遺跡好き弁護士の一(はじめ)法律事務所

遺跡好き弁護士射場守夫は現在奈良県大和高田市一法律事務所にて業務中!遺跡紹介とたまに法律や仕事のお話をいたします。

裏の駐車場の猫

2013-02-28 23:18:57 | 日記
私が遺跡を求めて奈良弁護士会に登録変更して明日で丸1年が経ちます。丸1年が経つ前に1回更新しようと思っていたのですが、今日も後約30分。ということで短めに終わるお話。

私の事務所の裏には駐車場があるのですが、そこには猫が出没します。私が1年前に開業したときにはまだ子猫でしたから、この猫と事務所の年齢はほぼ同じになります。
私は猫が好きなのですが、この猫はむすっとした顔でありながらなかなか愛嬌のあるやつです。
座った姿勢が少し悪いですね。けがでもしたのでしょうか?

春から夏、夏から秋、秋から冬と毎日毎日律儀に駐車場に現れているようです。私も事務所に出ない日はほとんどありませんから、しょっちゅう顔を合わせることになり、こうして写真を撮れる仲になりました(^_^)v
これは、丸くなっているところ。

これはちょっとかっこいいですね。


多分野良猫で、あとどれくらい生き残れるのか分かりませんが、私の事務所も同じようなものです(^_^;)
一緒にがんばろう。

山畑21号墳そのほか

2013-02-24 19:59:08 | 日記
本日で東大阪市の古墳巡りは終了です。
まずは、山畑21号墳から。
この古墳は前々回ご紹介した山畑22号墳から数十メートル斜面を上った場所にあります。
中に入りますと。

なかなかに立派な石室です。
全体が台形になっていて、天井が少し狭くなっていますね。

側壁。

天井石。

まぐさ石です。
全体にごつごつした印象です。
でもよく見ると・・・・

線刻がありますね。
何かの絵なのかどうかすらわかりませんし、もしかしたら後世のものかもしれないのですが。。。。
一番右と下の写真は鋸歯文(きょしもん。のこぎり状の文様であり、銅鐸や埴輪、横穴式石室の装飾などに用いられた模様。)の一部のようにも思えます。

この山畑21号墳や22号墳の背後の斜面にもたくさん古墳があるのですが、これらは大きく破壊されており、横穴式石室の下の部分しか残っていません。
最後にこれらをご紹介します。

まずは、山畑38号墳。

僅かに奥壁の最下段と側壁の最下段を残すのみで、ほとんど石室が残っていません。

次に39号墳。

これはまだ比較的よく残っていますね。

40号墳。

これもまだ残っている方かな。

41号墳。

これはひどい。完全に消失していないだけでもよしとしなければいけないのか。。。。

これらの古墳を見ながら上っていきますとこんな石がありました。

切り出しかけて放置された石ですね。

この付近に石切町という地名があるので、このあたりが石切場であったのかと連想してしまいました。
何時切り出されたのか分かりませんが、この付近の古墳のために切り出されていたのであればおもしろいですね。

山畑12号、20号墳

2013-02-22 22:51:11 | 日記
お久しぶりです。間が空いてしまいましたが、今回も山畑古墳群からのご紹介。

まずは、山畑12号墳です。
この古墳は、前回お話しした東大阪市立郷土博物館の南側の道を数十メートル上って行くとありますが、藪の中に隠れています。

藪をかき分けてたどり着いた石室の入り口はこんな感じです。

入り口が半分埋もれています。
それでも中にずるずると入っていきます。仕事帰りに寄っただけなんですが、一度来たからには入らないといかんでしょう(^^;)
すると

中は結構立派です。

側壁です。

天井石です。側壁が持ち送り式になっていて天井が少し狭くなっています。

まぐさ石です。大きいですね。豪快な感じです。

わずかに袖が両側に付いています。

山畑12号墳から少し道を下におりると、山畑20号墳が道に向かって開口しています。
しかし、・・・・

なにこれぇ~~~~~~!?
物置(-_-)
めげずに奥を撮影。

石室内部に木と板で柱と天井を作ってる・・・・・
補強だろうか・・・
奥の方まできっちりと物を置いていますね(-_-)

山畑22号墳(東大阪市)

2013-02-16 22:03:24 | 日記
引き続き東大阪市の古墳巡りです。
山畑古墳群に行ってきました。
山畑古墳群は、東大阪市の東側の山腹に分布する古墳群で、6世紀から7世紀にかけて盛んに築造された群集墳です。本来は100基以上の古墳が存在していたようですが、開墾等により現在では約30基を残すのみとなっています。

これらは、東大阪市立郷土博物館の近辺に集中していますので、とりあえずこの博物館の駐車場を目指して進みました。
ところが・・・・傾斜がすごいし、道がすごく狭い!
山腹に密集する住宅街の隙間に作られたような道なので、前から自動車が来ないかとハラハラドキドキです。

今回ご紹介する山畑(やまはた)22号墳は、なんと・・・・極めて珍しい双円墳です!!
っていうかこのまえご紹介した神並5号墳もそうでしたけどね。
とりあえず、正面から。


この古墳は博物館の駐車場に隣接して保存されていますが、双円形の内東側の墳丘は削られて無くなっています。・・・・誠に残念(T_T)
さっそく中に入らせていただきます。まずは、羨道から奥へ

ごつごつとした敷石が豪快ですね。

向かって左側が片袖のようです。


奥壁です。

玄室内の床。

玄室右側壁です。

左側壁。

まぐさ石です。これも大きくて豪快です。

せっかくの双円墳なのでとりあえず墳丘にあがって双円形の痕跡を探します。

墳頂には石室の天井石が露出。

東側の墳丘の痕跡です。若干盛り上がっていますね。
ここにも墳丘があったのでしょうか?

山畑22号墳は、6世紀後半に築造された古墳で、残存する西側墳丘は直径15メートルほどです。石材は付近の生駒山から採れる石を使っているとのこと。
ここから、須恵器の装飾壺、土師器椀や直刀、耳環、子持ち勾玉などが出土したようです。

そういえば、博物館にも展示してありました。

写真奥側に並んでいるのがこの古墳の出土品です。
左から土師器壺、須恵器無蓋高坏、須恵器はそう、須恵器装飾壺です。

次回も引き続き山畑古墳群です。

神並6号墳(東大阪市東石切町)

2013-02-13 22:53:09 | 日記
前回に引き続き東大阪市巡りです。
前回神並5号墳を見ましたので今回は神並6号墳です。

この古墳は、東石切町の千手寺の本堂の裏にあります。ここには駐車場もありますが、山肌に貼り付いたような住宅地にありまして、道もかなり狭くなります。車で訪問される方はご注意を。

お寺の駐車場に車を止めて行きましたが、自分の見たい古墳だけ見て帰るということでは申し訳ないので、浄財を入れてきました。
駐車料金ですね(笑)

せっかくお寺に来たので少し見ていきますと、桂文之助という落語家(?)の歌碑がありました。

「業平と 背中合わせの ぬくさかな  そろり」

そして、本題。

ありました。神並6号墳。
羨道部はすでに失われているようですね。
解説板はなく、ネット情報によると、6世紀後葉に築造されたようです。
須恵器、土師器、耳環が出土したようです。

中に入っていくと、

玄室だけなので、すぐに奥に行き着いてしまいます。
奥壁もおおよそ三段で構成されています。

天井石。

左側壁に変な物発見!
壺が壁に埋め込まれている・・・・・

後世の人がしたに違いないのですが、それにしても何故・・・・

次回も東大阪市で山畑古墳群です。

神並5号墳(こうなみごごうふん)

2013-02-10 19:04:54 | 日記
今日は、仕事の関係で大阪に行ってきました。そうなると、当然、仕事が終わった後は、迅速に古墳を見学しなければなりません。
弁護士の仕事自体は迅速には終わらせられないので(丁寧がモットーです!)、少ない時間を活用してダッシュで古墳を見ていくわけです(^_^;)

今回は、東大阪市の古墳を拝見です。
神並5号墳は、夫婦塚古墳とも呼ばれ、東石切町の住宅街の中にあります。
なんと世にも珍しい双円墳だそうです。冒頭の写真も二つの円墳が隣接しているのが分かるでしょうか?
まさに夫婦のようです。
遠くにあるのが、東側の墳丘、手前側が西側の墳丘です。
まずは、東側の墳丘に入ります。

奥の天井石が崩れて明かりが射しています。
羨道側壁

あっちゃ~。急いでいたので、ピンぼけ・・orz
続いて奥壁です。

そして、天井石。

玄室側壁

ごつごつとした野趣あふれる石室ですね。
まぐさ石。

これは大きい!
この石室は、全長約9.2メートル、片袖式です。発掘調査を行った結果、2体が埋葬されていたことがわかりました。
周囲からは、須恵器、土師器、銀製品や玉類、とりわけ人物や犬を象った装飾土製品が出土していました。祭祀用ですかね?来世の様子を表現したとか?
こんな感じです。


続いて、西側石室です。

見てのとおり、入り口の前にフェンスがあって入れないかと思いきや!?
鍵がかかっていなかったので、「立ち入りオッケーなんだ!」と確信しました。間違いなく確信しました。絶対です!
羨道から奥へ。

奥壁。

側壁。

まぐさ石。

天井石

片袖ですな。


西側石室は、全長約9.6メートル、内部には3体の遺体を葬ったようです。鉄釘が出土し、木棺が使用されたことが分かっています。ここからも、須恵器、土師器、耳環、鉄製品が発見されています。
築造時期は6世紀中頃のようです。

石室の規模や形状、石の造り、奥壁などから見て、これは多分群集墳の1つなんでしょう。
しかし、双円墳とはなかなかカブいているといったところでしょうか?

ちなみに、ネットで調べてみると、双円墳は河内郡河南町にある金山古墳だけみたいなことが書かれていますね。
どちらが正しいのでしょうか?


楯築遺跡(たてつきいせき)

2013-02-09 21:22:12 | 日記
今回は岡山県の楯築墳丘墓をご紹介です。
楯築墳丘墓といえば、弥生時代の巨大墳丘墓です。中心の円形の墳丘の両側に円形または方形の突出部がつきだしており、現存全長は約72メートル、中心の主墳の径約50メートルです。後の古墳時代の古墳に全く引けを取らない大きさです。

今までにも何度か来たことがありますが、久しぶりですね。今回は、岡山への出張があり、そのついでに寄ってきました。スーツ着たままで(^_^;)

途中、地図を見ると楯築の周りにもいくつか古墳があるようです。

しかし、今回はそれを回っている余裕がありません。
この地図を見ていただければおわかりかと思いますが、丘陵の中央にある点線が楯築遺跡の輪郭です。しかし、突出部が思いっきり削られてしまっています。非常に残念です(T_T)

気を取り直して、丘陵の頂上に着くと、いきなり列石発見!

楯築は、周囲を取り囲むように石が並べられていたようです。
墳頂には、有名な巨石が立て並べられています。

楯築遺跡は、これまで岡山大学文学部考古学研究室を中心に6回の発掘調査が行われ、破壊された突出部には、石列があり、丹塗り(赤色の顔料。酸化鉄?)の壺形土器が多数設置されていたようです。
主墳の墳頂にはこの墳丘墓の主のものと思われる埋葬施設が存在し、木棺とその周りの木槨が存在したようです。
木棺の長さ約2メートル、幅約70センチメートル、棺底には朱(赤色硫化第二水銀というそうな。)が30キログラム以上も敷き詰められていたようです。木槨の長さ約3.5メートル、幅約1.5メートル、槨の横には溝を掘って石を詰めた排水施設が存在したようです。
これが発掘当時の写真です。

埋葬主体の中から、鉄剣1本、首飾り×2、管玉、ガラス玉多数が副葬されていたようです。
後の古墳時代の副葬品に比べると貧相に感じられるかもしれませんが、盗掘されたのかもしれないし、副葬品がやたらと豪華な古墳時代と比べて考え方も違うのかもしれません。

この遺跡には昔楯築神社がたっており、そこに伝世されていたのが「亀石」と呼ばれる弧帯文を線刻した石でして、これがこの収蔵庫にあります。

何とか見たかったですね。
亀石にはちょうど毛糸の束をねじったような模様が連続していく不思議な線刻が全面に彫られております。これが何時のものか分かっていなかったようですが、埋葬主体の周囲から、多数の石片が発見され、それをくっつけると亀石と同じ模様を線刻した石になったとのこと。
したがって、亀石は弥生時代から伝世されてきたと言うことになりました。
すっごい!!

約1800年もの間、同じ場所を動くことなく、その場所で祀られていたわけですな。

破壊されていたのは、弧帯石だけではなくて、吉備特有の特殊器台(壺を据えるための器台が巨大化装飾化して、実用品としての実質を失ったもの)や高坏、人形土製品、土製勾玉、管玉などだそうです。墳頂で首長をおくるための祭祀が行われたようですね。亀石もそういった呪術的な意味を持ったのでしょう。

弧帯文は後に纒向石塚の周濠から発掘される弧文円板として引き継がれ、特殊器台は箸墓などで特殊器台形円筒埴輪として引き継がれていくわけです。

私は、弧文円板の模様や特殊器台に描かれた不思議な模様が結構好きです。弥生の皆さん方はこれを見て何を思ったのでしょうか?

新山古墳(奈良県香芝市)

2013-02-07 22:45:07 | 日記
今回は、私の自宅の割と近く、新山古墳(しんやまこふん)をご紹介します。
新山古墳は、北葛城郡に広く分布する馬見丘陵古墳群に属する前方後方墳です。
築造年代は特に記載されていませんでしたが、古墳時代前期だと思います。

理由はよく分かりませんが、この古墳も陵墓参考地にされており、立ち入ることができません。

こんな感じでフェンスが巡ります。
例によってこれも、


めげずに墳丘を撮影。

案内看板無いかな~と思って探していると・・・

なんだこりゃ?

反対側に解説が書かれていました。
しかし、垣根が邪魔して正面に回り込めません。

この古墳は、全長約126メートル、前方部幅約66メートル、後方部高約10メートルと推定されています。
明治時代18年に後方部から竪穴式石室と組み合わせ式石棺状の施設が発見され、三角縁神獣鏡、小形内行花文鏡、車輪石、石釧、中国晋代の帯金具直弧文鏡などの多数の遺物が出土しています。

周囲にはため池がありますが、どうやらこれは周濠の名残であったようです。
中に立ち入れないのは大変残念ですが、公園と隣接しており、見学しやすい古墳です。

傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)

2013-02-04 00:03:44 | 日記
一週間ぶりの更新です。再び更新が難しくなってきています。
全然儲かっていないんですが、どうしてでしょう?

今回は、傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)という大変長い名前の古墳です。宮内庁的には顕宗(けんぞう)天皇陵とされています。

奈良県中和幹線の香芝インターへの入り口を降りて、香芝インターへ向かう途中、住宅地の中にあります。
現場には、駐車場はありませんので近くに車を駐めて歩いて行きます。

それほど大きな古墳ではないようです。
近づくと

やっぱりありましたね。
ご覧のとおり、全体が林に覆われていますが、その切れ目から墳丘が覗けました。

小さめの前方後円墳ですね。しかし、ネットを調べてもこの古墳の規模や年代、出土遺物などを教えてくれるものはありませんでした。調査ができていないのでしょうか?

顕宗天皇については、幼いときに雄略天皇から逃れて苦労した話や兄弟で天皇の地位を譲り合った美談が記紀や播磨国風土記に残されているようです。

この日はよく晴れていて、絶好の古墳見学日和でした(^o^)