遺跡好き弁護士の一(はじめ)法律事務所

遺跡好き弁護士射場守夫は現在奈良県大和高田市一法律事務所にて業務中!遺跡紹介とたまに法律や仕事のお話をいたします。

自己紹介

2023-09-07 18:04:04 | 日記
射場守夫
昭和40年生、大分県出身、岡山県、島根県、鳥取県と転々とし、希望の地奈良県にたどり着く。
タクシー運転手をしながら受験勉強をし、現在弁護士である。
一 法律事務所
事務所名の「一」は、日本の歴史時代が始まった地が奈良盆地中・南部であることになぞらえたものである。

 いつものお話は次の記事からです。

古墳クッキーと共謀罪

2017-04-16 15:43:11 | 日記
特に古墳クッキーと共謀罪は何の関係もないのです(笑)
先週土曜日の4月8日に奈良弁護士会と日弁連の共催で「共謀罪法案の撤回を求める市民集会」とデモ行進に参加してきました。そして、その後久しぶりに古墳クッキーを買って帰ったというだけの話です。

しかし、テロ等準備罪は「一般の方々が対象になることはあり得ない」という政府の説明ですが、なんとまあ策略めいた物言いですね。
私たちの社会は、同調意識が不必要にまで強いわけでそんな中で共謀罪に反対しようものなら「非一般人」のレッテルを貼られかねないわけです。そうなると反対自体しにくくなってしまいますよね。
戦前の治安維持法成立の際も、社会運動を抑制しないと政府は主張していましたから「一般の方」の定義を明確にしない限り、「一般の方を対象にしない」と言っても意味がないですしね。

雨の中デモ行進を先導した先生方は大変だったでしょう。

それはさておき、デモに参加した後は、久しぶりにプチマルシェで古墳ケーキを購入しようとお店に入りました。

するとどうでしょう!
古墳クッキーなるものが売られているではありませんか!!
当然買って帰りました。

こんな丸いケースに入っております。

中を開けると

各種墳形がそろっています。
前方後円墳に円墳、方墳。珍しいところで双方中円墳、双円墳、八角墳ですね。
これはすばらしい!!
しかし、なぜ前方後方墳がないのでしょうか?



お引っ越ししました!

2017-02-28 22:13:29 | 日記
米子市から大和高田市に引っ越してちょうど5年が経ちました。
これを機に思い切って事務所移転することにしました。
とはいっても、前の事務所からわずか50メートルくらいのところです。
しかし、大和高田市役所の東隣で、裁判所の斜め前という大変大変便利な場所!


これから皆様に場所を覚えてもらうぞぅ~!!

ありがたや~

2016-06-22 21:17:55 | 日記
以前執務していた事務所の方から立て続けに頂き物がありました。
鳥取県の琴浦町の「あかさきエリザベスメロン」です。
毎年米子のIさんから頂いているものです。
すごく甘みがあっておいしいですな。

それから、

ブルーベリーですね。
これも毎年おくって下さる。米子のKさんだが、最近Hさんになった。

私なんぞのために大変申し訳ない・・・・

食べ物の話題でこんなことを言うのも何ですが、いつも誰かに支えられているなーと感じた今日この頃・・・

島の山古墳研究講座に行ってきました

2016-04-24 17:49:08 | 日記
このところ、橿原考古学研究所で開催される講座に全く行けてなかったのですが、久しぶりに行ってきました。
奈良盆地中央部にある島の山古墳(川西町)の発掘から20年を記念した講座です。

講座は二部構成で、第一部が「やまとの大開発時代と島の山古墳」、第二部が「オオツタノハから車輪石へ~島の山古墳の不思議」の予定だったのですが、第二部の講師が熊本大学の教授で、今回の熊本大分地震で急遽来られなくなったとのこと・・・(´д`)
震災の影響はこのようなところにも・・・・

自分は来週大分の実家に見舞いに行くのですが、多分交通機関は大丈夫でしょう。

というわけで、聞きたかった車輪石の話はお預けとなりました。しかし、代わりに島の山古墳の第一次調査の際の経験を交えた古墳の主体部や葺石、埴輪等の現存状況についてお話がありました。



墳丘は後世激しく開墾されており、墳頂近くは2メートルも削られているようです。したがって、後円部にあるはずの主体部は全く現存せず、竪穴式石室の石材と思われるものが、近くの比売久波神社境内や川西町ふれあいセンターにあります。
開墾の際、墳頂付近の土砂を下に落として平坦面を増やそうとしたみたいです。そのせいか、墳丘の裾の方は埴輪の保存状態が大変良いようです。

もっとも、前方部頂からは粘土槨が発見されました。
粘土槨外面におびただしい車輪石等の石製腕輪が貼付けられており、装身具の状況や反面武具などはほとんど見つかっていないことから、被葬者は女性であろうと推測されています。


次に、「やまとの大開発時代と島の山古墳」は、島の山古墳を纒向や柳本付近の初期の政権担当勢力との関係で捉えようとするお話でした。

古墳時代を作った纒向遺跡の勢力が他の地域から来たものではないかとの説が有力ですが、纒向や柳本付近から大和川の支流が合流する奈良盆地中央部は3世紀当時から肥沃な穀倉地帯であり、近年京奈和道の建設に伴う発掘調査等から多数の遺跡が発見され、その中に多くの東海系土器が多数発見されていることもそれを裏付けているとのことです。

当時の纒向や柳本付近の政権は、自らの政権基盤を強固にするため土地開発を推進していき、箸墓、西殿塚、行燈山、渋谷向山の各古墳に引き続いて島の山古墳が築造されたのではないかとのことです。

位置的には、島の山古墳は、馬見古墳群を築造した勢力とのつながりをイメージしやすいのですが、島の山古墳が大和川の重要性を意識した位置取りとなっているため、むしろ初期の政権担当勢力との関係で捉えようとするもののようです。

ちなみに島の山古墳は4世紀末から5世紀初頭とのこと。

その後、政権担当者は政治の中心を河内に置き、さらに後には奈良盆地南部に置き、奈良盆地南東部には政権の中心を担ったとは思えない小規模な古墳が継続して築かれることとなります。
しかし、それは、纒向や柳本付近から奈良盆地中央部にかけた地域の重要性が低下したのではなく、政権基盤を支える地位を保ち続けたとのことでした。

最初に古墳時代を作った勢力は、地元の奈良盆地の勢力のみではなく、吉備や出雲、北部九州、東海地方から来た勢力が中心だったという説よりも、おそらく奈良盆地の勢力が中心だったとの見方なのだと思います。

私はどちらというほどの知識を持ち合わせていませんが、奈良盆地は古くから継続して開発されてきた地域であり、遺跡がその後の様々な営みによって破壊され安く、本当は豊富な弥生後期の遺跡が存在した可能性はあるのかなと思います。

そのうち、島の山古墳の見学のご報告もしたいと思います。