この辺りの旧町名は「東堅粕:ひがしかたかす」だったようですが、区画整理で吉塚となりました。
神社の由来書き。
子供好きの手足の神様だそうで、畜産をお興し医療や農業発展にも貢献したとか。
大昔は近くに温泉があり、東光院とも関係があったようです。
「子供たちがご神像を川に浮かべて浮き輪代わりに遊んだ」とあり、ずいぶんと身近な神様だったようですね。
お堂内部の四隅には戦後昭和期の絵馬が奉納されています。
左は戦国武将の柴田勝家。右は徳川家臣の本田平八郎。
左上は忠臣蔵の吉良邸討ち入り。右上は大正9年に奉納された大阪城陥落の図。
左下は源平合屋島の戦いの義経八艘飛び。右は川中島の合戦。
牛若丸と弁慶の京都五条大橋出会いの場面。
右上の歌を詠むと、神社が子供たちの遊び場だったことがうかがえます。
大人の周りに子供たちが集まり、武将たちの活躍を胸ときめかせながら聞いていた事でしょう。
撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 L IS
神社の由来書き。
子供好きの手足の神様だそうで、畜産をお興し医療や農業発展にも貢献したとか。
大昔は近くに温泉があり、東光院とも関係があったようです。
「子供たちがご神像を川に浮かべて浮き輪代わりに遊んだ」とあり、ずいぶんと身近な神様だったようですね。
お堂内部の四隅には戦後昭和期の絵馬が奉納されています。
左は戦国武将の柴田勝家。右は徳川家臣の本田平八郎。
左上は忠臣蔵の吉良邸討ち入り。右上は大正9年に奉納された大阪城陥落の図。
左下は源平合屋島の戦いの義経八艘飛び。右は川中島の合戦。
牛若丸と弁慶の京都五条大橋出会いの場面。
右上の歌を詠むと、神社が子供たちの遊び場だったことがうかがえます。
大人の周りに子供たちが集まり、武将たちの活躍を胸ときめかせながら聞いていた事でしょう。
撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 L IS
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