添心爛漫(てんしんらんまん)

~心に思ったことを添えて載せていきます~

おかん最後に①

2011年07月10日 | 思うこと・気づいたこと
5/21早朝、俺の母親が逝った。
苦しむこともなく、安らかに。
息をひきとった。冷たくなった。

そして四十九日。死者があの世へ旅立つとき自分も心の整理をしようと思う。
以下、自分の記憶を整理するため、
この死を通して感じたことを決して忘れないために、何日かに分けて一部始終を書こうと思う。
自己よがりで思い過ぎで、他人が読んで不快かもしれないことは先にことわっておく。



亡くなる週の月曜に、医師から説明を受けた。

「5月を超えるのが難しいかもしれない」
その説明から実際は5日後のことだった。

2、3日前からしゃべること、立ち上がること、食べることもできなくなったものの
前日にはお茶を何杯かのみ、意識もあるようだった。

酸素のキュープは鼻につけるものから口にあてるものに変わっていた。
でもうっすら目を開けてこちらを見たりていた。
意識はあるんだろう。


『いや、まだ大丈夫』
そう思っていた。
矢先。


会社を休み付き添いで病院に泊まって2日目、
深夜から呼吸が乱れる。
痰が詰まる。

「看護婦さんを呼ぼうか?」
話しかけると、おかんは手を横にふる。

何度か落ち着き、俺も床につきなおす。
それでもまた何度も呼吸が荒くなり、それで俺も何度も目が覚める。
「看護婦さんを呼ぶ?」
また手を横にふる。

呼吸が荒れたり落ち着いたり、寝たり起きたりを繰り返し、4回か5回目くらいだろうか。

朝の6時ぐらい。

呼吸が荒れるだけでなく、息をするたび「あぁーあぁー」と声を発するようになる。


さすがに『ヤバい』と思い
「看護婦さん呼ぶね」と声をかける。
今回は反応がない。

看護婦さんを呼ぶと、脈が弱まっていると。
声が出るのは呼吸が弱くなっている際にそうなることがあるらしい。


「ご家族を呼ばれたほうがいいかもしれません。」


「・・・・」


とりあえず兄に電話した。その後でも理解はおぼつかないままだった。
目の前が真っ白になるということがああいうことだったのかと今になってわかる。
ほんとただ呆然。
ただ立ち尽くすしかない。

おかんを前にして
「なんで」「どうして」「嘘だ」「嫌だ」
とだんだん現実を理解し始める。

と同時に自分ができることは何か探し始める。

自分には。手を握って声をかけるくらいしかない。

そう思って握ったおかんの手はだんだん、だんだん冷たくなってきている。

「姪っ子の振袖姿見たいんやろ。まだまだ生きな」
「京都行きたがってたやろ。桜が終わっても新緑がきれいだよ。また元気になったら行こう。」
「彼女のドレス姿、写真より本物のほうがずっといいから。会って直に見なね。」
「まだ婚前写真だってちゃんと見てもらってないやろ。せっかく撮ったんやから起きて見てよ。」
「兄ちゃんがもうすぐくるから。まだまだ大丈夫やろ」
「一緒の時間作っていこうって約束したやろ。まだ全然足りてないよ」
「また、お寺回ろうよ」

手を握りながらずっと語りかける。
それでもだんだんと呼吸が弱まってきている。


30分後くらいか、長男とおやじが病室にかけつける。

自分は、ずっと手を握り、語りかけていた。
普段なら、家族と言ってもなんか気恥ずかしいと思い、手を握るとかの場面を見せたりしない。
けど、もうそんなことどうでもよかった。ずっとおかんと喋ってた。

おやじも長男もおかんを励ます言葉を続けていた。
「なにしよるん、がんばらんな。」
「次男はまだ広島から向かっているよ、それまでがんばらな。」
「もっと長生きするんやろ。」

周りの声が聞こえるのか、痛みからなのか、
本人は無意識なのか、
おかんは呼吸が絶え絶えになる中、目に涙を浮かべ、数粒の涙が頬にこぼれた。
目はうつろでも心は傍にあったのか。


逝くときはしごくあっさりしたものだった。

呼吸の間隔が伸びてきて、1秒になり、2秒になり、
だんだん息をする音もちいさくなってきて、そしてそのまま呼吸の音がなくなった。

もう呼び声に涙することはなかった。
もう息が聞こえることはなかった。
もう手に力はなかった。
でもずっと握っていた日は前の日と、もっともっと前の日とも同じように温かかった。


看護婦さんに脈がないことを確認してもらい
「先生に死亡診断をしてもらいますか?」と問われた。
そこでは死亡診断を行った後に、体をふき、服を着替え、
すぐに葬儀屋に葬儀場へ運んでもらうことになっていた。

長男は迷っていたが、けど、
自分はそのままの状態で次男が揃うまで待ってもらうことを望み、そうしてもらった。
そのせいで、後々、死後硬直によって口がうっすら開いた状態になってしまい
葬儀の参列者にその姿で対面してもらうことになり兄はそのことを悔いていた。
自分はそんな他の人に見られる姿形よりも
最後の瞬間を家族皆に囲まれる方がおかんにとって幸せじゃないかと思ったから
とくに悔いることもなかった。
何よりも家族全員で食卓を囲むことを好んでいた人だったから。
自分がどんな状態でも、子どものことを考える人だったから。

意見を曲げないとこ、ここはおかんの頑固さをしっかりうけづいているね。


8時くらい、死後数十分後、次男が到着。
言葉少なに手を握り、言葉をかけていた。

自分もおかんのやつれた顔と薄くなった髪をなでた。
まだ肌は水分と柔らかさを保っていて、あたたかくて、そして顔は安らかで。
そのときが初めてだったんじゃないかな、顔とか触ったのは。
なんかそういうのを他人にさせるのを嫌う人だったから。


そして、家族4人がそれぞれ同じようなことを語りかけていた。


「よくがんばったね。ありがとう。」


8/21、山口は晴天。
あたたかい陽だまりが注ぐ部屋の中、3人の息子と夫に囲まれながら
うちのおかんは逝った。