若さで散華された英霊の遺書においても、特に母親が掛けてくれた慈愛に対する感謝と決別の悲しみが多く綴られており、それを物語っているのではないでしょうか。

母親という存在は、時に優しく、時に父親とは比べ物にならない程厳しく躾ける事ができるものですし、その根底には、これまた父親では出来ない程、母親自身のありとあらゆる物事を犠牲にしてまで、子に尽そうとする愛情が存在しているからなのでしょう。

私も母が生きていた頃、非常に腹が立つことや理不尽を強く感じて常に反発していましたが、今この年になって思うと、感謝に尽きない事があります。
しかしながら母には、お盆などで帰省した際、仏壇に向かって手を合わせて気持ちを伝える事しか出来ず、生前に何でも良いからとにかく「ありがとう」と言っておけば良かったと、非常に後悔しております。
おそらくそれを含めて、母親の強さだったのかと思うものでありますが、あくまでそれは私の言い訳であって、埋め合わせることが出来ないこうした後悔が残っております。


話が逸れてしまいましたが、兎にも角にも、戦後の学校教育は、まさに自虐史観、反日思想、社会主義的に極端な平等主義、人間愛の徹底といったことの植え付けであると思いますが、少なくともこれら何れに対して疑問を持たれている方が大勢いらっしゃることは、非常に喜ばしいことです。

一方、全国戦没者追悼式における天皇陛下のお言葉に於いて、四年連続して「深い反省」と仰られたことは、素直に申し上げると憤り…むしろ怒りすら感じました。

確かに戦略、戦術に於いて反省する点は多々ありますし、とてつもない犠牲が出てしまった事は事実ですが、主語が抜けて誰のどのような反省なのかも分からないお言葉で「反省」の文言を用いてしまうと、日本は悪事を働き、陸海軍将兵や国民はその悪に加担したと仰っているように読み取れてしまいますし、少なくともマスコミはそう解釈しています。
僭越ながら、今上陛下の本心はそのマスコミと同じなのでしょう。
宮城の目の前に鎮座される靖国神社すら御親拝出来ずして、パラオやサイパンには行かれる…単にバカンスへ行く口実に「慰霊」をつけているとしか考えられません。
GHQや特定の日本に巣食う民族、カルト宗教などの影響があるのは分かりますが、皇室も地に堕ちた…これが私の率直な見解です。
そもそも大東亜戦争の大義、そしてその結果について少なくとも私は、白人至上主義だった地球上の全ての人類が、ようやく同じテーブルに着くことが出来るようになった、極めて意義のある戦争だったものだと確信しております。
従って「反省」の言葉以上に、尊い命を危険に晒しても尚、日本のみならず有色人種の解放、独立に先駆けて散られた英霊に対する「称賛」と「感謝」の言葉が先んずるべきであると考えます。

この頃のトランプ大統領がトルコに掛けている難癖を見れば気付くでしょうが、あのような圧力をかけ、摩擦を起こして相手国から開戦に踏み切らせる事が、昔も今もアメリカ等白人国家の常套手段です。
当時は戦争になるハードルが今より相当低かった時代ですから、そこで白人の主張を飲んで言いなりになり、傀儡、奴隷となるか、負ける可能性が極めて高くても民族の自存自衛のために戦うかの選択に迫られたに他ならず、そうした当時の人々の勇気を讃え、苦労に感謝せずして、どうして今日の日本人が日本人として在り続け、天皇陛下が天皇陛下として君臨されていられるのか、御考えが至らないものでしょうか?

また、インドや東南アジア、果ては当時の敵であった白人の人々までもが靖國神社へ御参りし、遊就館を見学して涙されているているにも関わらず、未だ日本人の中にも靖國神社の存在に否定的な者がいることは、非常に恥ずかしいことだと思います。

そうした方々は「靖國神社は軍国主義の象徴」、「遊就館は戦争賛美のプロパガンダ」と主張していると聞きますが、一体どこにそのような印象を受ける所があるのか疑問に思います。

さらに、帰宅してネットのニュースで見たら、色々な怪しい団体が九段周辺でデモをしていたようですね。
それで機動隊が配置されていたのかと納得しましたが、近年あらゆる所で行われているデモには、言論の自由、思想信条の自由を盾にして、全く責任が無い主張や行動が目立つように感じます。
こんな無責任な人を英霊が天からご覧になったらどう思われるか…そもそも左右いずれの団体にも日本人ではない特定の民族の人達が多いようですが、かつて「皇土」と呼ばれたこの島国がこうして穢されているのは目に余る所があります。



前回の関東甲信越居合道大会の翌日に御参りした時は、遊就館を6時間ほどかけてゆっくり見学出来ましたが、今回は見学者が多かったため、4時間程で廻ってきました。
それでもまた新たに感じるものがあり、何度訪れても胸に響くものがある、たいへん尊い施設です。
遊就館については、また後日記載したいと思います。

東山食堂とジンギスカン

2018年08月10日 | 信州の暮らし


長野県は信州新町辺りでジンギスカン料理が盛んでありますが、案外県内の至る所でジンギスの専門店を見かけますし、個人の精肉店などでもよくオリジナルのタレに漬け込んだ羊肉が売られています。

その中でも塩尻峠の中腹にある東山食堂…
いつも車が一杯停っており、送迎バスも町でよく見かけるので、ファンが多いと思いますが、ココのジンギスカンが非常に美味しいのであります。
牛ロースやホルモン等、普通の焼肉もありますが、いつもジンギス一択です。

厚切りのお肉と味噌ベースの独特のタレがこのお店の特徴ですし、コレが良いのです。
食後、会計を済ませたら、サービスの小さいソフトクリームが頂けるのも嬉しいですね。

が、一つだけ注意するところが…
とにかく油のミストが凄いので、ジャージとTシャツなど、簡単に洗える服装で行くことをオススメします。
全身ベタベタして、家に帰っても油のニオイが凄まじいですから…

全く食レポにはなっていないネタでありますが…是非塩尻に来られた時には、山賊焼きやワインだけでなく、東山食堂のジンギスも御賞味下さいませ。

コレで暑い夏もバテずに乗り切れそうです。

スバルのディーラーと高ボッチ高原で過ごす休日

2018年08月05日 | 信州の暮らし



今週になって、ようやく涼しくなってきましたね…

暑さに耐える毎日でしたが、ようやく信州の夏らしい気候が戻ってきたように感じます。


先日の日曜日、スバルのディーラーで定期点検をお願いしていたので、1時間ほど冊子やカタログを見つつ、ちょうど展示車にレヴォーグのSTI仕様車とアウトバック、フォレスター、XVが揃っていたので、眺めたり乗ってみたり…

ちなみに、先週に新型フォレスターの試乗もしてみましたが、私が乗っている前モデルのSJ-D型フォレスターより排気量が上がっているので、加速が若干静かですし、カーブのローリングも抑制されていて、より乗り心地が良い車に仕上がっていました。



XVもスバルの稼ぎ頭ですから、街中でよく見かけますね。
コンパクトに纏められています。

CMも、女性に似合う水色のSUVといった感じのイメージ戦略が上手いと感じました。

昨年の不正が無ければ(バレなければと言ったらアレですが…)カーオブザイヤーをインプレッサに続いて獲れたかもしれなかったですね。

スバルといえば、水平対向エンジンに不等長エキマニでドロドロ排気音を鳴らし、塗装はインプレッサブルー…といったコアなマニア受けするメーカーのイメージでしたが、徐々に方向転換してきた感じなのでしょうか?

コアなファン…スバリストの方々は「俺が好きなスバルでは無くなってしまった…」と、仰る方が凄く多いように感じますが、そもそもスバルの功績は、1955年頃、一般家庭では到底買うことが出来なかった自動車に対し、スバル360を開発して一般家庭でも買えるマイカー…大衆車を普及させた事なのですから、変わったというか「原点回帰した」と言った方が正解では無いかと個人的には思うのであります。

よくプロジェクトXのスバル360開発の物語「てんとう虫 町を行く」は録画して繰り返し見ていました。
スバル360開発チームのリーダーだった百瀬晋六は、塩尻市出身の人物ですし、サスペンションの担当だった小口芳門は松本市出身なので、何か親近感も覚えます。



新型フォレスターのキャッチコピーも「もっと、遠くへ。 もっと、家族と。」なので、これはコレで良いと思います。
確かに釣り道具やキャンプ道具を積んで一人で出掛ける…というのも、以前乗っていたフイットやヴィッツ以上の愉しさが感じられますし、プラスして仲間と乗っていても、運転、安全性能や乗り心地の向上で余裕が出来るためか、会話が弾むように感じます。


と、云うわけで、点検の後は塩尻市内の車で行ける最も標高が高いところ…高ボッチ高原へ。



車から降りたら、ひんやりとした心地良い風が吹き抜けます。





眺望はイマイチですが、色々な花が咲き誇り、まさに「信州の高原」といった感じでした。



山頂でボーッと景色を見ていたら、凄く発達した入道雲が見え、徐々に別の黒い雲が上を覆ってきたので駐車場に戻り、ベンチでパンを食べていたら、ちょうど大粒の雨が降り出しました。

コンビニのパンも高原で食べると美味しく感じますよね。

横須賀鎮守府第一特別陸戦隊と曽祖父

2018年08月04日 | 歴史




横須賀鎮守府第一特別陸戦隊というと、落下傘部隊を連想するものですが、私の母方の曽祖父がいた同名の部隊は落下傘部隊に再編成する前の部隊で、支那事変にて活躍した部隊だそうです。
「曽祖父は上海海軍特別陸戦隊にいた」と幼少時に祖父から話を聞いていたものの、その部隊ともまた違うようで…
もしかすると、横一特に所属する前後にいたのかもしれませんが…

上海海軍特別陸戦隊というと、映画化もされた有名な部隊ですが、鎮守府から独立した特殊な常設陸戦隊でした。

そんなことで、色々と疑問が浮かび、曽祖父は32歳で戦死してしまいましたが、私も現在29歳…もうすぐその年になることから、曽祖父の生涯を調べてみようと思い、最近その辺りの時代、場所を絞って調査しております。

支那事変というのも、学校では盧溝橋事件が原因と教わりますが、実際はその前から既に戦闘状態になっておりますし、ドイツが中国に加担して日中の開戦工作を仕掛けたり、何より義勇軍と称した事実の上アメリカの正規軍とは日米開戦以前から戦闘状態になっていたりと、教科書でぱっと書けるような単純なものではなく、凄く複雑な背景があるので非常に興味深いものです。
私も高校生の頃に支那事変を調べておりましたが、歴史の見方が大きく変わりました。
そして学校で教わる「歴史」は大抵が嘘ということも、自ら学ぶことによって知りました。
よくテレビに出る松本出身のNHKにいたおじさんのように、8割の事実に2割の嘘を混ぜる所からはじめ、徐々に嘘の比率を上げるやり方も汚いですが、一方的に教わるだけで、情報を取捨選択出来ない年代の子供に嘘を吹き込むのは卑怯です。

さて、話を戻しますが、曽祖父は20歳の徴兵時、戦艦陸奥の右舷測距員であったようで、当時の戦艦陸奥艦長からの辞令なのか表彰なのか記憶にありませんが、賞状のような文書を見た記憶もあります。

今では帝国海軍の戦艦といえば大和と武蔵が代名詞のようになっておりますが、大和型は終戦まで秘匿されていたため、当時の帝国海軍を代表する戦艦と言えば長門と姉妹艦の陸奥でありましたから、とても栄ある軍艦に乗艦していたのですね。

徴兵の後は故郷で農業を営み、再召集されて白襷隊として名高い竹下部隊の精鋭として松門鎮の敵前上陸の武勲を挙げております。






鉄帽を被った司令官が海軍竹下部隊司令の竹下宜豊海軍中佐だそうです。

その際使用した曽祖父の白襷もかつて祖父に見せてもらいましたが、記憶としては「すごく綺麗な字を書く人だったんだな・・・」といったところでしょうか。

そうした曽祖父でありますが、後の昭和17年5月4日に海軍の徴用船であった金剛山丸に乗船中(金剛山丸の行動記録によると、伊勢湾の警備にあたっていたようですね)、アメリカの潜水艦トラウトの雷撃によって三重県熊野市猪ノ鼻沖で撃沈され戦死しております。



戦死を伝える埼玉新聞の記事が曽祖母によって遺されておりますが、「昨年4月染谷隊の一勇士として松門鎮敵前上陸に偉勲を樹てた」と記載されております。
この「染谷隊」というのは、落下傘部隊で壮絶な最期を遂げられた染谷秀雄大尉指揮の部隊のようで、染谷大尉は竹下部隊の写真帳にも写られております。



かの有名な染谷大尉指揮下で戦っていたのですね。




また、曽祖父が銃剣を携えて警備している背面に「堀内部隊枋湖社分遣隊」との看板が掲げられており、「堀内部隊」とは落下傘部隊で名を馳せた堀内豊秋大佐のことなのかという疑問が残っておりますが、そもそも「枋湖社」は上海付近ではなく、さらに南に位置する現在の福建省厦門市にある地名なので、一体曽祖父はどこを転戦していたのだろうか?と謎が深まるばかりです。

曽祖父の動向については時系列もどのような関係であったのかもイマイチ分からないのが現状です。





昭和15年10月と書かれた橋の上で撮られた写真も、ココは一体どこなのだろうか?

余談ですが、戦前、戦中生まれの日本人というのは目つきが鋭く、凛々しい顔立ちですよね。
現代はボーッと覇気のない顔つきの人が年々増えており、同じ日本人とは思えないというのが率直な感想ですが…

自分は自分で、仲間から目付きが鋭いとは言われますが、睨んでいないのに睨まれたと言われ、対処すべく口角を上げたら怖いと言われ…そんなもんですかね。

大学生の時に曽祖父の動向を調べていれば、国立国会図書館などに行って調べることが出来ましたが、信州では図書館にも戦史や軍事関連の書籍が乏しく、インターネットが頼りになってしまい、情報が限られるのです。
これが都市と地方の情報格差というべきでしょうか。


また、堀内大佐や染谷大尉など、士官級の軍人については様々な戦歴を拝見する事が出来ますが、どんなに偉勲を樹てたところで、一等水兵(戦死による二階級特進で三等兵曹)であった曽祖父が歴史の表舞台に立つことはなく、祖父から聞いたこと、曽祖母が遺したスクラップ等が唯一の頼りです。

32歳の若さで曽祖父が戦死してしまったため、祖父と弟を女手一つで育て上げた曽祖母の苦労は言うまでもありませんし、いわゆる「名もなき一兵卒」にも、そうした大切な家族がいる「一家の大黒柱」であり、大切な故郷があったのです。
ドラマでもドキュメンタリーでも小説でも、日本軍は極悪集団のような書かれ方をしておりますが、こうしたものを背負って出征した人達がそのような悪行を働くはずが無いと私は思っております。

勝てば官軍負ければ賊軍なので、勝者によって歴史は簡単に塗り替えられますが、少なくともある程度の教育を受けさせて貰えた私たちは、その埋められた歴史の中から真実を探す義務があるはずです。

そうして国の為、故郷の為、家族の為に、かけがえのない命を懸けて名誉と言えども哀しいかな、故郷から遠い地で散華され、戦後は酷い謂れも受けた英霊の御霊は靖國神社、護國神社にお祀りされております。

A級戦犯だとか軍国主義の象徴だとか批判する人もいますが、一度は九段のお社へ足を運び、感謝の気持ちを伝えることが、先人達の意に沿う唯一無二の行いと言えるでしょう。
今では想像もつかない動乱の時代、国や大切な人の為に必死に生きた、まさに「英雄」なのですから。

天皇皇后両陛下もサイパンやパラオなどへお出ましされるのではなく、宮城の目の前に鎮座される靖国神社へ真っ先に親拝されるべきで、今のパフォーマンスのような「慰霊の旅」を見ると、正直なところ憤りを覚えます。

曽祖母は私が幼い頃に他界してしまったので、あまり記憶にありませんが、昭和14年に招集され、32歳で戦死してしまった事を考えると、夫婦として共に生活できたのは僅か2~3年しかなかったというのは、実に無念だったと思います。
そのためか、曽祖母の墓石は実家の墓石とは別に隣へ建てられており、夫婦として、曽祖父と一緒に眠っております。(曽祖父の遺骨は当然戻って来ていないため、魂として一緒になったのでありますね…)

トップ画像の母方の実家から譲り受けた海軍竹下部隊のアルバム「聖戦記念写真帳」も、曽祖母や祖父が遺してくれた私の貴重な研究材料ですが、いずれ私が歳をとって衰えた時には誰かへ譲り渡さないといけない物です。
しかしながら、市井の歴史博物館などへ寄贈してしまった場合、反日教育、自虐史観のプロパガンダとして使われたり、廃棄されるおそれが非常に高い事を案じており、やがては靖国神社の遊就館など、善良な見識ある所へ寄贈出来ればと思っております。

そして、もし何か情報や知識をお持ちの方がこの記事をご覧になり、何かしらの知識を下されば非常に幸いです。