音楽と映画の周辺

核心ではなく, あくまでも物事の周辺を気楽に散策するブログです。

藤原滋/秋田市立御野場中学校吹奏楽部 M.アーノルド『ピータールー序曲』

2009-07-24 18:56:19 | 吹奏楽
 去る7月12日,全日本吹奏楽コンクール第51回秋田県中央地区大会の中学校の部が開催された。
所用のため,前半の8校を聴き終えたところで会場を後にせざるをえなかったのだが,出口で偶然,知人と遭遇。後半9校とシードの山王中を聴きに来た彼女から「(前半は)どうだった?」と聞かれ,御野場中の演奏について話そうと口を開きかけた瞬間,突然ウルウルきてしまった。これはいけないと思い,時計を指さしながら時間がないそ振りをして帰ってきてしまった。彼女は狐につままれたような顔をしていたけれど,おそらく,あのまま話しをしようとしても涙声で言葉にならなかったと思う。8校いずれもハイレベルの演奏だったが,今思い返してみても,課題曲,自由曲ともに,御野場中の演奏は一頭地を抜くものであった。

 課題曲の『マーチ「青空と太陽」』は,5月4日の「夢の響演」と題されたジョイント・スプリング・コンサートで,柴田宏二先生指揮の湯沢南中の演奏で聴いており,初聴きではなかった。因みに,同じ日,『16世紀のシャンソンによる変奏曲』は北野英樹先生指揮の相馬市立向陽中学校,『ネストリアン・モニュメント』は土屋和彦先生指揮の玉川学園中学部,『コミカル★パレード』は木内恒先生指揮の山王中で,それぞれ聴くことができた(これらの4曲が今年度のコンクールの課題曲であることは,各校単独の演奏後(4校の合同演奏の前に),木内先生のMCがあり,それで知った。)。
『マーチ「青空と太陽」』を一聴しての管理人の感想は,いかにも課題曲然としていて,いささか面白味に欠ける,というもの。また,演奏はし易いのかもしれないが,これで高評価を得るのはなかなか難しいのでは,とも。
さて,前半8校中,課題曲に同曲を選んだのは4校。演奏順で言うと,飯島中,西中,南中,そして御野場中だが,前3校では,南中がひとつ上を行く出来。「?」と思ったのは飯島。頭から,打楽器が遅れ気味というのか,管が走り気味というのか,かなりずれていた。後半は持ち直したが,失礼ながら,「あの飯島にして・・・」という出来であった。
同曲の前半最後の演奏は御野場中。安定感たっぷりで,「鳴らすところ」と「抑えるところ」を心得た大人の演奏。言ってみれば,3分半の中に耳を傾けるだけのストーリーがあった。この点では,南中を完全に上回っていたように思う。これ以上はなかなか望めない,そんな気さえする演奏であった。

 いよいよ,自由曲の『ピータールー序曲』。穏やかに始まる有名な導入部で,少し,木管に危ないところがあったが,全体の出来はそれを忘れさせる程素晴らしかった。市民と官憲の衝突を描写した金管群の咆吼,炸裂する打楽器の連打とも,迫力十分。惨劇を悼むしみじみとした木管の音色も胸に迫った。
驚いたのは,コラール風の導入部に,無慈悲な官憲の行進を描写するスネアドラムが入り,金管が不協和音を重ねて不穏な空気を醸し出すあたりから。管理人の周辺だけだろうか,曲の進行とシンクロするかのように,客席もザワザワし始めたのだ。それは,さながら,1819年8月16日,ヘンリー・ハントの演説を聞こうとセント・ピーターズフィールドに集まった市民が官憲の気配を察知した時のデジャヴーといったところ。何を大袈裟なと笑われる向きもあるかもしれないが,それくらい御野場の演奏には真に迫るものがあった。
ひとつ注文を付けさせてもらえるのなら,スネアドラムはもっと聞こえるか聞こえないかの小さな音から入り,徐々に,徐々にクレッシェンドしてきて欲しい。その方が,「ヒタヒタと迫り来る官憲」の描写として一層効果が上がると思う。もちろん,演奏者は百も承知なのだと思うが,この日の演奏は,極端な言い方をさせていただくとして,幾分,ワープして来た官憲がセント・ピーターズフィールドに舞い降りた,という気味もなくはなかった。これは,「粗探し」の誹りを承知で言うのであって,御野場中の皆様にはご寛容をお願いしたい。

 翌13日,結果やいかにと秋田魁を覗いたが,未だ地区予選の段階ということもあってか,コンクール関連の記事は見あたらなかったが,数日経って,件の彼女から御野場中が金賞に加え,最優秀賞を受賞したと聞かされた。後半にも有力校の登場はあったが,御野場中の最優秀賞受賞は半分聴いたに過ぎない管理人にも至極当然のことのように思われた。審査員は,当然のことながら,聴く耳を持っておられ,正当な評価をされたのだと思う。

 最後になったが,素晴らしい演奏を聴かせて下さった藤原先生と御野場中吹奏楽部の皆さんには心から御礼を申し上げたい。
皆さんは,1969年1月29日,ベルリン・フィルのフルーティストのオーディションで,ヨハネス・メルテンスが,オーディション終了直後,ジェームズ・ゴールウェイにかけた言葉をご存じだろうか。ミュンヘンでのオーディションは,通例にならい,帝王と居並ぶ楽団員全員の前でおこなわれた。帝王が矢継ぎ早に繰り出す「モーツァルトを吹きなさい」,「次は『ダフニスとクロエ』だ!」,「牧神の午後だ!」,「次は『英雄の生涯』をやり給え。」,「次はブラームスの『4番』だ!」,「外で待ち給え!」に苛立つゴールウェイ。
オーディション終了直後,そんなゴールウェイに声をかけたのが,自身,ベルリン・フィルのフルーティストで,オーディションにも立ち会ったヨハネス・メルテンスだった。昼食中だったメルテンスは,ゴールウェイのことをオーディションで優れた演奏をしたフルーティストその人と認め,オレンジを頬張りながら近付いてきて,こう囁いたのだという。

「君が一番だ。これはもうなんたって絶対に君が一番だよ。もしも君を取らなかったら,あの連中の頭はどうかしてるとしか言いようがない。」

そう,前半を聴いただけの管理人も,知遇を得ない藤原先生や部員の皆さんには無理としても,出口で遭った友人には同じようなことを言いたかったのだ。「御野場が一番だった。」と。それは,結局のところ,感動のあまり言葉にならなかったのだけれど,皆さんはそれが一好事家の思い込みなどではなかったことを実証して下さった。重ねて御礼を申し上げたい。ありがとう。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« カラヤン/ベルリン・フィル ... | トップ | 北野英樹/相馬市立向陽中学校... »

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (hanbo)
2009-10-14 17:03:03
 1969年,ジェームズ・ゴールウェイはベルリン・フィルに入団した。彼の自伝『わがフルート人生』(シンフォニア,中居実訳)には,「ほかの楽員たちとはとくに極めて親しい関係は作らなかった。」とあるが,他方で,ヨハネス・メルテンスについては,「私たちはそもそもの始めから互いに「ハンス」「ジミー」と呼び合う間柄になったのだった。」とある。
そのきっかけは,本文記載のエピソードのほか,メルテンスが,自己紹介の折り,自分自身を「○○教授」や「△△博士」と呼ぶドイツの流儀にはよらず,ただ一言,「私の名前はハンス・メルテンスです。」とだけ述べたことにもあったようだ。本文記載のそれとあわせ,メルテンスの真っ正直で飾らない人柄を示すエピソードとして,管理人には忘れがたいものである。
ゴールウェイが,カラヤンとの確執等もあり,ベルリン・フィルを退団したのは,1975年のこと。そして,その先後関係はわからないものの,メルテンスが亡くなったのも同じ年だった。彼の訃報に接したゴールウェイの悲しみはいかばかりであったろう。

 さて,フルーティスト,ヨハネス・メルテンスの名前は,管理人の知る限りでは,例えば,カラヤン/ベルリン・フィルほか『マタイ受難曲』(1971年,1972年録音)の演奏者リストの中に見出すことができる。これは今のところ未聴だが,いつの日か聴いてみたいディスク。1番を吹いているのがアンドレアス・ブラウであることは容易に想像がつく。しかし,そうではあっても,ヨハネス・メルテンスのフルートの一端に触れられるのなら,触れてみたいのだ。

返信する