遺跡好き弁護士の一(はじめ)法律事務所

遺跡好き弁護士射場守夫は現在奈良県大和高田市一法律事務所にて業務中!遺跡紹介とたまに法律や仕事のお話をいたします。

西谷墳墓群(出雲市)その2

2012-01-29 21:21:41 | 日記
写真は西谷3号墓です。これも大変大きく、南北30メートル、東西40メートル、突出部を入れると50メートルに及び、高さは4.5メートルの大型の墳丘墓です。2世紀後半のころに作られたとのこと。
これも整備されており、きれいな姿になっています。

これは南西側の突出部です。手すりがついて頂上まで登れるようになっています。
周囲を見ていただくと、石で墳丘が取り囲まれていますが、立石が2列になっています。
そして、

これが北西側の突出部です。それにしても大きいです。
後の古墳時代の巨大古墳に比べれば小さいのですが、それでも弥生時代にこれだけの労力と技術力を駆使してこんなものを作るのですからすごい!労働力としてかり出された皆さんは大変だったでしょうね~。

頂上にあがると、

こんなのと

こんなのがあります。
埋葬施設の発掘状況を再現したのですね。両方とも朱が敷き詰められておりまして上の方の写真の埋葬施設にはネックレス状に管玉と鉄剣、下の方の写真では同じく管玉と耳飾りが発見されました。

これは解説板。真ん中の写真に特殊器台と特殊壺が写っています。また、北陸系の土器も出土したようです。その辺の首長と交流があったのでしょうね。
日本海側は冬になると寒かったり風が強かったり、雨や雪が降ったりで気分もふさぎがちになりますが、このころの出雲地域は燦然と輝いていたようです。
次回は4号墓です。



西谷墳墓群(出雲市)その1

2012-01-28 15:58:01 | 日記
ジャジャーン!
写真は大型四隅突出型墳丘墓群。西谷墳墓群です。
四隅突出型墳丘墓は、弥生時代後期に盛んに築造された墳丘墓であり、古墳時代直前まで続きます。
1月4日にご紹介した青木4号墓のような初期の形態を経て、弥生時代後期に巨大化します。
まずは1号墓

「1号墓」の標識が立っています、木がじゃまになって少し見えにくいですが、手前方向に突出部が伸びています。

これは1号墓の解説です。立石(墳丘の一番外側に立てて並べてある石)と敷石(立石の内側の平面部分に平らに敷いてある石)の状況がよくわかります。2世紀後半に作られたもののようです。

次に2号墓

おお~っ!大変立派な墳丘ですが、当然復元です。というか2号墓はすでに大きく破壊されており、墳丘もほとんど残っていなかったようでしてわずかに残った墳丘に土をかぶせて保護しているようです。

これは南西方向の突出部。

これは北西方向の突出部。

さらにこれはお隣の3号簿から見たお姿。築造当時はこんな感じだったのでしょうか?

この2号墓は、発掘調査の結果南北36メートル、東西24メートル、突出部を含めると50メートルに及ぶ巨大な墳丘墓であり、墳丘斜面には貼石がびっしりと貼り付けられています。貼石は墳丘の崩壊を予防するためだったと思いますが、こうしてみると貼り石をつけたことによって見栄えもかなりよくなりますね。
わずかに残された埋葬施設から朱が発見され、木棺に朱が敷き詰められていたようです。また、すでに破壊されていましたが、中心的な埋葬施設があったらしき場所からガラス釧(くしろ。腕輪のこと。)やガラス管玉(マカロニのように穴が開いたガラス玉)、吉備(岡山)で作られた特殊土器(壺や壺を乗せる器台が実用品としての性格を失い、非常に巨大化、装飾化したもの。首長の死に際した祭りで使われていたようです。)などが発見されています。
2号墓を復元した方の偉いところは、2号墓の内部に展示室を設けたところでしょう。ただ単に土を盛り返しても考古学的な意味はないですからね。
2号墓内部展示室は、2号墓や3号墓の発掘調査の結果を展示しています。

これは2号墓発掘前の写真。この左下の方に、残された墳丘部分と復元部分を図にしています。
こっ、こんなに復元!?これでよく元の形がわかりましたね。墳丘以外のもの(立石とか敷石とか)も残っていたのでしょうか。

これは、2号墓の中心的な埋葬施設(中心主体)の想像図です。中心主体はすでに失われているから、ほかの墳丘墓から想像したものです。
その中心主体の模型も展示されていました。そこにあるスイッチを押すと

こんなふうに首飾りを着けた当時の被葬者の立体映像がぼ~っと浮かび上がります。一人っきりで見に行くと結構怖いかもしれません。

四隅突出型墳丘墓の形を初めて知ったとき「かっこわる!」とか「ヒトデ?」とか「四隅から飛び出た部分が不格好だから切り取れ!」と思ったのは私だけではないでしょう(自信あり)。
しかし、それは平面図形を見ているからであって、実際のものを見るとこんなに整った姿をしています。前方後円墳よりかっこいいかもしれません。

長くなってしまいました。次回は3号墓です。




奈良出張(日帰り)

2012-01-25 00:00:38 | 日記
1月24日は、新事務所の設立準備のため今の事務所のHさんと奈良県に行ってきました。
朝5時に米子市を出発。米子は雪で大体20cm位の積雪。高速道路が通行できるか心配でしたが、どうにかクリアー。
奈良についたときにはすでにヘロヘロの状態でしたが、休む間もなく内装工事の打ち合わせをして、奈良での住居を探して、事務用品の打ち合わせをして………。事務所設立ってお金がかかりますね~。
しかも、寝不足と疲労で、午後の打ち合わせでは業者さんがなにを言っているのか全然頭に入りません。そこは信頼しているHさんがきっと覚えてくれているだろう。

せっかく奈良に来た以上は、古墳の一つでも、見ておきたいところですが、そんな時間全くなし。
日帰りです。深夜に戻ってきました。うーんキツイ。

晩田1号墳2号墳(米子市)(忙しすぎ!)

2012-01-23 00:25:47 | 日記
もうっ!仕事ばっかりで忙しすぎです!どうしてくれるんですか!?って誰に言ってる?
というわけで、晩田山1号墳です。
……気を取り直してまたまた米子市淀江地区の古墳です。ご覧の通り、石棺式石室です。くり抜き式の玄門がいいですね。中にはいっても特にどうということはないのですが、

この通り奥壁が一枚岩で、そこに赤い塗料が塗ってあります。 水銀朱でしょうか?
晩田1号墳は、かの有名な妻木晩田遺跡のある晩田山の山裾にありまして、6世紀の後半の古墳です。墳丘は失われています。ここからは、須恵器片とガラス小玉が出土しています。
この1号墳のすぐ近くにあるのが晩田2号墳です。

これは墳丘が残っています。

ご覧の通り側壁が一枚岩でできており、石棺式石室です。しかし、羨道部分は失われてしまっています。

これは奥壁です。奥壁も一枚岩です。
何だか側壁全体が左に傾いていていつ壊れるかわからない雰囲気でして、中にはいるときには少し緊張しました。ここからもガラス小玉が出土しています。

実は私はこの古墳の存在を全く知りませんでした。この古墳は、上淀白鳳の丘展示館の職員のかっこいいお兄さんが教えてくれたものです。お兄さんありがとうございました。

石馬谷古墳(米子市)

2012-01-21 20:25:14 | 日記
今回も米子市淀江地域から。前々回の石人つながりで、石馬谷古墳です。
写真は前方部からの全景です。
石馬谷古墳には、昔から石馬が設置されており、「石馬大明神」なんて呼ばれていたようです。
そして、これがその・・・

石馬です。どどーん!
携帯でとったので何ともしょぼい写真です。
昨年の10月30日に米子市の主催でこのあたりの遺跡見学会があったときに撮ったものですが、その際デジカメを忘れていたのです。間抜けですね。
この石馬は石馬谷古墳の下にある天神垣神社境内の倉庫に安置されていて特別な場合以外には公開されていません。このせっかくのチャンスにデジカメを忘れるとは痛恨の極みです。

これは顔のアップ。おとなしそうな顔ですね。上の写真とも見合わせてほしいのですが、頭を少し右にかしげていて愛嬌があります。
こういうリアリティーのある表現にこだわりを感じます。

これは胴体。鞍を載せているのがわかります。

これは右側面から首を撮ったもの。くつわから手綱がのびている様子がわかります。それから、たてがみもきちんと作られています。

これは後ろからです。装飾品をつけているのがわかるでしょうか?わかりにくいですね。
前々回にも書きましたが、石馬は九州の岩戸山古墳とここでしか発見されていません。

石馬谷古墳は、6世紀中頃の前方後円墳で、全長約60メートルです。古墳時代後期の古墳みたいですから、発掘すると横穴式石室が出てくるのでしょうか?
それともこのあたりの古墳に習って石棺式石室が出てくるのでしょうか?

岩戸山古墳が磐井の墓といわれており、その磐井が528年に滅ぼされたことが真実だとすると、この石馬谷古墳はその少し後に作られたことになります。
前々回触れたように、石馬や石人が九州の技術(者)を取り入れてその地で作られたわけですから、この古墳の被葬者は九州を巡る情勢がかなり微妙な時期に九州の勢力と関係を持ったことになりますね。

まあ、ど素人の私がどんな想像を巡らせても歴史の真実には近づかないでしょうが。



上淀白鳳の丘展示館その4

2012-01-16 22:45:21 | 日記
上淀白鳳の丘展示館が長くなりました。今回で終了です。上の写真は近くの井手挟3号墳の盾持人埴輪です。
この古墳の埴輪は、非常に保存状態がよいです。展示館のお兄さんの話によると、これらの埴輪は立てられて間もない時期に墳丘の下に落とされていたそうです。このため、土中に隠れ風化が少なくてすんだそうです。
そのころの淀江地域で何があったのでしょうか?地域の戦争で負けて、墳丘を破壊されたのでしょうか?
顔に入れ墨が入っています。

しかし、これより私が気に入ったのはこれ。

どうです?この表情。困ってる人?
絶対当時その辺にいた人をモデルにして作ってますよね。
埴輪作りは当時は真剣な作業だったのでしょうが、こういうところに遊び心があるような気がしてほほえましいですね。

展示館のお兄さんのお薦めはこれ。

石棺式石室の閉塞石なんですが、どこの古墳だったか忘れてしまいました。
閉塞石にレリーフをあしらっています。大変珍しいみたいです。
てっきりこれは船を意味するのかと思って聞くと、鋸歯文の一部を拡大したものだろうとのことです。
鋸歯文には呪術的な意味があるみたいです。悪霊を寄せ付けないとか。
そういえば、上の埴輪の写真を見ると埴輪が持っている盾にも鋸歯文が描かれています。

最後にこれ。

水鳥埴輪と手前が武人埴輪の一部です。
水鳥というか、少しかえるに見えなくもないです。大変愛嬌があってよろしい。

実は、この展示館は近くにある上淀廃寺跡の遺物と復元仏像がメインの展示品なのですが、とりあえず割愛しました。これもすごいですよ!
ごらんになった方も是非一度ご訪問ください。

今回の見学は、展示館のお兄さんが本当にノリノリで教えてくれてとても楽しかったです。感謝感謝です。

上淀白鳳の丘展示館その3(石人!?)

2012-01-15 15:26:57 | 日記

どどーん‼
皆さんこれは何でしょうか?彫り込まれている何だかよくわからない灰色の石ですが、これは近くにある石馬谷古墳に石馬と共にあった石人と言われています。石人ですよ石人!そんなのが山陰にあるとは!もちろん石馬も石人も本州では唯一石馬谷古墳だけから出ているようです。(かっこいい展示館職員様談。)また、後日紹介する石馬に至っては国内でこの古墳と九州の岩戸山古墳のみで出土しているものです。
昔、岩戸山古墳には行ったことがありますが、こんな身近に石人がいようとは‼
ちなみに、これは裸の男性の下半身の一部と見られております。

この石人は、一般に展示されておらず、倉庫に保管されていると聞いていましたから、早速見せてもらえないかとお願いしたら、全く嫌がられることなくオッケーでした。

近くでまじまじと見せて頂いて写真をパチパチ…

これは至近距離からの一枚。そこで職員のお兄さんが「これは裸の男性の下半身と考えられていまして……これが◯◯◯だということです。」と不意に危険なお言葉が…。確かによく見ると股間の真ん中にその形跡らしきものが…。「◯◯◯」というのもちょっと引きましたが改めて聞くと牧歌的な響きで悪くありません。

ところで、タイトルにも「石人?」としたように直ちに石人と決定するには少し疑問点がありまして、まず、この石人は腰から上が人為的に折られていまして、その上がどうなっていたかわからないのです。反対に足先の方も残っていません。石馬の失敗作が打ち捨てられたものという説もあるみたいです。
今後、石馬谷古墳が発掘されれば墳丘の周囲から石人の一部が出てくるかもしれません。

この石人と石馬の素材はこの地域の石でして、この石人と石馬もこの土地で作られたようです。すなわち、石人石馬の技術が九州から運び込まれて来たことになります。九州との繋がりが深かったようです。

もう少し上淀白鳳の丘展示館の体験談が続きます。

上淀白鳳の丘展示館その2(絵画土器)

2012-01-14 22:45:52 | 日記


一週間ぶりの更新です。先週はとんでもなく忙しくて大変でした。まぁ、大変なのは毎週ですが…
とは言え、行ってきました上淀白鳳の丘展示館。小さい展示館で、展示物の数もそれほど多くはないのですが、いくつか目当てのものがあります。その一つが写真の絵画土器です。

この展示館は以前淀江歴史民俗資料館だったものがリニューアルしたものと聞いています。見た感じも小さいですが、新品の建物のように見えます。
中に入って見学料を支払うと、「ご案内しましょうか?」と言っていただいたので、お願いしました。実は、昨年の10月30日の米子市の遺跡巡りイベントの際にこの展示館も来ているのですが、そのときは大人数の方がいたために私の質問したいこともあまり言えなかったんですね。そこで、今日は「可能ならば」と思っていたんですが、わざわざ先方から言っていただいてラッキーでした。

早速ご案内をお願いすると、かっこいい好青年が出てこられました。私から以前イベントで来た時にいろいろ聞きたかったことを伝え、いろいろ質問させていただくことにしました。



入ってすぐのところにあるのがこの絵画土器。なんだか斜めに写っていますが、ご愛嬌。
弥生時代の祭祀用の土器で、かなり大きいですね。朱で赤く塗っていたようです。この土器のすごいところは、その頚部を一周して線刻画が彫られていることです。最初は、はじめの写真の楼観の絵ですね。次が


これは、神殿でしょうか。これが多分普通の建物ではないことは、屋根の上に斜めにいくつか突き出した千木のように見える線がたくさん入っていることでも想像がつきます。なんだか出雲大社の千木を想像しますね。その隣が、


これは少し見にくいでしょうか?これは、木に何かがぶら下がっている絵です。一番下の枝に大きなウリみたいなものが下がっています。解説によるとこれはなんだかわからないそうで(そりゃそうだ。)、銅鐸ではないかという説があるそうです。銅鐸ですか…うーん形が…
それで次が、


これは鹿だそうで、銅鐸に描かれているのをよく見ますよね。右上の方に頭から伸びている感じの線がありますね。角でしょうか?足の先がまるで鳥の足みたい。それで最後が、


どーん‼ 頭に羽飾りをつけて船に乗っている人です。すご~い‼
解説によると絵画土器の絵画には各地の絵画に共通のモチーフがあるそうで、たとえば上の鹿の絵とか、出てくる人物には頭に飾りをつけるとかです。

もーう、こんなものを間近で見せられては興奮せざるを得ません。「写真とっていいですか?」と何回も確認した後パチパチと撮りまくります。
案内のお兄さんも言われていましたが、土器の周囲を絵画が巡った形で出土する絵画土器はそれほど例がないそうで、絵画それぞれが関連性を持って描かれているように見えます。つまりストーリーです。
どんなストーリーなのかはわかりませんが、先祖の物語だったり、その土地を作った神様の物語だったのでしょうかね。

話が長くなりました。今日はこの辺で。次回も引き続き上淀白鳳の丘展示館です。次回も自分的に大々注目の遺物です。

上淀白鳳の丘展示館(米子市)

2012-01-10 00:02:31 | 日記
1月8日は、珍しくよく晴れたので最近できた上淀白鳳の丘展示館に行ってきました。冬の日本海側は雪か雨ばっかりですから、遺跡見学には向いていません。いつまでたっても終わらない仕事をとりあえず横に置いて、出かけることにしました。弁護士って土日も祝日も関係なく働いているのですよ。。。

途上、大山がクリアーに見えました。 うおおおお~っっ! きれいだ~っっ! というわけで道ばたに車を停めてとったのがこの写真。
山頂付近に少し雲がかかっているのがいかにも惜しい!
そんな感じで気持ちよく上淀白鳳の丘展示館に到着しました。

そして、この展示館では近頃にないすばらしい体験をしました。本当にいってよかった。
このお話は、次回にいたします。

大念寺古墳(出雲市)

2012-01-07 21:58:24 | 日記
またしても出雲市です。大念寺古墳です。JR出雲市駅から東に800メートル程度歩いていくと大念寺というお寺があり、その裏の墓地の中にあります。
ここも築山古墳と同様、入り口にドアが取り付けられており、地元の教育委員会に連絡しないと鍵を開けてもらえません。中をのぞくと巨大な家形石棺があり、屋根型の稜線がきれいに加工されているのを見ることができます。


以前中に入って見ましたが、石棺の身の側面が開口している横口式の石棺で、比較的楽に中にはいることができます。棺の身が一個の石を彫り込んで作ってある刳り抜き式の家形石棺です。石棺内部も外側と同様非常に精巧に加工されており、蓋の内側も同じように家の屋根の形に彫り込まれています。


その石棺がおかれている石室の手前に前室があり、そこにも石棺の床の部分が残っています。こちらは組み立て式の家形石棺だったようで床石以外のパーツは失われています。ただ、これも横口式であったようであり、床石に開口部の加工をした跡があります。