添心爛漫(てんしんらんまん)

~心に思ったことを添えて載せていきます~

おかん納骨終えて思うこと

2011年08月29日 | 思うこと・気づいたこと
昨日、おかんの100が日を迎え、納骨にいってきた。

この日がここ最近での憂鬱ポイントだった。
骨だとしても、まだ家に居続けた人が、ほんとにもう会えない場所に行ってしまう気がして。
またあの最期と同じような、大事な人が遠くに行ってしまう瞬間が再現されそうで。

最期の瞬間は今でも自分の中でずっとフラッシュバックする。
呼吸が乱れ、目がうつろになり、そして手に力がなくなる瞬間。
「おかん!…おかん!」
と叫んだ情景はずっと心に焼き付き、今でも涙こぼれる。

でもちゃんと心の整理つけないと、いい加減100が日迎えるのにおかんも成仏できないだろう。

一度坊さんに納骨時にお経をあげてもらった後、
そんな思いに突き動かされ再度自分一人だけで墓参りに。

墓前に立てば過去のことも入院時のことも思い出される。
もう会えないだという気持ちともっとできることしてやりたかったという後悔に胸が締め付けられる。

その気持ちを一旦全て吐き出した後、
過去を思い出し、ずっと見守ってくれてありがとう、と呟く。

この現実をまるっとちゃんと受け入れるから、大丈夫だから。
おかんは自分の死に弱音を吐かなかった、俺ももう弱音はかないから。
我慢していた感情を、もっと素直に表現していくから。
もらった人生、ちゃんと最後までまっとうに生きるから。

そう気持ちの整理をしていくと、
墓前に見えていたおかんの幻影がだんだん、だんだん消えていく気がした。
最後には、あの病院でいつも最後に握って帰っていた、
そして最期の瞬間も握っていた右手もふっと消えた気がした。
安心したかな。自分も少しはふっきれたかな。

すっと心に溜まっていたものが軽くなる感じがした。


次は正月が正念場だ。
実家を出てからも、これまでいつもおかんと迎えていた正月。
それが今年はない。

年越しそばもぞうにもない、初詣に行く人もない、駅伝を一緒に見る人もいない。
そういえば今年は一緒に駐車場で事故ったっけ。
「ない」という現実を今度の正月は迎えないといけない。

でもちゃんと現実を見つめるよ。
約束だ。

おかん最後に⑤

2011年07月18日 | 思うこと・気づいたこと
49日を終え、今もおかんの骨は自宅にいる。
100が日の納骨まではゆっくりできるだろう。
49日過ぎたから、心まで家にいるのかはわからないが。


あまりの痛みに急遽入院したのが4月、そしてその月中には緩和ケアへ。
年明けまではあんな元気だったのに。一緒に車に乗って出かけていたのに。
でも実際は無理していたのかも。
その前からずっと手足がしびれる、抗癌剤の副作用が強くてしんどいとか言っていた。

それでも、本当におかんは最後まで泣き言を言わなかった。

緩和ケアの説明はおかんも事前に聞いていたので
緩和ケアに入った段階であと余命は最長3ヶ月とわかっていたはずなのに。
自分の死を悲観したり、ぐちを言ったり、他人にあたったりすることはなかった。

むしろ
『風邪に気をつけなさい』
『緩和ケアからの帰り道は真っ暗だから十分気をつけてね』
『背筋をまっすぐ、胸をはりなさい』
『目がはれてるんじゃない、病院行ってきなさい』
などなど、もうすっかりでかくなった子供・周りの心配、気遣いばかりしていた


あのおかんが泣いたのを見たのは自分は3回しかない。

1回目は、3月くらい。
抗癌剤がもう使える身体でないことがわかり、家族でその話しをしたとき。
家族に「ごめんね」と謝った際。
その日自分が東京に帰る際に空港で手を握ったとき「もっと生きたい」とつぶやいたとき。

2回目は4月はいる前。
京都に兄家族、俺・彼女と桜を見にまわろうと約束していたのが
急な体調悪化で行けなくなったとき。
行けなくなったことは兄から事前に聞いたが、仕事中おかんから直接電話がかかってきた。
電話の向こうでずっと泣いていた。
「ごめんね、楽しみにしていたのに。」
「一緒に行けなくてごめんね。」
そう謝っていたとき。

そして最期のとき。
必死で呼吸をし、みんながおかんを囲んでいたとき。
みんなの言葉が聞こえるのか、恐怖からか、痛みからかわからないが
すっと頬に涙が数粒落ちた。


死後に部屋を調べててわかったことだが、
家族には秘密で姪っ子の成人式用に積立貯金をしていた。
うちの家族は3人男だったので女の子の成人式を楽しみにしていたのだろう。

あとは、3人の子ども全員宛に大きな紙袋が残されていた。
その中にはへその緒から学校の全通知表までが入っていた。
「ありがとう。ごめんね」
それぞれの息子へ、おかんの達筆な言葉を添えて。

なにがありがとうだったんだろう。何もできてないよ、孝行満たしきれてないよ。
なにがごめんねだったんだろう。謝られることなんて、おかんはなにもしてないよ。
1つ言うならもっと長生きしなかったことかな。


自分の思いを伝えることはしたつもりだが、
おかんの思いを聞くことはあまりできなかった。
息子への思い、家族への思い、自分の人生への思い。
入院の直前にいった瑠璃光寺で、何度も何度も神様に何を願っていたのか。


そういえば、うちのことが一番の気がかりとおかんは長男に言っていた。
ほんとになんでそこまで30過ぎのおじさんの心配をするんだろうね

なんでも自分は次男に輪をかけてマイペースらしい。
マイペースであることはいいのだけど、
何かにつまずいたときが心配だと。

たしかにね。
おかんが亡くなったことを通して、
あんなにがんばっても、家族が思っても、生き様を描いても
最後には人は骨になる。
この無常の中、何をしたらいいのか見えなくなっている。


ほんとに亡くなった直後は『嫌だ、嫌だ』と叫んでいた。
毎日泣いていた。今も書きながら泣いてる。
今でも電車や風呂や寝る前に、
元気だった姿、病棟で寝ている姿を思い出しては涙している。

その度に
『なかんそっちゃ』
とおかんの言葉が聞こえてくる。
小学校、泣き虫だった自分によく言ってくれていた言葉。


本当に、思い出しては泣いてばっかだけど、
この一連を通して一個だけ、すごく大事なことを理解することができた。
おかんが最後に与えてくれたプレゼントだと思う。


それは、

『こんな自分でも、愛していてくれた人がいる。』

『自分は今の自分のままでいい。』
ということ。


俺はずっと自分に自信がなかった。
子供の頃から、知恵遅れと呼ばれたり、特異扱いされたり、いじめられたり。
ずっと自分を隠して、フツーであるように装っていた。

でもそんなことしなくていいんだよ。

だってこんな自分をおかんは一生懸命愛してくれたもの。

ほんと、こんな基本的なことを、こんな大事なものを失ってからでないと気づけなかったなんて。
心配するのもムリないよね。


おかん。

ここまで育ててくれて、、
いろんなことを教えてくれて、
一生懸命愛してくれてありがとう。

授けてもらった生を、精一杯、恥じることなく生きるから。

本当に
ありがとう。ごめんね

おかん最後に④

2011年07月16日 | 思うこと・気づいたこと
出棺後、火葬場までの道のり、自分は霊柩車後部座席に座っていた。

横にはおかんが花に囲まれ、思い出に囲まれ入っている。

ゴトっとお棺が揺れるごとに
「おかんがいきてるんじゃないか、お棺をもう一回開けてくれないか」
と声に発しそうになる。

最後のドライブ、ずっとお棺に寄り添っていた。


道中、家の近くの道を通る。

おかんは入院する前はずっと家で過ごしたいと言っていた。
病院は嫌だ、辛くても家で過ごしたい、と。
なくなる数日前には、突然起きだし「家に帰る」と部屋から出ようとしていたらしい。

あの家はおかんの城だったもんね。

自分のすきな植物や野菜をベランダに植えて、
アルバムだの家族の思い出を保管して、
皆を自分の料理でおもてなしし、
姪甥ふくめて家族全員ゆっくり泊まれるだけの布団を準備して。

「もうすぐ家に帰れるから。」

おかんにかけてあげられる言葉はそれくらいしか出てこなかった。


火葬はただただ事務的に終わった。
普通の焼却炉におかんが入れられていく。

これで本当にあの顔を見ることも、手に触ることもできないんだ。

そう思うとほんとに引き止めたくて仕方がなかった。
もっと傍にいたい、もっと顔を見ていたい、離れたくない、
そう思いつつ
「よろしいですか?」
という火葬場の方の問いかけにうなづくしかなかった。


火葬された骨は小さく、けど白く美しくしなやかだった。

骨だけはがんにも病気にも侵されなかったのかな。

あれだけの闘病を過ごし、それでもしっかりとした身体を残し、
生き様を過ごし、人の思いを受けていたものが、
火葬された後はそれを想像できない姿だった。
ほんとに箱一つに入るほどのものしか残っていなかった。

これがさっきまで安らかな顔をしていた人なんだ。
そう思うと骨をつかむ手が重く、また涙があふれた。


おかんの骨を入れた骨壷は、帰りのバスの中ではまだあたたかく、
おかんのぬくもりのように感じた。
いっつもあったかく包みこむ、あの病室の帰り際に握ってくれた手のように。

家族全員がバスの中で順繰り骨壷を抱えていた。
そのぬくもりを抱くように、昔を思い返すように、骨壷を抱えて。

長男は「家に帰ろうね、もうすぐ帰れるかなね」と抱きながら泣いていた。
家族みんな思うことは同じだ。


再度お経をあげてもらい、精進落としの後、無事におかんと家に帰った。

祭壇は家の居間に置かれた。
他の部屋が手狭だったこともあるが、
居間のほうが陽も当たるし、誰かきた時は居間にくるので寂しくないだろうし
なによりみんなが集まっていた場所だし。


この夜は家族5人で最後の晩餐を行った。
いろんな思い出とか思いとか、考えとか。
ふつうはおかんがとりもたないとたいがいが言い合いになるんだけど、
その日はそんなことにはならなかった。

「やっと家族みんなで家に帰って来れたね。
 入院以来だから2ヶ月ぶりかな?」

家族と花に囲まれ、自分の城にもどってきたことで、
おかんの遺影の顔も、どこかほっとしたような、安堵の顔に見えた。

おかん最後に③

2011年07月15日 | 思うこと・気づいたこと
そういう意味だと翌日の葬儀は書くに耐えない。
坊さんのお経を聞きながら、ずっとこれまでのおかんと過ごした思い出が巡っていた。

子供の頃に一緒に回った保険の集金。普段一緒にいれないから横に入れるだけで嬉しかった。
小学校のサッカーに応援しに来てくれた。軽自動車でいろんな試合会場につれてってもらった。
免許をとるときはおやじと自分が夜遅くまで近所の公園で坂道発進の練習をしていた。
おやじががんになった際も介護で疲れつつも、病室に行けばいつも笑顔で迎え入れてくれた。
大学のときは金がないけどいつも食材をダンボールいっぱいに詰め込んで送ってきてくれた。
就職してからは会社から送られてくる社内報をずっと律儀にとっていた。
一度大阪にいるときに家にとまりに来た。神戸を回ったけど、彼女紹介はせずあとでひどく怒られた。

朝起きたらいつもそこにあるあったかいコーヒー。
いつも帰省した際には到着よりずっと前に到着していた車。
一緒に墓につっこんで事故した元旦。あのときは甘栗食べてたんだよ、あれだ原因は。
瑠璃光寺でうぐいすの音がすると一緒に踏んだ石畳。
しんどいといいつつ行った角島。そこで分けあって食べたカレー。

病室では白髪が増えたことを気にして分け目をよく鏡で見ていた。
ベッドに散る自分の髪をしょっちゅうつまんでゴミ箱に捨てて。
足がむくんでることを気にして、座ってベットから足だけ放り出し、少女のようにぶらぶらさせていた。
毎回の帰り際につないだ手、いつもあったかかった。部屋をでるまでずっとバイバイして。
病室から遠くに見える桜を自慢気に見せていた。看護婦さんとの話も語ってたな。
『おかずがおいしくない』といってかつお梅とおかゆばかり食べてた。
ときどき自分が食べる弁当に興味を持って、一切れ二切れつまんで一緒に食べた。
鼻の空気のチューブをいつも嫌がっていた。そして外しては看護婦さんに怒られた。

そんな思い出が次々に、途切れることなく、涙を伴って限りなく湧いてくる。
リアルで、あったかくて、もう得ることができない思い出。


出棺に際して、葬儀に飾っていた花をお棺に飾った。
花が好きだったから、花に囲まれるのは嬉しいだろう。
婚前写真のフォトもそこにいれた。

それと運転免許証ホルダーに入っていた写真。

死後、保険の書類などを調べるためおかんがいつも持っていたショルダーバッグを開けた。
その中には長男と行った金比羅さん、俺が送った鈴虫寺のお守りや
既につかわなくなったが安心するからともっていた喘息の薬、
自分が渡した婚前写真などとともに運転免許証のホルダーがあった。

その中には、自分が小学校で初めてサッカー部に入ったときの写真、
姪っ子2人が生まれたときの写真、甥っ子の写真が証明写真サイズで入っていた。
姪っ子、甥っ子はかわいい孫だからわかるよ、
でもなんで俺の20年以上前の写真を持ってるんだろうね。
おかんには俺はずっとそのころと変わらない子どもに写っていたのかね。

そんないろいろな思いが自分の中でいりまじり、
ただおかんの前で泣くことしかできず、
せっかく葬儀に来てくれた彼女を紹介し忘れていた。。
自慢の彼女をおかんに見せたがっていたのにね。

彼女がいる前でも溢れ出る涙と嗚咽は止まらなかった。

昨日なくなるまで握っていたては冷たく硬くなっていた。

それでも頬の肉はなめらかで、髪はやわらかかった。

ずっとずっと手を握り、顔をなで、思いを涙に変えていた。


思いは尽きず、未練は切れないが、そこは葬儀屋がしっかりリードしてくれた。

最後の挨拶を断ち、お棺が閉じられた。
出棺。

おかん最後に②

2011年07月12日 | 思うこと・気づいたこと
おかんの死後は、葬儀屋との打ち合わせや通夜・葬儀の連絡と準備、
そして来ていただいた方への挨拶と接待と忙しかった。

無心に体を動かした方が気持ちは楽だった。
むしろ、ありのままそのままに死を受け止めようとしていたら心がもたなかったと思う。


そんな中で、おかんをゆっくり感じれたのは通夜の夜。

通夜は死者が迷わぬように線香をずっとたき続けるため家族は起き続けるのだが
最近は長い線香がありその必要はない。

けど、うちらは初めは自分、次は次男、朝方長男と誰かしらが起きて、
通常の線香をたやさぬようにたき続けていた。

これが最後にゆっくりおかんの顔を見れるときだから。

最後はなにかできることをしたいから。

それぞれの思いはあるだろうけど、線香をたやさないようにしようと思う気持ちは一緒だった。


ずっと兄弟過ごしてきたけど、
こういう風にひとつにつながったことってなかったんじゃなかったかな?
思わぬ置き土産かな。


最後の夜に、自分はお棺を開けておかんの顔をなでた。

朝はまだあたたかかったのに、今はもう冷たい。
顔は安らかで、ただ眠っているだけで、息をしていそうで、
「あ~苦しかった」とか言って起き上がってきそうだけど、
もうそんな姿を見ることはできない。


通夜の晩に、長男から亡くなる前日
おかんが起きた際に急いで作ってもらった婚前写真のアルバムを見せたことを聞いた。

婚前写真はかなり写真屋にがんばってもらい亡くなる前々日に持って帰っていた。
だけど既に体調がすぐれず「見る?」と聞いても手を横にふる。
けど、亡くなる前日、うちがいないときに少し意識がはっきりした時間がありその際に写真を見ていたらしい。

「何か言うだけの元気はなかったけど、あれはちゃんと見ていたと思うよ。」

おかんは自分の独り身に関して一番心配していた。
それが一番の気がかりだと自分も面と向かって言われた。
その分、婚約したことを伝えたときの安堵の顔を忘れることができない。

だから、なんとかして式に出て、自分のパートナーになる人の最高のシーンを見てもらいたかった。
マザコンと言われるかもしれない。
でも、父母も家族も揃って人生の輝かしいシーンを過ごせることが一番の幸せだと思う。
結婚式だって今まで育ててきてくれた人へのお礼返しも多分にあるし。
自分はそう思う。

ただ、自分はそれができないとわかって、なんとか急ごしらえで、
スタジオで婚前写真というものを作ってもらった。

おかんが見て喜ぶ顔を見たかった。
自分で合間にデジカメで撮った写真は渡したが、
それだけでなくやっぱりプロが撮った写真を、一緒に見たかった。


でも、いい。
写真を見てくれた。
見せられた。
それ以上は望まなくても。
自分の自己満足かもしれないが、彼女のドレス姿を見てもらえたのはおかんを安心させてやれたと思う。


通夜の夜は遺影とお棺を見つめたままいつのまにか眠っていた。
そのとき考えたことはよく覚えていない。

「なんでだ、早過ぎる。なんでもっといきれなかったんだ。」
「嫌だ、置いて行かないで」
「がんばったね、ゆっくり休もうね」

いろんな思いが、かわるがわる巡っていた気がする。


そういうことから翌日の目覚めは最悪だった。
家族の中で一番遅かった。
頭が覚めても、目はずっとつぶっていた。
現実が。目をつぶっていれば現実が逃げてくれるわけでもないのに。