添心爛漫(てんしんらんまん)

~心に思ったことを添えて載せていきます~

おかん最後に⑤

2011年07月18日 | 思うこと・気づいたこと
49日を終え、今もおかんの骨は自宅にいる。
100が日の納骨まではゆっくりできるだろう。
49日過ぎたから、心まで家にいるのかはわからないが。


あまりの痛みに急遽入院したのが4月、そしてその月中には緩和ケアへ。
年明けまではあんな元気だったのに。一緒に車に乗って出かけていたのに。
でも実際は無理していたのかも。
その前からずっと手足がしびれる、抗癌剤の副作用が強くてしんどいとか言っていた。

それでも、本当におかんは最後まで泣き言を言わなかった。

緩和ケアの説明はおかんも事前に聞いていたので
緩和ケアに入った段階であと余命は最長3ヶ月とわかっていたはずなのに。
自分の死を悲観したり、ぐちを言ったり、他人にあたったりすることはなかった。

むしろ
『風邪に気をつけなさい』
『緩和ケアからの帰り道は真っ暗だから十分気をつけてね』
『背筋をまっすぐ、胸をはりなさい』
『目がはれてるんじゃない、病院行ってきなさい』
などなど、もうすっかりでかくなった子供・周りの心配、気遣いばかりしていた


あのおかんが泣いたのを見たのは自分は3回しかない。

1回目は、3月くらい。
抗癌剤がもう使える身体でないことがわかり、家族でその話しをしたとき。
家族に「ごめんね」と謝った際。
その日自分が東京に帰る際に空港で手を握ったとき「もっと生きたい」とつぶやいたとき。

2回目は4月はいる前。
京都に兄家族、俺・彼女と桜を見にまわろうと約束していたのが
急な体調悪化で行けなくなったとき。
行けなくなったことは兄から事前に聞いたが、仕事中おかんから直接電話がかかってきた。
電話の向こうでずっと泣いていた。
「ごめんね、楽しみにしていたのに。」
「一緒に行けなくてごめんね。」
そう謝っていたとき。

そして最期のとき。
必死で呼吸をし、みんながおかんを囲んでいたとき。
みんなの言葉が聞こえるのか、恐怖からか、痛みからかわからないが
すっと頬に涙が数粒落ちた。


死後に部屋を調べててわかったことだが、
家族には秘密で姪っ子の成人式用に積立貯金をしていた。
うちの家族は3人男だったので女の子の成人式を楽しみにしていたのだろう。

あとは、3人の子ども全員宛に大きな紙袋が残されていた。
その中にはへその緒から学校の全通知表までが入っていた。
「ありがとう。ごめんね」
それぞれの息子へ、おかんの達筆な言葉を添えて。

なにがありがとうだったんだろう。何もできてないよ、孝行満たしきれてないよ。
なにがごめんねだったんだろう。謝られることなんて、おかんはなにもしてないよ。
1つ言うならもっと長生きしなかったことかな。


自分の思いを伝えることはしたつもりだが、
おかんの思いを聞くことはあまりできなかった。
息子への思い、家族への思い、自分の人生への思い。
入院の直前にいった瑠璃光寺で、何度も何度も神様に何を願っていたのか。


そういえば、うちのことが一番の気がかりとおかんは長男に言っていた。
ほんとになんでそこまで30過ぎのおじさんの心配をするんだろうね

なんでも自分は次男に輪をかけてマイペースらしい。
マイペースであることはいいのだけど、
何かにつまずいたときが心配だと。

たしかにね。
おかんが亡くなったことを通して、
あんなにがんばっても、家族が思っても、生き様を描いても
最後には人は骨になる。
この無常の中、何をしたらいいのか見えなくなっている。


ほんとに亡くなった直後は『嫌だ、嫌だ』と叫んでいた。
毎日泣いていた。今も書きながら泣いてる。
今でも電車や風呂や寝る前に、
元気だった姿、病棟で寝ている姿を思い出しては涙している。

その度に
『なかんそっちゃ』
とおかんの言葉が聞こえてくる。
小学校、泣き虫だった自分によく言ってくれていた言葉。


本当に、思い出しては泣いてばっかだけど、
この一連を通して一個だけ、すごく大事なことを理解することができた。
おかんが最後に与えてくれたプレゼントだと思う。


それは、

『こんな自分でも、愛していてくれた人がいる。』

『自分は今の自分のままでいい。』
ということ。


俺はずっと自分に自信がなかった。
子供の頃から、知恵遅れと呼ばれたり、特異扱いされたり、いじめられたり。
ずっと自分を隠して、フツーであるように装っていた。

でもそんなことしなくていいんだよ。

だってこんな自分をおかんは一生懸命愛してくれたもの。

ほんと、こんな基本的なことを、こんな大事なものを失ってからでないと気づけなかったなんて。
心配するのもムリないよね。


おかん。

ここまで育ててくれて、、
いろんなことを教えてくれて、
一生懸命愛してくれてありがとう。

授けてもらった生を、精一杯、恥じることなく生きるから。

本当に
ありがとう。ごめんね

おかん最後に④

2011年07月16日 | 思うこと・気づいたこと
出棺後、火葬場までの道のり、自分は霊柩車後部座席に座っていた。

横にはおかんが花に囲まれ、思い出に囲まれ入っている。

ゴトっとお棺が揺れるごとに
「おかんがいきてるんじゃないか、お棺をもう一回開けてくれないか」
と声に発しそうになる。

最後のドライブ、ずっとお棺に寄り添っていた。


道中、家の近くの道を通る。

おかんは入院する前はずっと家で過ごしたいと言っていた。
病院は嫌だ、辛くても家で過ごしたい、と。
なくなる数日前には、突然起きだし「家に帰る」と部屋から出ようとしていたらしい。

あの家はおかんの城だったもんね。

自分のすきな植物や野菜をベランダに植えて、
アルバムだの家族の思い出を保管して、
皆を自分の料理でおもてなしし、
姪甥ふくめて家族全員ゆっくり泊まれるだけの布団を準備して。

「もうすぐ家に帰れるから。」

おかんにかけてあげられる言葉はそれくらいしか出てこなかった。


火葬はただただ事務的に終わった。
普通の焼却炉におかんが入れられていく。

これで本当にあの顔を見ることも、手に触ることもできないんだ。

そう思うとほんとに引き止めたくて仕方がなかった。
もっと傍にいたい、もっと顔を見ていたい、離れたくない、
そう思いつつ
「よろしいですか?」
という火葬場の方の問いかけにうなづくしかなかった。


火葬された骨は小さく、けど白く美しくしなやかだった。

骨だけはがんにも病気にも侵されなかったのかな。

あれだけの闘病を過ごし、それでもしっかりとした身体を残し、
生き様を過ごし、人の思いを受けていたものが、
火葬された後はそれを想像できない姿だった。
ほんとに箱一つに入るほどのものしか残っていなかった。

これがさっきまで安らかな顔をしていた人なんだ。
そう思うと骨をつかむ手が重く、また涙があふれた。


おかんの骨を入れた骨壷は、帰りのバスの中ではまだあたたかく、
おかんのぬくもりのように感じた。
いっつもあったかく包みこむ、あの病室の帰り際に握ってくれた手のように。

家族全員がバスの中で順繰り骨壷を抱えていた。
そのぬくもりを抱くように、昔を思い返すように、骨壷を抱えて。

長男は「家に帰ろうね、もうすぐ帰れるかなね」と抱きながら泣いていた。
家族みんな思うことは同じだ。


再度お経をあげてもらい、精進落としの後、無事におかんと家に帰った。

祭壇は家の居間に置かれた。
他の部屋が手狭だったこともあるが、
居間のほうが陽も当たるし、誰かきた時は居間にくるので寂しくないだろうし
なによりみんなが集まっていた場所だし。


この夜は家族5人で最後の晩餐を行った。
いろんな思い出とか思いとか、考えとか。
ふつうはおかんがとりもたないとたいがいが言い合いになるんだけど、
その日はそんなことにはならなかった。

「やっと家族みんなで家に帰って来れたね。
 入院以来だから2ヶ月ぶりかな?」

家族と花に囲まれ、自分の城にもどってきたことで、
おかんの遺影の顔も、どこかほっとしたような、安堵の顔に見えた。

おかん最後に③

2011年07月15日 | 思うこと・気づいたこと
そういう意味だと翌日の葬儀は書くに耐えない。
坊さんのお経を聞きながら、ずっとこれまでのおかんと過ごした思い出が巡っていた。

子供の頃に一緒に回った保険の集金。普段一緒にいれないから横に入れるだけで嬉しかった。
小学校のサッカーに応援しに来てくれた。軽自動車でいろんな試合会場につれてってもらった。
免許をとるときはおやじと自分が夜遅くまで近所の公園で坂道発進の練習をしていた。
おやじががんになった際も介護で疲れつつも、病室に行けばいつも笑顔で迎え入れてくれた。
大学のときは金がないけどいつも食材をダンボールいっぱいに詰め込んで送ってきてくれた。
就職してからは会社から送られてくる社内報をずっと律儀にとっていた。
一度大阪にいるときに家にとまりに来た。神戸を回ったけど、彼女紹介はせずあとでひどく怒られた。

朝起きたらいつもそこにあるあったかいコーヒー。
いつも帰省した際には到着よりずっと前に到着していた車。
一緒に墓につっこんで事故した元旦。あのときは甘栗食べてたんだよ、あれだ原因は。
瑠璃光寺でうぐいすの音がすると一緒に踏んだ石畳。
しんどいといいつつ行った角島。そこで分けあって食べたカレー。

病室では白髪が増えたことを気にして分け目をよく鏡で見ていた。
ベッドに散る自分の髪をしょっちゅうつまんでゴミ箱に捨てて。
足がむくんでることを気にして、座ってベットから足だけ放り出し、少女のようにぶらぶらさせていた。
毎回の帰り際につないだ手、いつもあったかかった。部屋をでるまでずっとバイバイして。
病室から遠くに見える桜を自慢気に見せていた。看護婦さんとの話も語ってたな。
『おかずがおいしくない』といってかつお梅とおかゆばかり食べてた。
ときどき自分が食べる弁当に興味を持って、一切れ二切れつまんで一緒に食べた。
鼻の空気のチューブをいつも嫌がっていた。そして外しては看護婦さんに怒られた。

そんな思い出が次々に、途切れることなく、涙を伴って限りなく湧いてくる。
リアルで、あったかくて、もう得ることができない思い出。


出棺に際して、葬儀に飾っていた花をお棺に飾った。
花が好きだったから、花に囲まれるのは嬉しいだろう。
婚前写真のフォトもそこにいれた。

それと運転免許証ホルダーに入っていた写真。

死後、保険の書類などを調べるためおかんがいつも持っていたショルダーバッグを開けた。
その中には長男と行った金比羅さん、俺が送った鈴虫寺のお守りや
既につかわなくなったが安心するからともっていた喘息の薬、
自分が渡した婚前写真などとともに運転免許証のホルダーがあった。

その中には、自分が小学校で初めてサッカー部に入ったときの写真、
姪っ子2人が生まれたときの写真、甥っ子の写真が証明写真サイズで入っていた。
姪っ子、甥っ子はかわいい孫だからわかるよ、
でもなんで俺の20年以上前の写真を持ってるんだろうね。
おかんには俺はずっとそのころと変わらない子どもに写っていたのかね。

そんないろいろな思いが自分の中でいりまじり、
ただおかんの前で泣くことしかできず、
せっかく葬儀に来てくれた彼女を紹介し忘れていた。。
自慢の彼女をおかんに見せたがっていたのにね。

彼女がいる前でも溢れ出る涙と嗚咽は止まらなかった。

昨日なくなるまで握っていたては冷たく硬くなっていた。

それでも頬の肉はなめらかで、髪はやわらかかった。

ずっとずっと手を握り、顔をなで、思いを涙に変えていた。


思いは尽きず、未練は切れないが、そこは葬儀屋がしっかりリードしてくれた。

最後の挨拶を断ち、お棺が閉じられた。
出棺。

おかん最後に②

2011年07月12日 | 思うこと・気づいたこと
おかんの死後は、葬儀屋との打ち合わせや通夜・葬儀の連絡と準備、
そして来ていただいた方への挨拶と接待と忙しかった。

無心に体を動かした方が気持ちは楽だった。
むしろ、ありのままそのままに死を受け止めようとしていたら心がもたなかったと思う。


そんな中で、おかんをゆっくり感じれたのは通夜の夜。

通夜は死者が迷わぬように線香をずっとたき続けるため家族は起き続けるのだが
最近は長い線香がありその必要はない。

けど、うちらは初めは自分、次は次男、朝方長男と誰かしらが起きて、
通常の線香をたやさぬようにたき続けていた。

これが最後にゆっくりおかんの顔を見れるときだから。

最後はなにかできることをしたいから。

それぞれの思いはあるだろうけど、線香をたやさないようにしようと思う気持ちは一緒だった。


ずっと兄弟過ごしてきたけど、
こういう風にひとつにつながったことってなかったんじゃなかったかな?
思わぬ置き土産かな。


最後の夜に、自分はお棺を開けておかんの顔をなでた。

朝はまだあたたかかったのに、今はもう冷たい。
顔は安らかで、ただ眠っているだけで、息をしていそうで、
「あ~苦しかった」とか言って起き上がってきそうだけど、
もうそんな姿を見ることはできない。


通夜の晩に、長男から亡くなる前日
おかんが起きた際に急いで作ってもらった婚前写真のアルバムを見せたことを聞いた。

婚前写真はかなり写真屋にがんばってもらい亡くなる前々日に持って帰っていた。
だけど既に体調がすぐれず「見る?」と聞いても手を横にふる。
けど、亡くなる前日、うちがいないときに少し意識がはっきりした時間がありその際に写真を見ていたらしい。

「何か言うだけの元気はなかったけど、あれはちゃんと見ていたと思うよ。」

おかんは自分の独り身に関して一番心配していた。
それが一番の気がかりだと自分も面と向かって言われた。
その分、婚約したことを伝えたときの安堵の顔を忘れることができない。

だから、なんとかして式に出て、自分のパートナーになる人の最高のシーンを見てもらいたかった。
マザコンと言われるかもしれない。
でも、父母も家族も揃って人生の輝かしいシーンを過ごせることが一番の幸せだと思う。
結婚式だって今まで育ててきてくれた人へのお礼返しも多分にあるし。
自分はそう思う。

ただ、自分はそれができないとわかって、なんとか急ごしらえで、
スタジオで婚前写真というものを作ってもらった。

おかんが見て喜ぶ顔を見たかった。
自分で合間にデジカメで撮った写真は渡したが、
それだけでなくやっぱりプロが撮った写真を、一緒に見たかった。


でも、いい。
写真を見てくれた。
見せられた。
それ以上は望まなくても。
自分の自己満足かもしれないが、彼女のドレス姿を見てもらえたのはおかんを安心させてやれたと思う。


通夜の夜は遺影とお棺を見つめたままいつのまにか眠っていた。
そのとき考えたことはよく覚えていない。

「なんでだ、早過ぎる。なんでもっといきれなかったんだ。」
「嫌だ、置いて行かないで」
「がんばったね、ゆっくり休もうね」

いろんな思いが、かわるがわる巡っていた気がする。


そういうことから翌日の目覚めは最悪だった。
家族の中で一番遅かった。
頭が覚めても、目はずっとつぶっていた。
現実が。目をつぶっていれば現実が逃げてくれるわけでもないのに。

おかん最後に①

2011年07月10日 | 思うこと・気づいたこと
5/21早朝、俺の母親が逝った。
苦しむこともなく、安らかに。
息をひきとった。冷たくなった。

そして四十九日。死者があの世へ旅立つとき自分も心の整理をしようと思う。
以下、自分の記憶を整理するため、
この死を通して感じたことを決して忘れないために、何日かに分けて一部始終を書こうと思う。
自己よがりで思い過ぎで、他人が読んで不快かもしれないことは先にことわっておく。



亡くなる週の月曜に、医師から説明を受けた。

「5月を超えるのが難しいかもしれない」
その説明から実際は5日後のことだった。

2、3日前からしゃべること、立ち上がること、食べることもできなくなったものの
前日にはお茶を何杯かのみ、意識もあるようだった。

酸素のキュープは鼻につけるものから口にあてるものに変わっていた。
でもうっすら目を開けてこちらを見たりていた。
意識はあるんだろう。


『いや、まだ大丈夫』
そう思っていた。
矢先。


会社を休み付き添いで病院に泊まって2日目、
深夜から呼吸が乱れる。
痰が詰まる。

「看護婦さんを呼ぼうか?」
話しかけると、おかんは手を横にふる。

何度か落ち着き、俺も床につきなおす。
それでもまた何度も呼吸が荒くなり、それで俺も何度も目が覚める。
「看護婦さんを呼ぶ?」
また手を横にふる。

呼吸が荒れたり落ち着いたり、寝たり起きたりを繰り返し、4回か5回目くらいだろうか。

朝の6時ぐらい。

呼吸が荒れるだけでなく、息をするたび「あぁーあぁー」と声を発するようになる。


さすがに『ヤバい』と思い
「看護婦さん呼ぶね」と声をかける。
今回は反応がない。

看護婦さんを呼ぶと、脈が弱まっていると。
声が出るのは呼吸が弱くなっている際にそうなることがあるらしい。


「ご家族を呼ばれたほうがいいかもしれません。」


「・・・・」


とりあえず兄に電話した。その後でも理解はおぼつかないままだった。
目の前が真っ白になるということがああいうことだったのかと今になってわかる。
ほんとただ呆然。
ただ立ち尽くすしかない。

おかんを前にして
「なんで」「どうして」「嘘だ」「嫌だ」
とだんだん現実を理解し始める。

と同時に自分ができることは何か探し始める。

自分には。手を握って声をかけるくらいしかない。

そう思って握ったおかんの手はだんだん、だんだん冷たくなってきている。

「姪っ子の振袖姿見たいんやろ。まだまだ生きな」
「京都行きたがってたやろ。桜が終わっても新緑がきれいだよ。また元気になったら行こう。」
「彼女のドレス姿、写真より本物のほうがずっといいから。会って直に見なね。」
「まだ婚前写真だってちゃんと見てもらってないやろ。せっかく撮ったんやから起きて見てよ。」
「兄ちゃんがもうすぐくるから。まだまだ大丈夫やろ」
「一緒の時間作っていこうって約束したやろ。まだ全然足りてないよ」
「また、お寺回ろうよ」

手を握りながらずっと語りかける。
それでもだんだんと呼吸が弱まってきている。


30分後くらいか、長男とおやじが病室にかけつける。

自分は、ずっと手を握り、語りかけていた。
普段なら、家族と言ってもなんか気恥ずかしいと思い、手を握るとかの場面を見せたりしない。
けど、もうそんなことどうでもよかった。ずっとおかんと喋ってた。

おやじも長男もおかんを励ます言葉を続けていた。
「なにしよるん、がんばらんな。」
「次男はまだ広島から向かっているよ、それまでがんばらな。」
「もっと長生きするんやろ。」

周りの声が聞こえるのか、痛みからなのか、
本人は無意識なのか、
おかんは呼吸が絶え絶えになる中、目に涙を浮かべ、数粒の涙が頬にこぼれた。
目はうつろでも心は傍にあったのか。


逝くときはしごくあっさりしたものだった。

呼吸の間隔が伸びてきて、1秒になり、2秒になり、
だんだん息をする音もちいさくなってきて、そしてそのまま呼吸の音がなくなった。

もう呼び声に涙することはなかった。
もう息が聞こえることはなかった。
もう手に力はなかった。
でもずっと握っていた日は前の日と、もっともっと前の日とも同じように温かかった。


看護婦さんに脈がないことを確認してもらい
「先生に死亡診断をしてもらいますか?」と問われた。
そこでは死亡診断を行った後に、体をふき、服を着替え、
すぐに葬儀屋に葬儀場へ運んでもらうことになっていた。

長男は迷っていたが、けど、
自分はそのままの状態で次男が揃うまで待ってもらうことを望み、そうしてもらった。
そのせいで、後々、死後硬直によって口がうっすら開いた状態になってしまい
葬儀の参列者にその姿で対面してもらうことになり兄はそのことを悔いていた。
自分はそんな他の人に見られる姿形よりも
最後の瞬間を家族皆に囲まれる方がおかんにとって幸せじゃないかと思ったから
とくに悔いることもなかった。
何よりも家族全員で食卓を囲むことを好んでいた人だったから。
自分がどんな状態でも、子どものことを考える人だったから。

意見を曲げないとこ、ここはおかんの頑固さをしっかりうけづいているね。


8時くらい、死後数十分後、次男が到着。
言葉少なに手を握り、言葉をかけていた。

自分もおかんのやつれた顔と薄くなった髪をなでた。
まだ肌は水分と柔らかさを保っていて、あたたかくて、そして顔は安らかで。
そのときが初めてだったんじゃないかな、顔とか触ったのは。
なんかそういうのを他人にさせるのを嫌う人だったから。


そして、家族4人がそれぞれ同じようなことを語りかけていた。


「よくがんばったね。ありがとう。」


8/21、山口は晴天。
あたたかい陽だまりが注ぐ部屋の中、3人の息子と夫に囲まれながら
うちのおかんは逝った。