信州塩尻発 田舎暮らし日記

生まれも育ちも埼玉県飯能市。現在は移住して長野県塩尻市民です。 田舎暮らしや趣味の事、居合道の事等々を書いております。

しおじりの山城

2019年07月28日 | 歴史






昼休みに道場として使わせて頂いている塩尻東地区センターへ行った際、パンフレットのコーナーにあった冊子「しおじりの山城」…
こんな面白い冊子があったなんて…

山城や砦は(も?)大好きです。
要は多趣味です。

塩尻市は木曽谷の付け根であり、中山道、善光寺街道、三州街道などが交わる交通の要衝、そして武田氏や小笠原氏などの戦国武将が覇権争いをしていたことなどから、多くの山城、砦、館跡があります。
自分も塩尻に移住して最初の頃は、城跡を訪ねて過去の栄華に思いを馳せていましたが、いつでも行ける状況になると行かなくなってしまいました。

スキーや登山と同じですね。長野県に移住してすぐの頃は、スキー用品を一通り揃えて休みの度にスキー場へ行ったり、奥穂高岳、三俣蓮華岳、常念岳などへ足を運んでおりましたが、次第にいつでも行ける状況だと悟ると行かなくなってしまいました。

昨年も話題のゲレ食を食べてみようと思い、滑る気は一切無いのにわざわざ白馬まで行ったものの、ぼったくり…もとい、スキー場価格のメニューで興ざめし、結局白馬の道の駅の食堂でスキー帰りの人達に混ざってカツカレーを食べたという暴挙に出ましたが、やはり怪我が怖くてスキーや登山をすることには二の足を踏んでしまいます。

とはいえ、もう一度登山はやりたいですね。
五色ヶ原辺りの360度山しかない風景や可憐な高山植物、そして自然と涙が流れる程美しい満天の星空…

話が大きく逸れてしまいましたが、信州の城の代名詞は国宝松本城ですし、個人的にも漆の黒と漆喰の白が織り成す松本城の重厚感は大好きなのですが、中世の山城跡、砦跡はまた違ったロマンがあって好きです。

自分の故郷、埼玉県飯能市の吾野にもこうした史跡があります。
吾野駅の裏山は「要害山」が転訛したとされる「りゅうがい山」と呼ばれる山があり、平安時代末期~鎌倉時代の武将、岡部六弥太忠澄の山城、屋敷跡が今なお残っておりますし、吾野駅から前坂経由で子の権現に向かうハイキングコース沿いには、砦跡もあります。
さらには、国道299号線沿いにも城跡が所々あったことから自分も山城マニアになり、大学生の頃は『新編武蔵風土記稿』から始まる山城研究もしておりました。
いずれ、吾野の岡部屋敷についても書きたいと思います。

山城の遺構といっても、建造物や基礎の石があるわけでもなく、屋敷だったと思われる平地や自然地形なのか人工物なのかすら判別困難な堀切、土橋などが残っているだけのショボイ物ですが、どのような屋敷だったのか当時の様子を想像するのが楽しいのです。

話には聞いていましたが、塩尻東地区センターから見える山々にも多くの城跡があるようですね。
涼しい時期に行ってみたいと思いますが、あの辺りは熊が出没する山域です…。



そのうち鉄砲の免許、狩猟免許を取得したら、猟のついでに行ってみようかな。
鳥獣保護区とか銃禁の区域じゃなければ。

そして塩尻市…たまに地域の人達が城跡や砦跡で狼煙を上げるイベントをしております。
それもいつか見てみたいです。
ちなみに、畑や畦道で狼煙を上げている…訂正、草を燃やしているお年寄りはよく見かけます。田舎の風景ですね。

埼玉県の誇り。そして国士舘の恩人「渋沢栄一」

2019年04月10日 | 歴史



次期の一万円紙幣の肖像は渋沢栄一になったそうですね。

今まで一人も総理大臣を輩出したことが無い埼玉県ですが、渋沢栄一を輩出したことは、総理大臣を数十人輩出したことに匹敵する偉勲ではないかと思っております。

それ程に富国強兵や殖産興業を掲げて欧米諸国に追い付き追い越そうとした近代日本を築き上げるうえで、欠かすことが出来ない人物であったと思います。

また、自分の母校国士舘の創立や運営に御尽力下さった恩人でもあり、これらを含めて今回、紙幣の肖像に渋沢栄一が選ばれた事を、大変喜ばしく思います。


ちなみに、メジャーな歴史よりもあまり知られていない歴史が好きな自分のネタになってしまいますが…

渋沢栄一の仮養子、義弟だった渋沢平九郎という人物がおります。




なかなか凛とした顔立ちで眼光が鋭く、格好良いですね。

今の言葉で表現すれば「超イケメン」ですね。


薩長を中心とする新政府軍と、幕府軍との間で起きた戊辰戦争により、江戸城は無血開城しますが、それに反発した幕臣達が江戸城を抜け出し、上野山に立て篭ります。

この勢力は渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄弟)が率いて彰義隊となりますが、その中の強硬派に反発した一派が新政府軍との衝突直前に分裂して上野山から去ります。

この去った人達は振武軍を結成し、この中には当初彰義隊を率いていた渋沢成一郎や尾高新五郎(渋沢栄一の義兄)、渋沢平九郎(実は尾高新五郎の弟)がおりました。

上野山戦争で新政府軍に敗れた彰義隊の残党は振武軍と合流した後、一橋家の領地だった飯能へ向かい、天覧山の麓に鎮座する能仁寺へ本陣を張ります。

そして5月下旬に新政府軍との戦い「飯能戦争」が行われますが、新政府軍が持つ西洋の最新式の武器の前に彰義隊、振武軍が勝てるわけもなく、敗走します。

渋沢成一郎と尾高新五郎は現在の群馬県伊香保に逃げた後、再び江戸に戻って榎本武揚率いる艦隊と合流し、函館まで転戦します。

一方の渋沢平九郎は、私の故郷飯能市吾野と、お隣り越生町の間にある顔振峠(こうぶりとうげ)まで変装して逃げます。

顔振峠の名称の由来は、かつて源義経と弁慶が奥州平泉へ逃げる際、あまりの景色の美しさに何度も振り返って見たからとも、峠道でも軽快な義経の走りにバテた弁慶が顔を振りながらついて行ったからとも言い伝えがある古い峠道ですが、この峠のずっと先に渋沢平九郎の故郷、下手計村…現:深谷市があり、何とか生家まで逃げ延びようと思ったのでしょうか?

現在でも顔振峠には茶屋(平九郎茶屋)がありますが、茶屋で一服した後に黒山村に向けて峠を下ります。

この時不幸にも、敗残兵の掃討をしていた新政府軍の斥候数名に見つかり、平九郎は小刀で敵兵の腕を切り落とす等必死に応戦しますが、腿などを銃撃されてしまいました。

その後、何とか敵兵を蹴散らす事に成功しますが、歩くこともままならず、最早これまでと悟ったのか岩の上で自刃し、僅か22年の生涯を閉じます。

これぞ坂東武者の最期の生き様を体現したような美しい人物であると感じるところです。


首は越生の高札場に晒された後、報恩寺僧侶によって葬られ、胴は全洞院に村人達の手で手厚く葬られたうえ、首から下の健康の神様として後の代まで丁重に扱われていたそうです。

やはり渋沢栄一も、このお寺には足を運んだとか。

今もなお(と言っても、自分が高校生くらいの頃の話であって、今はどうなっているのか分かりませんが)越生町では渋沢平九郎縁の史跡がしっかり管理されており、感銘を受けました。

今ではマイナーな歴史上の人物の一人でありますが、明治時代から地元の人々は「名も知らぬ江戸の人」として崇めている所に明治の人間の気風を感じます。

何せ西南の役で明治政府と干戈を交えた西郷隆盛を讃える歌、陸軍分列行進曲「抜刀隊」を作り、帝国陸軍、陸上自衛隊の分列行進で使われているのですから、敵であっても心底憎むのではなく、良い所は称賛する精神が、まさに武士道ですね。


渋沢栄一本人の話とは相当脱線しましたが、少し関連する人物のストーリーを辿ってみました。


靖国神社の遊就館

2018年09月01日 | 歴史



『 娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。
たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。
三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。
あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。
おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。
よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。
あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。
そしてそちらの「きみまち坂」につれていってもらいたい。
春のあでやかな桜花、夏なまめかしい新緑、秋ようえんなもみじ、冬清らかな雪模様など、四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。
私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。
力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね。 』

秋田県の柳原タケさん(当時81歳)が1995年に開催された「第1回日本一心のこもった恋文コンテスト」で最優秀賞を受賞された時の文です。
戦死された夫に宛てた恋文ですが、遊就館の英霊の遺書、絶筆のコーナーにて紹介されております。
いつもこの遺書、絶筆のコーナーを少し拝見している辺りで時間が一杯になってしまうため、まだ6割程しか拝見しておりませんが、今年の終戦の日に靖国神社を御参りし、遊就館を拝見した中で、最も心に残った展示です。
これを拝見した途端、目頭が熱くなりました。

過去記事にて紹介した、私の曽祖父も32歳で戦死しており、結婚後に召集されているので、曽祖母と夫婦として暮らせたのは僅か2~3年ほど…まさに曽祖母も同じ心境だったのかなと思うと、非常に胸が詰まります。

そして、英霊の方々が遺された遺書にも、これからの長い人生を共に過ごすはずだった妻や恋人などに宛てたものが多く、そのお互いが強く感じたであろう無念は計り知れないものです。


私もかつて国を守る仕事をしておりましたが、まだ20歳頃でしたから、自分の家庭があるわけでなかったため(今もありませんが…)有事の折に例え戦死しようが殉職しようが何も怖くなく、むしろ国や人のために戦って散れば名誉だと思っていたものですが、恋人や家庭を持ち、生きては帰れない戦地に赴く時、同じように考えられるかといえば、それは極めて難しいでしょう。

本当に今の平和があるのも、当時の方々のそうした犠牲、気持ちが積み重ねられての産物であり、それに対する感謝、哀悼を決して忘れてはならないと思った次第です。

遊就館の最初の展示にある「ますらをの 悲しき命積み重ね 積み重ね守る 大和島根を」という短歌が記憶に残っておりますが、まさにこれがその崇高な精神性を表しているように思います。
これを現代人の価値観で見たら「国粋主義」とか「軍国主義」といった言葉で批判する者もいるのかも知れませんが、大切な誰かのため、かけがえのない故郷のために身を呈してそれを守ろうとする、強い勇気、愛情、責務をそのように蔑まれる謂れは無いと私は思います。

そもそも、当時の時代背景として、軍国主義は何ら悪い事ではないのですが、日教組やその他赤い人達に一方的に刷り込まれ、何ら自主的に調べようともせずに歳だけ重ねた場合は、そのような時代背景さえ考え無しに批判しますから、タチが悪いと思っております。




そして、今回遊就館で最も行いたかったことは、大展示室にある戦車でお眠りになる英霊への合掌でした。

昨年の11月、関東甲信越居合道大会の翌日に靖国神社をお参りし、ここ遊就館を見学した折のことです。
この戦車の壁側の側面には、米軍の速射砲が命中したと思われる穴があるのですが、そこから内部の機銃や梯子、ミッションの状況が見学出来たため、しばし拝見しておりましたが、同行していたお弟子さんが穴を見たら、中に人の気配がしたということで、しばらく肩が重かったり、ご自宅で誰もいないのに足音がしたり部屋の扉が勝手に開閉したりと、不思議な現象があったそうで、従って、その穴を覗いてしまったお詫びを伝えられればと思っておりました。
ちなみに、お茶やおにぎり、味噌汁を数日お供えしたところ、不思議な現象は止んだそうです。
いわく、靖国神社から連れて来てしまったと思われる「英霊」だと予想がついたため、恐怖というより、感謝しておもてなしをしようと思ったということでした。
その後、私共々、松本の長野縣護国神社へ御参りしました。



この遊就館に展示されている九七式中戦車は、陸軍戦車第九連隊第五中隊所属の戦車「みたて号」で、サイパン島に配備されていた車両です。
昭和19年6月17日午前4時頃、上陸した米軍に対して、戦車後方のエンジン上に歩兵数名を乗せて総攻撃を仕掛けた際、米軍の猛攻撃を受けて擱座し、その後土に埋められていたものを掘り起こされ、車内のご遺骨や遺品も回収されて日本へ帰還。
そして、今は靖国神社の遊就館にて展示されているわけですが、考えてみると、遊就館に展示されている零式艦上戦闘機や艦上爆撃機彗星、特攻兵器回天等は地上撃破されていたり出撃する前の物でありますが、この大展示室の隅に静かに安置されている九七式中戦車だけは、唯一戦場で兵士が乗り組み、敵と干戈を交え、車内や車上で数名の兵士が戦死されている「棺」そのものなのです。
遊就館1階のエントランスに展示されている、沖縄の洞窟にて発見された、弾痕だらけの榴弾砲も、もしかするとそれを操作していた砲兵さん共々散華された「墓標」なのかもしれませんし、銃弾が直撃して穴が開いた鉄帽もあり、そうして誰かの大切な親、子、夫であっただろう人の命が失われていったことを、この平和な時代に伝えて下さっているのであります。

今でももしかすると、英霊が休まれているかも知れません。
この記事をご覧になり、遊就館を見学される機会がお有りの方は、この戦車の前では手を合わせて頂ければ幸いです。

今や観光やダイビングのために日本人の馴染み深いサイパン島ですが、あの島にもこうした歴史があります。
そして、お弟子さんが連れ帰ってしまった英霊…私の勘繰りではありますが、そのサイパン島の隣、テニアン島で松本陸軍歩兵第五十連隊が玉砕しており、その信州出身の英霊の魂が、故郷に帰りたい一心で戦車に乗り込み、お弟子さんに乗り移り、今ようやく故郷の信州へ帰ることが出来たのかと思っております。




大展示室中央に、各戦場に遺されていた遺品が展示されておりますが、霊感が無い私も、この場所の空気の重さ、張り詰めた空気は分かります。
しかしながら、冷やかしのつもりではなく、しっかり見学して歴史を学ぼうとする気持ちさえあれば、その気も何ら悪いものでは無いと思います。



ちなみに、そこの展示の片隅に、注射のアンプルが置いてありました。
老夫婦が連れたお孫さん(ひ孫さん?)3人が「何だろうこれ?」と興味を示しており、そのうち一人が「お弁当の醤油とか入れるものじゃない?」と言っていた事が可笑しくて笑ってしまい、「これは注射のお薬を入れるものだよ。ここに注射器もあるでしょ。」と話したら、「へえ~。ホントだここに注射器もある。こんな昔から注射器ってあったんだねえ。 教えてくれてありがとう」と言われ、とても嬉しく思いました。
アンプルが弁当の醤油ボトルと思いつく子供の発想の豊かさに感心し、さらにこの子供たちからすれば、子供であることもさる事ながら、自分より1世代下がることもあり、凄く昔のものというイメージがあるのですね。



かく言う私も、ビール瓶の色や形状が今と全く変わらないことに驚きました。
戦場の束の間の休息で、戦友と楽しくこれを飲んでいたであろう兵隊さんは、果たして御無事だったのかと気にかかるものです…




特攻機の桜花です。
双発の陸上攻撃機の胴体に吊り下げ、敵艦隊の近くで切り離してロケットエンジンにて加速。その後は滑空して敵艦船に体当たりする特攻兵器ですが、敵艦隊に辿り着く前に陸上攻撃機共々撃ち落とされてしまう事が多く、米軍のガンカメラでもその映像が遺されております。
かつて学生の頃に、この桜花の訓練生だったおじいさんに話を聞くことが出来ました。
「普通の飛行機ではなく、もはや体当たりするだけのこの機体に乗ったことについて、どう思われましたか?」と尋ねたところ、「私は飛行機の飛ばし方もましてや回避行動などまともに教わっていない状況だったのだから、むしろそこそこ経験を積んだパイロットに乗せて行って貰った方が安心だった。どうせ死ぬのだから、零戦でも桜花でも何に乗っても同じだよ」と仰った時は、「こんな物に乗せられて…」という回答を予想していたため、まさかのお答えで驚きましたし、達観した人間の境地を垣間見た気がしました。






特攻兵器回天…言うまでもなく人間魚雷と言われている潜水艇です。
本来、敵に最大限の損害を与え、自分たちはより損害が少なく生還する計画が「作戦」というものですが、特別攻撃なる計画で、後の日本を支える、愛国心ある優秀な学生や若者を失ってしまった損害は極めて大きく、戦後日本もそうした優秀な人材を消耗させず残していれば、もっと強大かつ豊かな国になっていたに違いないと思っております。


一方で、日本人の恐ろしいほどの意地というものは戦後の世界に伝わることになり、人類史上比類なき愛情、自己犠牲、郷土愛が実を結んだ行為として永く伝えるべきであり、散華された英霊やその精神を忘れてはならないと思います。

そして…私は2年ほど前から鉄工の仕事をしておりますが、回天の溶接箇所を見る限り、1年半前の、ど素人だった私の溶接と同じような下手くそなビードになっており(今でもまだまだダメですが…)、戦争末期の被覆アーク溶接で使う溶接棒や機械の質も、おそらく凄く悪いものだったのでしょうが、ベテランの工員が皆徴用されて前線基地等に送られ、勤労動員で来た溶接未経験の学徒達が製作したのだろうかと想像できますし、今の溶接機でも高圧容器の溶接はそれなりのスキルが要求されますが、明らかに溶接不良の兵器が潜水時や攻撃を受けた時の衝撃に耐えられる代物なのか…ましてやこれは、兵士が搭乗して生きては帰れない「棺」になるものである…と考えると、非常に悲しく思います。














その他にも、艦上爆撃機彗星や曽祖父が一時期乗艦していた戦艦陸奥の副砲、当時使用されていた機関銃など、色々な物が展示されております。

人により捉え方は様々ですが、今の工業大国になった日本と異なり、有色人種の中では最も文明が発達していたものの、白人国家、殊に欧米列強と比べると物や技術が乏しく、それを補うべく絶え間ない努力と苦労によって、何とか軍事国家となり、白人による世界征服を最後の最後で防いだのが、大日本帝国の姿であったと私は考えております。

今の時代に北朝鮮のような軍事国家になれば世間の笑い物になって然るべきでありますが、現代のこうした物差しを以て当時の軍事国家を考えること自体が非常に愚かです。

政策や戦略、戦術として反省すべき点は多々ありますが、現代日本人が思っている以上に貧乏で未発達だった当時の日本が、如何にして超大国アメリカやその他列強諸国と対峙することを迫られ、対処したか…展示を見学すると、それが見えてくると思います。





最後にご紹介するのは、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判で連合国側が全員一致で東條英機首相など所謂A級戦犯と言われる昭和殉難者を有罪にしようとした思惑を唯一批判し、全員の無罪を主張したインドの法学者ラダ・ビノード・パール判事の顕彰碑です。

そもそも大東亜戦争における戦争犯罪を定義する法自体が事後法であるため違法であり、そもそも「極東軍事裁判」といっても、国際法学者の判事はこのパール判事のみという、お粗末なものでした。
裁判所の裁判長席に隣の家に住むパート従業員のおばちゃんが座り、単独審を行うのと何ら変わりない…そんな事が罷り通る筈ないですよね?

A級戦犯とされた方々の名誉回復は昭和27年4月に取り掛かられ、国会決議によって赦免されているものであります。
今や単なる左翼団体と化している日弁連や社会党ですら名誉回復の署名活動や演説を行っておりました。
従って、マスコミや果ては皇后陛下すら口にするA級戦犯というものは存在しておりません。
どうして今A級戦犯なるものを蒸し返すかといえば…そういうことですよね。

以下、パール判事の言葉です。


判決文を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。
しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。
そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。
どうかわたくしの判決文を通して充分研究していただきたい。
日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。誤られた歴史は書きかえられねばならない。


日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼らの戦時謀略にごまかされてはならぬ。
日本が過去の戦争において国際法上の罪を犯したという錯覚に陥ることは、民族自尊の精神を失うものである。
自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。
日本よ!日本人は連合国から与えられた『戦犯』の観念を頭から一掃せよ。

 
1950年のイギリスの国際事情調査局によると、「東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない」と書いてある。
要するに、彼ら欧米は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正統性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪であると烙印し、罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いない。


日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。強いて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらよい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!
と私は言いたい。





今の日本人に思いつくことが多々あるのではないでしょうか?

そして、この顕彰碑にパール判事の判決文の結びの文言が彫られ、このように書かれています。


『 時が、熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう。 』


歴史は勝者によって塗り替えられるものであり、それが史実であるかの真偽は問題ではありません。
しかし、本当に日本人が日本人であり、豊かな国、楽しい暮らし、素晴らしい歴史や文化を少しでも感じるのであれば、国民個々人がアメリカをはじめとした白人国家によって埋められた日本の正しい歴史を掘り返し、洗浄する必要があると思うのであります。
さもなければ、外国人と対等に会話し、「日本の文化は~」などと話す資格は無いと思いますし、アメリカの植民地の住民と胸に刻んで卑しく生きる他ないでしょう。


終戦の日 九段の曽祖父の元へ

2018年08月15日 | 歴史


平成最後、73回目を迎えた終戦の日…八月十五日、靖國神社へ参拝して参りました。



九段坂下をはじめ、至る所に機動隊が配置された物々しい雰囲気でしたが、大東亜戦争にて戦死した曽祖父をはじめ、近現代国家日本の礎となられた246万6千余柱の英霊に対し、心からの感謝と哀悼の意を伝え、今後の日本の平和と繁栄、武運長久をお祈り申し上げた次第です。

また、大村益次郎公の像横で開催されていたフォーラムを少し拝見致しました。
開会に当たり、終戦の詔書の玉音放送を拝聴致しましたが、たった73年前の同じく日射しが強いこの日、宮城外苑や最前線の特攻基地などで、悔し涙を流し拝聴された先輩方の御心を察するに、鳥肌が立って身震いし、大変胸が詰まる思いを受けました。

その先輩方が持ち続けた「臥薪嘗胆」の思いが戦後、経済で世界トップの国にまで這い上がる原動力になったのでしょう。
本当に先人達には感謝の念が募るばかりです。
この日本民族の名に恥じぬよう、私も気を引き締め、自身の正しいと思う道に邁進したいと決意するものであります。

また、正午の黙祷は、能楽堂近くの桜の木の陰で行わせて頂きましたが、開始直後に無風だった境内に突如風が吹きました。
それも都内の蒸し暑いものではなく、信州の高原のような、とても涼しい風であり、英霊の御霊が鎮まれているのかと感じて目頭が熱くなった次第です。



普段のお社と違うところは、まず参道を埋め尽くさん程に、多くの参拝者が訪れていたことは然ることながら、何より子供連れの若い御家族や若い女性が多く見受けられたといったところでしょうか。
これはとても素晴らしい事だと思います。

国家繁栄の源は、子供への正しい教育であることは歴史が物語っておりますが、その教育の根幹である幼児期の教育、躾、具体的には常識等社会性の形成は、何より母親…即ち女性に起因するところが極めて大きく、女性の教育こそ、最も重要であると私は考えております。

現に、十代、二十代の若さで散華された英霊の遺書においても、特に母親が掛けてくれた慈愛に対する感謝と決別の悲しみが多く綴られており、それを物語っているのではないでしょうか。

母親という存在は、時に優しく、時に父親とは比べ物にならない程厳しく躾ける事ができるものですし、その根底には、これまた父親では出来ない程、母親自身のありとあらゆる物事を犠牲にしてまで、子に尽そうとする愛情が存在しているからなのでしょう。

私も母が生きていた頃、非常に腹が立つことや理不尽を強く感じて常に反発していましたが、今この年になって思うと、感謝に尽きない事があります。
しかしながら母には、お盆などで帰省した際、仏壇に向かって手を合わせて気持ちを伝える事しか出来ず、生前に何でも良いからとにかく「ありがとう」と言っておけば良かったと、非常に後悔しております。
おそらくそれを含めて、母親の強さだったのかと思うものでありますが、あくまでそれは私の言い訳であって、埋め合わせることが出来ないこうした後悔が残っております。


話が逸れてしまいましたが、兎にも角にも、戦後の学校教育は、まさに自虐史観、反日思想、社会主義的に極端な平等主義、人間愛の徹底といったことの植え付けであると思いますが、少なくともこれら何れに対して疑問を持たれている方が大勢いらっしゃることは、非常に喜ばしいことです。

一方、全国戦没者追悼式における天皇陛下のお言葉に於いて、四年連続して「深い反省」と仰られたことは、素直に申し上げると憤り…むしろ怒りすら感じました。

確かに戦略、戦術に於いて反省する点は多々ありますし、とてつもない犠牲が出てしまった事は事実ですが、主語が抜けて誰のどのような反省なのかも分からないお言葉で「反省」の文言を用いてしまうと、日本は悪事を働き、陸海軍将兵や国民はその悪に加担したと仰っているように読み取れてしまいますし、少なくともマスコミはそう解釈しています。
僭越ながら、今上陛下の本心はそのマスコミと同じなのでしょう。
宮城の目の前に鎮座される靖国神社すら御親拝出来ずして、パラオやサイパンには行かれる…単にバカンスへ行く口実に「慰霊」をつけているとしか考えられません。
GHQや特定の日本に巣食う民族、カルト宗教などの影響があるのは分かりますが、皇室も地に堕ちた…これが私の率直な見解です。
そもそも大東亜戦争の大義、そしてその結果について少なくとも私は、白人至上主義だった地球上の全ての人類が、ようやく同じテーブルに着くことが出来るようになった、極めて意義のある戦争だったものだと確信しております。
従って「反省」の言葉以上に、尊い命を危険に晒しても尚、日本のみならず有色人種の解放、独立に先駆けて散られた英霊に対する「称賛」と「感謝」の言葉が先んずるべきであると考えます。

この頃のトランプ大統領がトルコに掛けている難癖を見れば気付くでしょうが、あのような圧力をかけ、摩擦を起こして相手国から開戦に踏み切らせる事が、昔も今もアメリカ等白人国家の常套手段です。
当時は戦争になるハードルが今より相当低かった時代ですから、そこで白人の主張を飲んで言いなりになり、傀儡、奴隷となるか、負ける可能性が極めて高くても民族の自存自衛のために戦うかの選択に迫られたに他ならず、そうした当時の人々の勇気を讃え、苦労に感謝せずして、どうして今日の日本人が日本人として在り続け、天皇陛下が天皇陛下として君臨されていられるのか、御考えが至らないものでしょうか?

また、インドや東南アジア、果ては当時の敵であった白人の人々までもが靖國神社へ御参りし、遊就館を見学して涙されているているにも関わらず、未だ日本人の中にも靖國神社の存在に否定的な者がいることは、非常に恥ずかしいことだと思います。

そうした方々は「靖國神社は軍国主義の象徴」、「遊就館は戦争賛美のプロパガンダ」と主張していると聞きますが、一体どこにそのような印象を受ける所があるのか疑問に思います。

さらに、帰宅してネットのニュースで見たら、色々な怪しい団体が九段周辺でデモをしていたようですね。
それで機動隊が配置されていたのかと納得しましたが、近年あらゆる所で行われているデモには、言論の自由、思想信条の自由を盾にして、全く責任が無い主張や行動が目立つように感じます。
こんな無責任な人を英霊が天からご覧になったらどう思われるか…そもそも左右いずれの団体にも日本人ではない特定の民族の人達が多いようですが、かつて「皇土」と呼ばれたこの島国がこうして穢されているのは目に余る所があります。



前回の関東甲信越居合道大会の翌日に御参りした時は、遊就館を6時間ほどかけてゆっくり見学出来ましたが、今回は見学者が多かったため、4時間程で廻ってきました。
それでもまた新たに感じるものがあり、何度訪れても胸に響くものがある、たいへん尊い施設です。
遊就館については、また後日記載したいと思います。

横須賀鎮守府第一特別陸戦隊と曽祖父

2018年08月04日 | 歴史




横須賀鎮守府第一特別陸戦隊というと、落下傘部隊を連想するものですが、私の母方の曽祖父がいた同名の部隊は落下傘部隊に再編成する前の部隊で、支那事変にて活躍した部隊だそうです。
「曽祖父は上海海軍特別陸戦隊にいた」と幼少時に祖父から話を聞いていたものの、その部隊ともまた違うようで…
もしかすると、横一特に所属する前後にいたのかもしれませんが…

上海海軍特別陸戦隊というと、映画化もされた有名な部隊ですが、鎮守府から独立した特殊な常設陸戦隊でした。

そんなことで、色々と疑問が浮かび、曽祖父は32歳で戦死してしまいましたが、私も現在29歳…もうすぐその年になることから、曽祖父の生涯を調べてみようと思い、最近その辺りの時代、場所を絞って調査しております。

支那事変というのも、学校では盧溝橋事件が原因と教わりますが、実際はその前から既に戦闘状態になっておりますし、ドイツが中国に加担して日中の開戦工作を仕掛けたり、何より義勇軍と称した事実の上アメリカの正規軍とは日米開戦以前から戦闘状態になっていたりと、教科書でぱっと書けるような単純なものではなく、凄く複雑な背景があるので非常に興味深いものです。
私も高校生の頃に支那事変を調べておりましたが、歴史の見方が大きく変わりました。
そして学校で教わる「歴史」は大抵が嘘ということも、自ら学ぶことによって知りました。
よくテレビに出る松本出身のNHKにいたおじさんのように、8割の事実に2割の嘘を混ぜる所からはじめ、徐々に嘘の比率を上げるやり方も汚いですが、一方的に教わるだけで、情報を取捨選択出来ない年代の子供に嘘を吹き込むのは卑怯です。

さて、話を戻しますが、曽祖父は20歳の徴兵時、戦艦陸奥の右舷測距員であったようで、当時の戦艦陸奥艦長からの辞令なのか表彰なのか記憶にありませんが、賞状のような文書を見た記憶もあります。

今では帝国海軍の戦艦といえば大和と武蔵が代名詞のようになっておりますが、大和型は終戦まで秘匿されていたため、当時の帝国海軍を代表する戦艦と言えば長門と姉妹艦の陸奥でありましたから、とても栄ある軍艦に乗艦していたのですね。

徴兵の後は故郷で農業を営み、再召集されて白襷隊として名高い竹下部隊の精鋭として松門鎮の敵前上陸の武勲を挙げております。






鉄帽を被った司令官が海軍竹下部隊司令の竹下宜豊海軍中佐だそうです。

その際使用した曽祖父の白襷もかつて祖父に見せてもらいましたが、記憶としては「すごく綺麗な字を書く人だったんだな・・・」といったところでしょうか。

そうした曽祖父でありますが、後の昭和17年5月4日に海軍の徴用船であった金剛山丸に乗船中(金剛山丸の行動記録によると、伊勢湾の警備にあたっていたようですね)、アメリカの潜水艦トラウトの雷撃によって三重県熊野市猪ノ鼻沖で撃沈され戦死しております。



戦死を伝える埼玉新聞の記事が曽祖母によって遺されておりますが、「昨年4月染谷隊の一勇士として松門鎮敵前上陸に偉勲を樹てた」と記載されております。
この「染谷隊」というのは、落下傘部隊で壮絶な最期を遂げられた染谷秀雄大尉指揮の部隊のようで、染谷大尉は竹下部隊の写真帳にも写られております。



かの有名な染谷大尉指揮下で戦っていたのですね。




また、曽祖父が銃剣を携えて警備している背面に「堀内部隊枋湖社分遣隊」との看板が掲げられており、「堀内部隊」とは落下傘部隊で名を馳せた堀内豊秋大佐のことなのかという疑問が残っておりますが、そもそも「枋湖社」は上海付近ではなく、さらに南に位置する現在の福建省厦門市にある地名なので、一体曽祖父はどこを転戦していたのだろうか?と謎が深まるばかりです。

曽祖父の動向については時系列もどのような関係であったのかもイマイチ分からないのが現状です。





昭和15年10月と書かれた橋の上で撮られた写真も、ココは一体どこなのだろうか?

余談ですが、戦前、戦中生まれの日本人というのは目つきが鋭く、凛々しい顔立ちですよね。
現代はボーッと覇気のない顔つきの人が年々増えており、同じ日本人とは思えないというのが率直な感想ですが…

自分は自分で、仲間から目付きが鋭いとは言われますが、睨んでいないのに睨まれたと言われ、対処すべく口角を上げたら怖いと言われ…そんなもんですかね。

大学生の時に曽祖父の動向を調べていれば、国立国会図書館などに行って調べることが出来ましたが、信州では図書館にも戦史や軍事関連の書籍が乏しく、インターネットが頼りになってしまい、情報が限られるのです。
これが都市と地方の情報格差というべきでしょうか。


また、堀内大佐や染谷大尉など、士官級の軍人については様々な戦歴を拝見する事が出来ますが、どんなに偉勲を樹てたところで、一等水兵(戦死による二階級特進で三等兵曹)であった曽祖父が歴史の表舞台に立つことはなく、祖父から聞いたこと、曽祖母が遺したスクラップ等が唯一の頼りです。

32歳の若さで曽祖父が戦死してしまったため、祖父と弟を女手一つで育て上げた曽祖母の苦労は言うまでもありませんし、いわゆる「名もなき一兵卒」にも、そうした大切な家族がいる「一家の大黒柱」であり、大切な故郷があったのです。
ドラマでもドキュメンタリーでも小説でも、日本軍は極悪集団のような書かれ方をしておりますが、こうしたものを背負って出征した人達がそのような悪行を働くはずが無いと私は思っております。

勝てば官軍負ければ賊軍なので、勝者によって歴史は簡単に塗り替えられますが、少なくともある程度の教育を受けさせて貰えた私たちは、その埋められた歴史の中から真実を探す義務があるはずです。

そうして国の為、故郷の為、家族の為に、かけがえのない命を懸けて名誉と言えども哀しいかな、故郷から遠い地で散華され、戦後は酷い謂れも受けた英霊の御霊は靖國神社、護國神社にお祀りされております。

A級戦犯だとか軍国主義の象徴だとか批判する人もいますが、一度は九段のお社へ足を運び、感謝の気持ちを伝えることが、先人達の意に沿う唯一無二の行いと言えるでしょう。
今では想像もつかない動乱の時代、国や大切な人の為に必死に生きた、まさに「英雄」なのですから。

天皇皇后両陛下もサイパンやパラオなどへお出ましされるのではなく、宮城の目の前に鎮座される靖国神社へ真っ先に親拝されるべきで、今のパフォーマンスのような「慰霊の旅」を見ると、正直なところ憤りを覚えます。

曽祖母は私が幼い頃に他界してしまったので、あまり記憶にありませんが、昭和14年に招集され、32歳で戦死してしまった事を考えると、夫婦として共に生活できたのは僅か2~3年しかなかったというのは、実に無念だったと思います。
そのためか、曽祖母の墓石は実家の墓石とは別に隣へ建てられており、夫婦として、曽祖父と一緒に眠っております。(曽祖父の遺骨は当然戻って来ていないため、魂として一緒になったのでありますね…)

トップ画像の母方の実家から譲り受けた海軍竹下部隊のアルバム「聖戦記念写真帳」も、曽祖母や祖父が遺してくれた私の貴重な研究材料ですが、いずれ私が歳をとって衰えた時には誰かへ譲り渡さないといけない物です。
しかしながら、市井の歴史博物館などへ寄贈してしまった場合、反日教育、自虐史観のプロパガンダとして使われたり、廃棄されるおそれが非常に高い事を案じており、やがては靖国神社の遊就館など、善良な見識ある所へ寄贈出来ればと思っております。

そして、もし何か情報や知識をお持ちの方がこの記事をご覧になり、何かしらの知識を下されば非常に幸いです。