遺跡好き弁護士の一(はじめ)法律事務所

遺跡好き弁護士射場守夫は現在奈良県大和高田市一法律事務所にて業務中!遺跡紹介とたまに法律や仕事のお話をいたします。

吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)と猿石

2012-09-29 21:32:43 | 日記
長いこと伊勢方面を書いてきましたが、実は明日香村巡りの途中だったんです。
そういうわけで、本日は吉備姫王墓のお話。
記録によると9月14日に梅山古墳(伝欽明天皇陵)のお話をしましたが、吉備姫王墓は梅山古墳の前方部の先(西)すぐのところにあります。

吉備姫王は、欽明天皇の孫らしい。あまり信じていませんが、それぞれの被葬者を額面通り受け取ったら、吉備姫王はおじいさんのお墓のすぐそばに葬られたことになります。それってアリなんですかね?
梅山古墳を見た後、直ちに吉備姫王墓の前へ。

相変わらず、写真を斜めにとってしまうクセはどうにかならんものですかね?

この古墳は小さな円墳で、中にも入れないし取り立ててどうということもないのですが、猿石は一見の価値有りですね。
猿石は、吉備姫王墓の柵の中に4体並べられており、猿と言うよりは人を象ったもののようです。
まずは向かって一番左の「女」

光の加減や石に着いた汚れのために表情がわかりにくいですが、にこやかに笑っています。しかも、顔がほぼ平面になっていて漫画的な表現です。

左から2番目の「山王権現」(もしくは「山王権化」。人によって表記が分かれています。)

さっきの「女」もそうですが、裸です。この方も、すごく大きな口をV字型にして笑っており、自然界では存在しない表情です。

3番目の「法師」です。

この方は前髪を切りそろえておられる。体育座りで眉間にしわをよせて口を真一文字に結んでいます。気むずかしそうな方ですね。

4番目は「男」です。

ネーミングとは裏腹にそれほど男臭くありません。頭には烏帽子のようなものをかぶってにこにこしながら揉み手(?)でしょうか。この人も下半身丸出しのようで、ここだけはなんだか男を妙に強調しています。
っていうか、他の方々も同じですけど・・・・

これら猿石は、江戸時代に田んぼから掘り出され、梅山古墳の南側に置かれていたそうですが、その後現在の場所に移されたようです(ネット情報)。何時の物かは分かりませんが、同じくネット情報によると7世紀のものとのこと。
そして、現地に行っても見られないのですが、実はこれらの4体のうち3体には後ろにもでっかい顔が描かれているとのこと。
見たい~~~~~!
レプリカが奈良文化財研究所飛鳥資料館の庭にあるそうな。
今度見に行こう。

ネットで猿石皆さんの後ろ姿を見ると、いずれも鬼みたいな顔や、天狗みたいな顔です。ただし、法師さんだけは、肋骨が浮き出た背中が彫り込まれています。

猿石は渡来人を象ったものだろうという話があるみたいですが、見てのとおり現実に存在する人を象ったというよりは、人に似せた神様的なものみたいな気がします。
直感的には魔よけですね。鬼瓦とか。

伊勢神宮内宮その2

2012-09-28 11:55:30 | 日記
さて、神楽殿、五丈殿、木霊が住んでそうな老木と見たところで、いよいよ正宮です。正宮には階段を上っていきます。

あがっていくとすぐに正宮。
写真を撮りたいと思いきや、ここでも「撮影はご遠慮下さい」との看板。
当然か・・・・・orz

正宮は、天照大神を祀っているところです。

内宮は、巡回コースが決まっていまして、正宮を見た後は、来た道とは違った道を通っていきます。
正宮の脇を通ると、

20年ごとの遷宮の準備ですね。
さらに歩くと

境内にはこんな感じの巨木があちこちにあります。神秘的です。
さらに歩くと、御稲御倉(みしねのみくら)が見えてきます。

写真がブレています(-_-)
これは「御稲御倉神」(みしねのみくらのかみ)を祀っているということなのですが、これって倉の名前に「神」と付けただけですよね?
伊勢神宮の神田から収穫した稲を保管するところだそうです。収穫した米を保管する神様ということですかね?
これは、正宮と同様の唯一神明造の様式らしいです。これって高床式倉庫そのものですよね。

さらに少し歩くと、外幣殿(げへいでん)があります。神宝を保管しているところです。


そしてその先に別宮の荒祭宮(あらまつりのみや)があります。なんだかすごく人が並んでいたので、遠くから撮影するだけにしておきました。

少し近づいて

荒祭宮は「天照坐皇大御神荒御魂」(あまてらしますすめおおみかみのあらたま)という長すぎる名前の神様ですが、意味としては天照大神の荒々しい魂という意味のようです。前にもありましたが、神様と神様の魂は別個の神様になるんですね。
かなりわかりにくいですが、とにかくそういう意味なんでしょう。

境内をぐるっと回ってちょうど神楽殿の裏に出てきました。
そこにあったのが、由貴御倉(ゆきみくら)です。

ここに祀られているのは由貴御倉神だそうで、これも倉の名前に神を付けた神様ですね。
ここは、食物や果物を保管するところだそうです。
見てのとおり、板葺きの屋根で廻りを塀で囲んでいます。しかし、中は御稲御倉と同じように高床式になっているのです。
そこで、塀の中をのぞき込んでいると、不思議な物を発見!?

床下に石ですよ!
これも今まで見てきた不思議な石の造形に共通する感じがしませんか?
外宮で見たこれや

前回登場したこれ、

これらは、いずれも神様に関連するのは間違いないと思いますが、意味は分かりません。

今まで遺跡見学で見てきた、磐座(いわくら。神様が鎮座するところ。)に共通する物のような気がしますね。

ちなみにこんな池もありました。錦鯉がきれいですね。


さて、神社見学も終了し、おみやげタイム。
連休中だったものですから、人が多かったですね。

いきなり赤福の看板がど~ん。

さらに進んでいってもど~ん。さすが、全国区名物ですね。
ちょっと脇にそれると、

意外に閑散としています。「伊勢えびコロッケ」という看板にすごく興味をそそられますが、昨日の「伊勢うどん」の記憶が脳裏をよぎります。
やっぱやめとくか(^_^;)

思わず、長編となった伊勢神宮編もこれにて終了です。しかし、まだまだ見ていないところがたくさんです。
伊勢神宮の印象を私なりに一言で述べると
<神様テーマパーク>
ということになるでしょうか。
全体に苔むした雰囲気や不思議な造形物がそこかしこで存在感を放っているのがいいですね。
また来たいところですね。

伊勢神宮内宮

2012-09-26 21:35:43 | 日記
また、少し間が空いてしまいましたが、伊勢神宮の内宮です。
こちらは、正真正銘天照大神を祀っている神社ですね。
朝の内に月夜見宮を廻り、JR伊勢駅前からバスで内宮に向かいます。
バスの中にも書かれているのですが、お伊勢参りはまず外宮を回って、その後に内宮に参るのが作法だそうです。余り意識していませんでしたが、私もその作法通り外宮→内宮参拝をしていることになります。

バスに揺られながら外を見ていても、猿田彦神社や倭姫宮(やまとひめのみや)などの表示が出ていて、何とも興味がそそられます。降りていきたいですが、そんな時間はありません。
そういえば、途中に「皇學館大学」という大学がありました。神道でも教えてるんでしょうかね?

内宮前のバス停に着いて境内に向かいます。連休で人が多い!
入り口にかかった橋を撮りたかったのですが、人が写り込んでしまうのでだめですね。
代わりに橋の上から五十鈴川を撮りました。

橋の横に並んで立っているものはなんでしょうかね?

広い境内を進むと、立派な松林が、

どうもこのあたりは神苑というところのようです。
松林の反対側にはニワトリが

石上神宮にもニワトリがいましたね。ここのニワトリも近所の方がこの辺に放置してきたのかな?
もう一つ橋を渡って、向こうに見えるのが第一鳥居だそうです。
人の流れに合わせて進んでいくと、またまた、「おやっ」というものが・・・

なにこれ?これにはしめ縄ないけど・・・
伊勢神宮ってこういう不思議な物があちこちにあるのがいいですよね。

そうこうしている間に、神楽殿に到着。

見てのとおり、神楽殿は檜皮葺ではありません。
神楽殿にくっついて五丈殿があります。

雨天の際に御祓い、大祓、遙拝などを行うそうな。

そして、本日のシメ。精霊が住んでいそうな老木。

五丈殿を少し進んだところにこんないい感じの老木が・・・木霊でも住んでいそうですね。
近づいてみると、

ここにも、不思議な石組みが・・・
そういえば、外宮で見たこれ

とちょっと似ていますね。
両方とも、真ん中の石が神様を象徴していると考えていいのでしょう。

月夜見宮

2012-09-22 20:58:37 | 日記
夕暮れ時の外宮巡りから一夜明け、朝の内に月夜見宮に行ってきました。月夜見宮も外宮の別宮なのですが、境内の外にあるため、日を改めることにしたのです。
朝になって町を見ると、JR伊勢駅前にあるデパートは閉店しているようで、こういう場所でも不況の波は押し寄せていたようです。そういう静かな町の中に月夜見宮はあります。

鳥居をくぐって境内にはいると

中がクランク状の通路になっています。江戸時代の城壁を思わせます。
そこを通り抜けると

二人連れがお参りしていますよ。いいですね。

朝だったせいか人もあまりいなくて、大変静かでした。
というより、先ほどのクランクの通路によって、外の雰囲気が遮られ、まるでここだけ別世界のような雰囲気になっています。

月夜見宮の右側に回り込んで

こうやってみると、かっこいいですね(^_^)

右側を進んでいくとこんな謎なものが

何かの敷地のようですが、なんでしょうか?
さらに進むと

高河原神社というそうで、これは外宮の摂社(別宮より低い地位の神社。)とのこと。
この神社をさがって見ると、その敷地はこうなっています。

これは、先ほど建物のない小さな敷地状の形状と似ていますね。
やはりあれも神様関連の施設なんでしょう。神様が本当はそこにいるんだけれども、小さすぎて敷地も小さくなったとか。

反対に月夜見宮の左側に回り込むと

枯れた大木の下に小さな狛犬?
近くで見るとこう。

ご神体の石の上の方が人の顔みたいに見えるのは気のせいか?
大木は完全に枯れていたようでした。しかも、表面が焦げていましたね。何があったんでしょうか?

月夜見宮は、月夜見尊(つきよみのみこと)とその魂の月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらたま)の二つの神様が祀られているとのこと。
ちょっと待って、その人とその人の魂を別に数えるんですか?
神様の世界ではそういうのもありなんでしょうか?

伊勢神宮外宮(げぐう)その2

2012-09-20 22:41:33 | 日記
夕暮れ時の外宮巡りその2です。
伊勢神宮の外宮には「別宮」といって他の神様を祀っている社がいくつかあります。今回は、土宮、風宮、多賀宮を回ってきました。そして、最後に番外編でのうれしくないサプライズが・・・

正宮を離れて、池を渡って右を見ると、別宮「土宮」があります。別宮というのは正宮に次いで地位が高いという意味だそうです。
土宮左斜め前から。

正面から。

土宮は、在地の土地の神様である大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀った社だそうです。
ご覧の通り、掘っ立て柱建築です。敷地には白い砂利を敷き詰めています。

土宮から振り返って進むと同じく別宮の「風宮」です。

奥の本殿は檜皮葺のようですが、本殿に造り付けられた拝殿は板葺きです。少しは日当たりがいいのか、正宮に比べて苔むしていませんね。
正面から

風宮は、「級長津彦命」(しなつひこのみこと)と「級長戸辺命」(しなとべのみこと)というらしい。多分風の神様だろう。
元々は、水田耕作などに都合のよい適度な雨を降らせる神様だったようですが、元寇の際には祈祷によって元の船団が退却したため、神風を吹かせる神様になったそうな。
というわけで、幕末の黒船など、こわーい外国船が日本周辺海域をうろつき始めたときには、攘夷の祈願を15日間行ったようです。しかし、黒船が台風で退却したという話は聞かないので、多分空振りに終わったのでしょう。
打率5割ですな。結構高い(^_^;)

そして、少し山を登ったところにあるのが「多賀宮」(たかのみや)です。

多賀宮は別宮の中でも一段位が高いそうで、正宮についで厚遇されているようです。「多賀」というのもやたらとめでたい漢字を使っていますしね。ここも、他の別宮同様掘っ立て柱建築で、白い砂利が敷き詰められています。
多賀宮を後ろにすると、建設工事の足場がありました。そこに「おやっ」と思う光景が・・・

足場から木が生えている・・・ように見える。
さらに近づくと、

木を切ったり、折ったりしないように足場に穴を開けて木を通しているのです。ちょっと驚きです。多分神社から木を折らないよう指示されているのでしょう。

ところで、別宮に敷き詰められていた白砂利を見て、前回の謎のしめ縄が少し理解できたように思います。
前回しめ縄に囲まれた不思議な敷石の写真をお見せしました。これです。

これって、この別宮の白砂利と似ていませんか?
そこで、仮説。
①以前はそこに別宮ほどでもない社が建っていたが、現在朽ち果てて敷地が神様の名残として残っている。
②実はそこに新しい神様が鎮座しようとしていて、あと何十年何百年かするとそこに社が建つ。
③そこは、神様の仮設の休憩所である。いつもそこに神様がいる訳じゃないから社はない。
④神様は神様でも実は大変困った招かざる神様がそこにいる。そんな神様だから社はないし、敷地も中途半端である。
いずれにせよ、しめ縄している以上は、神様関連の施設なんですよね。誰か知っている人教えてくれないかな?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

というわけで、夕暮れ時の外宮巡りが一段落して帰ろうと思ったときには日もとっぷりと暮れてしまいました。
ついでにどこかで晩ご飯を食べて帰ろうと思って見るとあちこちに「名物伊勢うどん」というのぼりがあるじゃないですか!
「へ~、ここはうどんが名物なんだ?」って思って、あるお店に入りました。
「以前高松に行ったときの讃岐うどんはうまかったな~~」とか思いつつ。

メニューを見るとどれも2000~3000円の高いものばかり。うどんを食べに来たんだからそんなものは要りません。
「冷たいうどんありますか?」とご年配の店主さんに聞くと「600円ね。」と。それで、冷たいうどんを注文しました。

他にお客もいなかったのですが、ずいぶん待って、ようやく来たと思ったら、やけにシンプル。皿の上に氷とうどんが載って、めんつゆが付いているだけ。あと、3きれほどのトマト。
なんだか嫌な予感がしつつ、それでも食べました。

び~~っくり!?
感心するほどまずい!? うどんゆですぎで溶けかかっているし。うどんが途中で何本かにさけてるし。食べてるとなんか苦いし。
そこで、はっと思い出したのが、出雲大社の近くでも大変まずい出雲そば屋さんがあったなと・・・。要するにお客さんがたくさん来ると店が育たない?
「お店のセレクトを間違ったかな?」と思いきや。グーグルで「伊勢うどん まずい」で検索したら出るわ出るわ!
こんなストレートな検索でもこんなに出るのね・・・

「伊勢うどん=まずい」というのが有力な説なようで。しかし、考えてみれば、「こんなにまずい名物があるんだ。」ということを体験できただけでもすごい得した気分(^^;)

「ただのおいしいもの」だったらきっとすぐに忘れられてしまうよ。
だから大丈夫!!
多分豊受大神(とようけのおおかみ。外宮の主神。天照大神の食事を作るためにいらっしゃった。)が裏技として伊勢の皆様方に伝授した方法なんですよ。
がんばれ伊勢神宮!(^^)/

伊勢神宮外宮(げぐう)

2012-09-18 21:05:54 | 日記
二日連続の更新になります。体調悪くて長期間さぼっていましたからね。少しペースを上げようかと。

伊勢神宮の外宮です。
昨日書きました有史会9月例会の日、ホテルに到着したのが午後4時頃だったので少し伊勢神宮を見ておこうかと思って出かけました。
ホテルから歩いていると、

「天照学園」??すごい!!さすが伊勢神宮のお膝元。
でもよく見たら「てんしょうがくえん」だそうで。「あまてらすがくえん」だと差し障りがあるのでしょうか?

てくてく歩いて、外宮の前に到着。少し薄暗くなっています。ちょっと天気が悪かったですからね。

外宮は、天照大神を祀ったのではなく「豊受大神」という衣食住の恵みを与える産業の神様だそうです。今から1500年前に丹波国から天照大神の食事を作るためにこちらにやってこられたとのこと。神様の食事は神様が作るのね。

外宮にはいるためには、まず火除橋を渡ります。これです。

火災の延焼を防ぐために堀を作っているそうな。
うっそうとした参道を歩いていると、本日最初のサプライズ。

う~~んすごい・・・みごとな巨木。


さらに、100メートルくらい進んでいくとおかしな物が・・・

四角いスペースに白い砂利が敷き詰められているだけなのですが、そこをしめ縄で囲んでいます。
どういう意味があるのか?
さらにおかしな物が・・・

石を四角く並べた内側に3個の石を互いにもたれさせるように立てています。
それを、同じようにしめ縄で囲んでいます。どういう意味があるのか??

これらの謎は、後で少しだけ解けます。

正宮の近くまで来ました。池を発見。

カメが泳いでいます。見えますかね?

そして正宮。

家族連れが写真を撮っていますね。写っているのは拝殿で、本殿は中に入らないと見えません。
正面から撮影。

檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が苔むしています。よく見ないと分かりませんが、地面にダイレクトに柱をさして立てている掘っ立て柱建築です。高床式倉庫に近似する建築様式で、神明造と呼ばれています。

中に入ってさらに奥を撮影したいな~~~と期待に胸をふくらませて囲いの中に入りましたが・・・
「撮影はご遠慮下さい」だそうで、ガックリ・・・・orz
遺跡などを見ていると、必ずいいところでこういうガックリイベントがありますよね。
中で撮影したらいけないんだったら、外から写せるかな?

拝殿の後ろに少し屋根が見えますが、これは本殿ではありません。さすが、伊勢神宮ブロック堅いな~~。

正宮は風格を感じましたが、外宮はこれだけではありません。夕暮れ時の外宮巡りはもう少し続きます。

友史会9月例会(伊勢雲出川流域を歩く)

2012-09-17 19:05:18 | 日記
橿原考古学研究所有史会9月例会に行ってきました。
今回巡った遺跡はヴィジュアル的に微妙なものが多かったので、冒頭写真は伊勢街道雲出川(くもづかわ)の渡しにあった常夜灯です。

今回の例会は、近鉄大阪線を宇治山田方面に向かい、途中の伊勢中川駅を降りて行きました。私は、今回は伊勢市に泊まって翌日伊勢神宮を巡ろうと計画していたので、一泊二日の荷物を持って来ていました。
「当面必要な荷物以外はコインロッカーに預けようかな」と思いきや・・・。
「コインロッカーはありません。」「手荷物預かり所もありません。」と駅員さんににべもなく断られました。すごく冷淡だったな~(T_T)
したがって、一泊二日の荷物を背負って遺跡巡りをすることに・・・・

気を取り直して・・・伊勢中川駅に集合していきなりサプライズ。

この駅の場所は片部・貝蔵遺跡であり、墨書土器が始めて出土した場所とのこと。写真も「田」の文字が書かれていますよね。
次に西山1号墳。

4世紀前半の前方後方墳と考えられています。その後、三重県農業研究所にお邪魔して三重県がどれだけすごいかという話をいただきました。「ピーマン」の名前を流通させたのは三重県だそうで、茶畑の防霜ファン(茶畑の上数メートルの上から下に風を送ることで霜を降りなくさせる装置。)を作ったのも三重県、いちごの高設栽培(腰を曲げなくても収穫できる。)を始めたのも三重県だそうです。
三重県人すごいよ!!

次に筋違遺跡(すじかいいせき)です。これは弥生時代の住居跡と水田跡がセットで発見された珍しい遺跡です。
向かう途中こんな感じの平地を歩いたのですが、とにかく風が強い。

お話によると、この地域は地形のせいで常に風が強いとのこと。
筋違遺跡到着。しかし、

ご覧の通り、特に何もなし。仕方ないのでご近所で植えられていた花を撮りました。へたくそですが。

次は、弥生から古墳時代にかけての遺跡、西肥留遺跡(にしひるいせき)です。ここでは、弥生時代の井戸から鞴羽口(ふいごはぐち。ふいごから風を吹き込む部品。)が出ており、金属器生産が行われたようです。

松浦武四郎記念館。

江戸末期の人で、蝦夷地を6回探検し、正確な北海道の地図を作り、アイヌの人たちがつけた土地の名前を9000個以上記録したり、当時の松前藩が行ったアイヌに対する収奪の様を細かく記録して幕府に告発しようとしたようです。しかし、このルポが公表されるのは、明治末期、本人が逝去された後でした。アイヌの人々に対する収奪は明治になってからも続きました。

そこから、伊勢街道を通って雲出島貫遺跡へ。しかし、この途中が本日は最もおもしろかったです。街道沿いの民家を見てみると、どれもこれも「屋号」を表札みたいに出しているのです。

「油屋」「鶴屋」。油屋は普通の民家ですね。鶴屋は以前商売をしていらっしゃったみたいですが、現在はされていない様子。

「柿友」。今は自転車屋さんのようですが、以前はなんの商売をしていたのでしょう?想像しただけで楽しくなります(^_^)

「カフェ跡」??なんと伊勢街道にカフェーがあったのか?カフェーが日本に入ってきたのはどうも明治末ころのようです。法律を勉強している人なら誰でも知っている「カフェー丸玉女給事件」は昭和10年の大審院判決ですから、意外に古いカフェーの歴史。このころまでは伊勢街道は残っていたんですね~~~。
にしても、「跡」って何?
自分の店に「跡」って付ける店主なんているんでしょうか?
最初から負けてるみたいじゃないですか?


左、「ふろ屋」って、今は食料品店ですけど。
右、これはすごい「床良」(とこりょう)。現在も床屋さん!!
すごいすごい!
もう、すっごくたのしいです(^^)/

さらに歩くと先ほどの松浦武四郎生家。伊勢街道沿いにあったんですね。

本日最高に盛り上がった場所でした。

伊勢街道を北抜けると雲出川に出ます。

さらに雲出橋を渡ると雲出島貫遺跡。

ここは、縄文から江戸時代まで断続的に続いた遺跡ですが、とりわけ弥生時代に着目すると、ここから関東、近畿の土器が多量に出土しているとのこと。外来系の土器の出土は、纒向遺跡が有名ですが、他の地域にも多かれ少なかれあるようですね。

最後に木造赤坂遺跡。縄文から室町時代まで続く遺跡です。古墳時代中期から後期の住居跡が見つかり、陶質土器(高温で焼いた土器。http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/bunkazai/da/item/detail.asp?wag=6&prePageNum=2&mngnum=0000914)(三重県の文化財に指定されている。)、水晶製の経軸(7角柱の軸状の物)、滑石製鍋が出土しています。

この日は時々雨が落ちるあいにくの天候。一泊二日の荷物が重たい行程でしたが。伊勢街道を見れただけでもよかったよかった。

次は伊勢神宮外宮(げぐう)です。



梅山古墳(欽明天皇陵)

2012-09-14 20:46:43 | 日記
もう9月の半ばだというのに相変わらず暑いですね。私はようやく夏風邪から復活してきました。
ところで、あさってはいよいよ橿原考古学研究所有史会の9月例会です。行き先は三重県伊勢地方の雲出川流域。東海地方の遺跡は言ったことがなかったので楽しみです。
例会までに体調が回復してよかったよかった。

今回は梅山古墳です。欽明天皇の墓に比定されているのですが、学説的には欽明天皇の墓は以前ご紹介した見瀬丸山古墳が有力とのこと。
全長約140メートル、後円部径約72メートル、前方部長107メートルの前方後円形をしており、明日香村唯一の前方後円墳とされています。もっとも、この墳形は、もともとは双円墳だったものが文久の修陵(江戸時代1862年から幕府が行った墳丘の改築事業)によって前方後円墳に変えられたとの説もあるようです。
もし、本当だったらきわめて残念ですね。

明日香村巡りで鬼の雪隠と俎を見た後、そのまま西の方角に自転車でうろついていると、右に大きな古墳が見えてきました。これが梅山古墳です。こんな感じ。

東西と北側を低い丘陵が囲んでおり、多分その丘陵の一部を切り取って整形して作った古墳ではないかと思いました。

近づいてみると周濠があります。

前方部の先に階段があって上るとちょうど鳥居を見下ろす感じになりました。珍しいのでパチリ。


しかし、本当にもともとが双円墳だったのなら返す返すも残念です。双円墳ってほとんどないのに。もったいない(>_

野口王墓(天武持統陵)

2012-09-13 21:06:44 | 日記
本当に久しぶりの更新となりました。夏風邪をこじらせてしまって、この2週間ほどはまともにブログに手を着けることができませんでした。

ところで、今回も明日香村で、野口王墓です。これはいわゆる天武・持統合葬陵でして、被葬者が明確になっている珍しい古墳です。
東西約58メートル、南北約45メートル、高さ約9メートルの円墳状をなしていますが、築造当時は5段築成の八角墳で周囲に石談を巡らせていたようです。きれいですね。
埋葬主体は、切石製の横口式石槨で、2室あり、天武天皇は石棺に納められ、持統天皇は火葬されて金銅製の骨壺に納められていたとのこと。
しかしながら、1235年に盗掘されてしまいました。そのときの記録に「阿不幾及山陵記」というものがあり、当時の石室の様子が記されているようです。

この古墳は、高松塚古墳から県道209号線を少し北に進んだところの左側にあります。丘陵上にありまして、冒頭写真にある階段を上っていけば、陵墓特有の鳥居があります。


それを通り過ぎて、何とか八角墳らしいシルエットを捕らえたいと墳丘の周囲をぐるぐると回ります。

しかし、うまくいきませんね

この写真の手前にある盛り上がりは、墳丘周囲の石段の名残でしょうかね?

そうやって、ぐるぐる回っているとおもしろいものが

宮内庁もこんなにやわらかい表現ができるのですね。
ここも陵墓指定されていますから、例によってこんな看板がありましたが、

こんないかつい書き方をしなくてもいいんですよね。

・・・・・いや~しかし、この数週間はきつかったですね。季節の変わり目ってやつでしょうか?
仕事に支障がものすごく生じました。今も病み上がりで、ちょっと無理するとまた悪化しそうです。
みなさんも体調を崩さないように、バランスのよい食事と、十分な睡眠で健康にお過ごし下さい。

亀石(明日香村)

2012-09-04 17:24:33 | 日記
再び明日香村に舞い戻ってきました。本日は有名な亀石です。
高松塚古墳古墳を見た後、一旦県道209号線に戻り、北上して行きます。セブンイレブンのある信号交差点の手前の細い路地を東に曲がるとすぐに亀石に出会えます。

行った当時は大変暑い日で、自転車をこいで高松塚の後、文武天皇陵、中尾山古墳、天武持統陵と見てきました。もう汗だらけになっています。

ようやく亀石に到着しました。
亀石のすぐ隣には小さな食堂がありまして、ソフトクリームを注文して一息。
それから、亀石にご対面。
亀石全景。

顔だけみると「かえる?」という感じですが、全景を見るとやはり亀ということでよいのではないでしょうか?

亀石は、作成された時期も作られた目的も明らかではありません。一説によると、川原寺の四至(所領の四隅の境界を示したもの)ではないかとのこと。
ほ~~古代の境界標ですか。これは驚きです。境界標というと私の職業柄、境界紛争を思い浮かべてしまいます。ご経験のある方もご覧になっているかもしれませんが、境界紛争は解決が難しい紛争類型の一つです。

亀石にまつわる伝説があります。
昔大和盆地が湖だったころ、対岸の当麻(たいま)と川原との間で喧嘩がおこった。喧嘩は当麻が勝ち、湖の水を全部取られてしまった。そして、湖に住んでいた亀がみんな死んでしまった。かわいそうに思った村人たちは、大きな石に亀の姿を彫り込んで、供養したとのこと。
現在亀石は南西向いていますが、西の当麻の方向を向いたとき、盆地は泥沼になるとのこと。

そりゃまずいですね。
私が住んでいるところは、大和高田市で、ちょうど川原寺と当麻寺の間にあるんですよ。泥沼の底に沈んじゃうじゃないですか。
もっと足繁く明日香村に足を運んで、亀石の機嫌を損ねないようにしなければ・・・・・・・・