原谷 ミニバス通信

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「体罰?暴力?」 指導について考える…その2

2013-02-02 06:42:26 | バスケ…指導のこと

【誰が、どうやって解決するか】

 テレビ番組等でこの問題が取り上げられるとき、実績あるアスリートが呼ばれることが多い。
 彼らは自身の経験を訊ねられることになるが、ほとんどは「私はそういう経験はない」と答えている。そして、口をそろえて出るのは「殴って指導されても本当に強くなることはありません」という言葉が続けられる。
 しかし、指導の現場にいる者にとってこのような会話は異様に伝わってくる。
 中学や高校ならば、全国大会どころか県大会クラスの実力でも暴力的な指導の噂話を耳にすることがある。
 自分が直接見ているわけではないし、暴力など振るわずに真摯に努力している指導者が多くいることも承知している。それにしても、大きな実績を持つアスリートに対しては「体罰の必要がない」か、彼らが「体罰を必要としない優秀な指導者の下にあった」か、というほかに考えにくい。


 もしも指導者が体罰を受けた経験を持っていたらどうだろう。それは容易に想像できる。基本的に叩かれて育った者は叩きながら育てる。
 そして、その指導者が叩かれながら指導される中で見合う結果(成績)を手に入れることがあったなら余計に厄介なことになる。
 暴力的な指導は彼の中で正当化され、自分が傷つけられたことは帳消しどころか美化された「愛の鞭」と化す。日本女子柔道監督の会見の言葉の中にこのことが表れている。

 脳科学者の林成之氏によれば、不条理なことも繰り返し行われると「脳の性質」によって正しいと思ってしまうという。過去の自分を否定したくない、存在意義を認めて欲しい、という本能とも関係があるらしい。
 そんな、過去に肉体的な犠牲者だった、そして現在も精神的に犠牲者である指導者にとっては、この件を解決することは大変厳しいだろう。
 むしろ、暴力的に指導されながら何も良い結果を得られず、自分に暴力を加えた指導者に恨みのひとつも持つ指導者の方が解決しやすいとも考えられる。

 いずれにしても被害者に意識を同化させての第一歩だ。指導者という立場から離れなければ何もはじまることがない。私たち指導者はすべてが「当事者」なのだ。

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