KUMIの句日記

写真と一日一句で綴るブログ。句の転載を禁じます。

戦災忌

2014年03月10日 | 暮らしのつぶやき
天気 晴のち曇がち

とにかく寒い一日だった。気温は8℃くらいにはなったらしいが、空っ風の冷たさは「春北風(ならい)」などというものではなく、雪国へ行く防寒態勢で通院。
本当に桜は咲くの?と、去年の早かった開花を思うと信じられない固い蕾のままだ。

今日は東京大空襲のあった日。
3.11に押されてあまり話題も少なくなっていった。が、古い東京人はやはりこの日を忘れることは出来ない。2年前に少し詳しく書いたこと。3歳8ヶ月だった私の、人生初めてとも言える記憶は、この日の戦闘機のすさまじい爆音を防空壕で聞いたことと、母の背中から見た、明け方の東京方面の空の不気味に真っ赤な色。
わが家は、その数か月前に、東京山手の住まい(といっても父の官舎だった)から母の実家を頼って房総の海辺の村に疎開していた。父は仕事(軍人ではない)の関係で外地に赴任、母子だけで遠縁の隠居所を借りていた。房総半島は、首都を爆撃する米軍機の通り道だった。終戦間際まで、警戒警報が相次いで、防空壕へ避難することが多かった。
当時は海岸に遠い家だったのが、様々なものが対岸の東京から流れ着いたそうだ。

幼かったから、怖い、という気持はあまりなかった。が、長じてからは、私の頭上を通って行ったあの米軍機から落とされた焼夷弾によって10万とも言われる市井の人たちが命を断たれた、と思うと、この日の記憶を忘れてはならない、と思った。
3.11も大変なことだった。でも、原発事故を除けば避けられない自然災害。
戦災は、人が起こすものなのだ。避けようとすれば避けられること。
何だか、最近はまた日本の歩む方向が戦へ向かうような気がしてならない。そう長く生きるつもりはないけれど、戦争だけはもう体験したくない。

(写真は、JR国分寺駅前の母子の像)

三月十日夕餉に青菜切り揃へ  KUMI

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4 コメント

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戦災忌 (トマト)
2014-03-11 10:43:58
私も同じような体験をしました。小学校の低学年でした。
JR二宮駅に高木敏子の「がらすのうさぎ」の像がありま
す。昔この本を何度も読み泣きました。
今日も風が冷たいですね。富士山が裾まで真っ白です。
丹沢の山々にもちらほら雪が見えます。
昨日はふたりで馬鈴薯を植えました。芽の出てくるのが
楽しみです。
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防空壕 (ふきのとう)
2014-03-11 19:16:22
私の記憶は家の横の防空壕にあります。
掘り方が悪いのか、場所が悪いのか水が溜まる事も
しばしば。
防空壕に入った時、私と九つ違いの直ぐ上の兄が木綿の絣の
アンサンブルを着ていたことを今でもはっきりと覚えています。
長兄は油送船に、姉達は軍事工場へ行っていて、兄と私とが
父の言はれるままに、防空壕に突っ伏していたのでした。
憲法は改正されるのでしょうか?。
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トマトさん、富士山、綺麗でしたね (KUMI)
2014-03-11 23:32:10
今日の富士山は悲しいくらい綺麗でした。
トマトさんはちょうど姉と同じ年齢、と思います。
私よりもずっと記憶もはっきりしているのでしょうね。
「ガラスのうさぎ」は私も泣きました。自分に両親の居ることを感謝しました。

ジャガイモを、楽しみのために植えるのは幸せですね。
戦後は、わが家では食べるものがなくて農家でもないのに芋を植えたものです。

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ふきのとうさん、覚えていらしたのですね (KUMI)
2014-03-11 23:37:54
私よりもお若いのに、防空壕を覚えていたのですね。
子供だけでは怖かったでしょうね。
大分前、吟行句会の途中で防空壕らしきものがありました。
戦後生まれの人が「防空壕って?」と言うので、ああ平和・・と思ったものです。
私の姉も軍需工場へ行っていて、そこの空襲で大怪我をして帰ってきました。
わずか15歳の少女が戦争のために働かされるなんて・・
生きている間は、もう戦争はごめんです。
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