日々の寝言~Daily Nonsense~

日々の出来事への感想、雑感、思いつき、ぶつぶつ・・・

飛 浩隆 「ラギット・ガール」

2018-12-15 22:09:20 | 
「グラン・ヴァカンス」について、

「これが現実世界と絡みだすと、
 さらに面白いことになりそうだが・・・」

と書いたのだが、既にそうなっていたのだ。

「グラン・ヴァカンス」に登場する AI と、
それらを創り出した現実世界の人々のお話。

前作のあまりにも苛烈な滅びの種、理由は、
最初からその世界に埋め込まれていた、
というお話。

そしてまた最後に、そのすべてが
ひっくり返される。

これは素敵だ・・・

全体は人間の心の奥深さ
(あぁ、何とつまらない言葉)を伺わせる。

前作の「残虐さ」もまた、
その深みの故なのだろう。

「情報的似姿」という概念も印象深い。

僕らは、頭の中で、自由に、いろいろな人や物の
イメージを動かして、対話させたりできる。

たとえば、AさんとBさんが話したら、
こういうふうになるんだろうなぁ、
というのを思い描ける。

まさに、「情報的似姿」を脳内に作っている。

人の脳は、いったいどうして
そんなことができるのだろう?

結局いつも、この問いに行くのだ。

こちらの作品の前書きが面白かった。
作品も読んでみたい。




コメント

飛 浩隆「グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉」

2018-11-24 01:12:15 | 
amazon のお薦めにあったので
衝動買いして一気に読んだ。

残虐なテイストは好きではなく、
かなり飛ばし読みしたが、
なんというか、不思議な感触の透明な文章は
ちょっと癖になる感じがある。

超リアルな仮想ヴァカンス空間で
AI どうしが戦うという設定は
なかなかおもしろい。

これなら、どんなステレオタイプな風景も、
どんな荒唐無稽なことも
原理的に起こり得るのだから、
魔法使いの戦いを現実のものとして
描くことができる。

これが現実世界と絡みだすと、
さらに面白いことになりそうだが・・・

それにしても、こういう物語というか、
文章が生成できる人間の脳というのは、
なんと不思議なものだろう・・・


コメント

カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」の二つの物語

2018-10-07 10:55:06 | 
夜中に目が覚めてしまったので、
ちょっと思い立って、以前に読んだ、
一橋大学リポジトリにある
安藤和弘さんという方の
「『わたしを離さないで』における語りの技法」
という小論を読み返した。


<<以下、激しくネタばれあり>>


キャシーの、ヘールシャムとその後の友情や恋愛についての語り
の裏に隠れている、ルースとトミーへの憎悪、さらには、
この世界全体への憎悪の物語とその語り口を読み解いている。

「遠い山なみの光」の語りの技法を知った後では、
そういう読みには妥当性があると思うし、
かつ、クローンとして生まれた人間が、
この世界に憎悪や虚無を感じていないはずはない、とも思う。

キャシーの語りの穏やかさは、
とても不自然なものだ。

子供にとっては育った世界は絶対であり、
大人が介入しない限り、生まれ育った世界を「不条理」と感じて、
そこにプロテストするということは無いのかもしれないが、
それでも、「虚無」や「憎悪」というものはあるだろう。
それがいわゆる実存としての生なのだし。

というわけで、キャシーは、
一方で、自分たちが育ったヘールシャムを美化し、
その後も含めた、ルース、トミーとの関係を美化したい。

自分の過去を美化したい、
つじつまを合わせたいというのは
誰しもそうだろう。

その裏では、しかし、そうではなかった現実、
あるいは、現実の中でのヘールシャムの在りよう
が常にうごめいていて、隙を見ては飛び出してくる。

実際には、ルースとトミーのせいで、
あるいはクローン人間として生まれたことで、
キャシーはとてもつらい思いをしたのであり、
しかし、だからこそ、それをなんとか
美しい物語=希望、夢に回収したいのだ。

その裂け目が決定的になるのが、
マダムとエミリ先生との面会の場面であり、
そこでキャシー(とトミー)の物語は壊れる。

面会の帰り道のトミーの激しい叫びは、
猶予が認められなかったことではなく、
自分たちの物語が壊れたということに
呼応しているだろう。

だから、その後、トミーはキャシーから離れてゆき、
キャシーもまた、トミーの思い出
(トミーとルースとの思い出、ではなく)を封印して、
絶望的な虚無の中、キャシーが未来へと進もう、
と語るところで物語全体が終わる。

 * * *

この小説全体の最大の謎は、
キャシー・H とは何者なのか?
ということだ。

ヘールシャムという特別な場所で
過ごしただけでなく、異例とも言える期間、
介護人として提供を免れているのは
明らかに普通とは言い難い。

しかし、特に強い意志や夢が
自分自身にあるわけではなく、
他者の夢や希望に付き合う、
良い言い方をすれば、そこに献身する、
悪く言えば雷同するタイプ。

常に空気を読んで行動し、
自分を表には出さない。

ある種の普通の人間の
ペルソナではある。

そんなキャシーが、介護人生活が
終わりに近づいたときに手記を書く。

その中で、キャシーは、
友情と恋愛について語り、
自らの夢と希望、絶望と虚無、
高慢と偏見、嘘、について語り、
そしてまた、クローン人間と
普通の人間の間の大きなギャップ
についても語る。

この手記こそ、彼女が人間であることを示す、
彼女なりの最大限の反抗、抗議の形、
とも言えるのかもしれない。

そういうふうに考えるたときに連想されたのは、
森鴎外の「最後の一句」のラスト、
「お上の言うことにまちがいはございますまいから」だ。

「わたしを離さないで」のラストは、

「空想はそれ以上進みませんでした。
 わたしが進むことを禁じました。
 顔には涙が流れていましたが、
 わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。
 しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、
 行くべきところへ向かって出発しました。」

私たちもまた、夢を持ち(持たされ)、夢破れて、
「行くべきところへ向かって」行く他は無いのだ。

いやはや・・・

「わたしを離さないで」は映画のイメージが強かったので、
小説をもう一度丁寧に読み直してみたいのだが、
なかなか時間が無いなぁ・・・
コメント

コンヴィクト・コンディショニング

2018-09-29 18:14:51 | 
アメリカの監獄で伝承された、
道具なしに体を鍛えるための
メソッドが書かれている。

日本語版のタイトルは
プリズナー・トレーニング

前半は、いかに器具を使わない
トレーニング法=キャリステニクスが
素晴らしく、器具を使う現代の
トレーニングが良くないか、という
宣伝になっていて、ちょっと辟易。

それでも、

・プッシュアップ(腕立て伏せ)
・スクワット
・プルアップ(懸垂)
・レッグレイズ
・ブリッジ
・ハンドスタンド・プッシュアップ(逆立ち腕立て)

の6種類について、ステップを踏んで行く
トレーニング法自体は悪くなさそうなので、
試してみたい。

逆立ちは無理そうだが・・・

コメント

ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウスーテクノロジーとサピエンスの未来」

2018-09-22 19:08:41 | 
「サピエンス全史」で一躍世界に名を馳せた、
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの
新刊「ホモ・デウス」の翻訳が出ていたので読んでみた。

実は、原書も Kindle で買ってあったのだが、
結局、読む前に翻訳が出てしまった・・・

「サピエンス全史」が、
ホモ・サピエンスの来し方を俯瞰したのに対して、
この本は、これからの部分に重点を置いていて、
続編にあたる。

ただし、三部構成の第二部までは、
結局、ホモ・サピエンスのこれまでの話であり、
「サピエンス全史」の復習という感じなので、
こちらだけで読むこともできる。

目次は以下のようになっている。

第1章(序章) 人間が新たに取り組むべきこと
        The New Human Agenda
第1部 ホモ・サピエンスが世界を征服する
    Homo Sapiens Conqures the World
 第2章 人新世
     The Anthropocene
 第3章 人間の輝き
     The Human Spark
第2部 ホモ・サピエンスが世界に意味を与える
    Homo Sapiens Gives Meaning to the World
 第4章 物語の語り手
     The Storytellers
 第5章 科学と宗教というおかしな夫婦
     The Odd Couple
 第6章 現代の契約
     The Modern Covenant
 第7章 人間至上主義革命
     The Humanist Revolution
第3部 ホモ・サピエンスによる制御が不能になる
    Homo Sapiens Loses Control
 第8章 研究室の時限爆弾
     The time Bomb in the Laboratory
 第9章 知能と意識の大いなる分離
     The Great Decoupling
 第10章 意識の大海
      The Ocean of Consciousness
 第11章 データ教
      The Data Religion

前巻同様に、とても面白く読んだ。

特に、前と被っている第二部までが面白い。
「人間至上主義」のような明快な概念化と、
数字を含む具体的なエピソードを交えた
ユーモアのある語り口は、やや冗長ではあるものの、
とても読ませる。

前巻の重点が、ホモ・サピエンスをそれたらしめた
「認知革命」だったのに対して、
今作の重点は近代の「人間至上主義」にあり、
自分が生きてきた時代でもある、
近代の神無き世界において、
価値は人間の内面、自己という幻想に由来する
という整理が徹底的に敷衍されているところは、
読みながら何度もうなずかされた。

言われてみれば、ではあるのだが、
個人主義も、自由民主主義も、
市場経済も、ロマン派芸術も、戦争映画も、
抽象絵画も、マーケティングも、みんなそこに位置づけられて
整理できてしまうのだ。

そういえば先日視た、NHK のプロフェッショナル-仕事の流儀
でも、ヒットメーカーという人が、小学生を相手に
「自分に嘘をつかない」「自分の心が感じたことを大切に」
と布教していた。

(でも今なら「データは嘘をつかない」
と教えるほうが良いのではないだろうか?)

 * * *

それに対して、未来を描く第三部は、
バイオテクノロジーや情報技術対する洞察が
やや危なっかしいところもあって、
さすがに切れ味は少し劣る。

未来について語るのは
歴史ではないからなぁ・・・

たとえば、「データ至上主義」にしても、
データフローを最大化するということが
システムの価値の源泉になるのだろうか?

情報システムに組み込まれる目的が、人間の欲望充足の
全体最適化だとすれば、結局、価値は、依然として、
個人の欲望から生まれているのではないのだろうか?

というような疑問が湧いてくる。

それでも、その裁定をするのが
人間ではなく、情報処理システムになるというのは
そのとおりだろう。

今の「貨幣」という粗い情報に基づく市場ではなく、
データに基づく、より緻密なマッチングが
ものごとの価値を決める。

結果として、人類は巨大なデータ処理システムに埋没し、
その中で不自由なく、無用の存在として生きる。

これは、マトリックスの世界だが、
でもまぁそこそこ楽しいのではないだろうか?

本書でも引用されているカーネマンたちも
自分たちの本で言っているように、
専門家の未来予測はほとんどはずれる、のだし、
著者自身も、この本は予言ではなく、
可能性を示すことで考えてもらうことが目的と書いているので、
あれこれと考えさせられれば、読んだ意味はあったということだ。

 * * *

この本を読んで、みんながどうして
Facebook や Instagram のようなサービスに
惹きつけられるのかが
少し腑に落ちた気がした。

SNS は全く利用していないのだが、そうした傾向の増加は、
「人間の内面や欲望こそが価値や意味の源泉である」
という虚構に基づく人間至上主義から、データ至上主義、
つまり「データは共有することに意味がある」という
新しい虚構への転換の一面として捉えられるのだという。

そこには、「データフローと切り離されたら
人生の意味そのものを失う」ような感覚があるという。

自分の中に価値を見出すという虚構を信じることはできず、
情報処理システムの大量のデータフローとそこでの「いいね」
が意味を与えてくれる、という新しい物語を信じているということ。

本当かどうかはよくわらないが、
なるほど、という気にはなる。

逆に言えば、あいかわらず
根っからの「人間至上主義」の自分はもう
時代遅れの人間ということか・・・

 * * *

もう一つ、長年の疑問だった
「なぜ経済成長しなければいけないのか?」
「なぜどの国の政府も、経済政策、経済の成長を
 これほどまでに重視するのか?」
に対する説明も詳しく書かれている。

近代科学革命によって未来の不確実性が減少し、
未来の信用に基づく経済が発展する(資本と利子の発生)
ことで、経済が大幅に拡大した。

未来の信用に基づく経済では、
「成長」こそが是であり、
「成長」がすべての問題を解決する
という信念が共有されている。

それはゲームのルールに組み込まれていて、
神が価値を与える静的な社会から、
際限のない人間の欲望が価値の源泉である社会への変換、
ということともリンクしている。

「成長」は近代科学の「約束」であり、
人は「神に由来する意味」と引き換えにそれを得た。
そこでは、停滞することは敗北であり、死なのだ。

> 人間至上主義の人生における最高の目的は、
> 多種多様な知的経験や情動的経験や身体的経験を通じて
> 知識をめいっぱい深めることだ

この近代的人間の原理に導かれて、
これまでにいかにいろいろな場所を訪問し、
無駄な?情報や知識を貯め込んできたことか・・・

 * * *

大量の文献の読み解きや、
芸術資料などの鑑賞に支えられた、
「本の本」とも言える作品で、
様々な情報が全体の枠組みに位置づけられて行く様は
ある種の快感をすら感じるもので、
一読の価値は十分にあると思う。

それにしても、これだけのエピソードの束を
物語にまとめ上げるというのは、
本当に頭の良い人なのだろうと思う。
いったい IQ はいくつなのだろうか?

昔々、あらゆるものが切り売りされて
マーケットに載せられて行く中で、
いったいこれによって僕たちは何を喪うのだろう?
などと思っていたことを懐かしく思い出しながら、
「こういう本が書きたかったなぁ」と思った。


コメント

カズオ・イシグロ「遠い山なみの光」:日常の中の深淵

2018-07-28 19:21:03 | 
カズオ・イシグロさんの
「遠い山なみの光」を読み直して、

作品のラスト付近で、景子と万里子が
入れ替わっているということに気づいた、
ということを少し前に書いた。

その後も気になって、
ときどき検索していたら、
amazon のレビューに
驚愕の記述が・・・


<以下、ネタバレ>


原作(英語)で読むと、
他にも、
佐知子-悦子
万里子-景子
が混乱しているところが
あるらしい。

というわけで、早速、Kindle で
原作を買って確認してみた。

顕著なのは、
これもまた作品のラスト付近、
10章の終わり近くで、
悦子が、アメリカには行きたくない、
と言う万里子に語りかけているところ。

原文では、

"if you don't like it
over there, we can always
come back."

翻訳では、

「行ってみて嫌だったら、
帰ってくればいいでしょ」

となっている。

原文だと、"we" は明らかに、
悦子と万里子を指していて、
これは、悦子が万里子ではなく、
自分の娘である景子に対して過去に言った言葉
だと読める。

でも、翻訳だと、そういうふうに
読むことは難しい。

このすぐ後にも、念押しのような悦子の言葉があり、
このあたりで、作者には、
佐知子-悦子
万里子-景子
の二重写し、つまり、
悦子のそれまでの語りの中の
無意識の混乱を一気に明らかにする意図が
あったようだ。

インタビューの中でイシグロさんが答えているように、
佐知子や万里子が実在したのかどうか
(たぶん実在はしたのだろうと思うが)は、
どちらでも良いが、いずれにしても、悦子は、
そうした物語を自らの内に創り出すことによって、
自らのバランスを際どく保っている、
ということ、そして、それは、誰しもが普通にやっていることだ、

ということが、この小説の(そして、イシグロさんの
多くの作品の)大きな主題になっている。

 * * *

この作品のこうした側面について詳しく述べた文献として、
山口大学の池園 宏さんが 2016年に書かれた
「喪失の諸変奏-A Pale View of Hills-」が見つかった。

ちなみに、この中で出てくる「インタビュー」というのは、
Gregory Mason という人の 1986年のインタビューで、
"Conversations with Kazuo Ishiguro" という
2008年のインタビュー集に収められている。

残念ながら、電子書籍版は無いようだが、
Google Book でほとんど読めるようだ。

また、JSTOR というサイトに登録すれば、
こちらから、オンラインで読むことができる。

池園さんの批評の最後は、
「イシグロは、そうした人間が陥りがちな人生の過ちを
丹念に描き出し、人間存在の在り方について真摯に問い続ける
作家なのである。」と結ばれている。

でも、それは「人生の過ち」なのだろうか?

イシグロさんの作品には、とりわけ優れた人も、駄目な人も、
殺人鬼も、正義の味方も、天使のような人間も、出てこない。

ごくごく普通の人間が、自分について語るものが多い。

そして、そうした、ごく普通の人のごく普通の人生の中にも、
たくさんの過ちがあり、成功があり、嘘があり、真実があり、
イシグロさんは、そうした山や谷を使いつつ、
私たち人間の意識、記憶、さらには私たちの世界の不思議さ、
怪しさ、そこに潜む闇の深さ、を描き出す。

それはもう、「怪談」の域にも
達しているようだ。

どなたかのレビューにも、
「純文学と思って読んだら、ホラーだった」
と書かれていたが、まさにそんな感じ。

「遠い山なみの光」にしても、
悦子は狂っている、と言えなくもない。

この小説を読んだ後に感じる、
何とも言えない、吐き気を催すような余韻。

今見ているこの世界が、
すべて崩れてゆくような感覚。

ノーベル賞の受賞理由となった

「大きな感情の力をもつ作品において、
 我々の世界とつながっているという幻想の下にある
 深淵を明らかにした」

も、こういうことを指しているのではないか、と思う。

 * * *

ところで、インタビューをした Gregory Mason
という人は、どんな人なのだろう?

と思って検索したら、
こんなサイトが見つかった。

英国の画家なので、インタビューした人とは違うと思うが、
作品の感じはとても良い。

一枚欲しいなぁ・・・

さらに検索すると、インタビュアーは、
どうやら、この人のような感じだ。



コメント

神谷美恵子「生きがいについて」

2018-06-24 20:12:43 | 
100分で名著「生きがいについて」を
録画で視ている。

人間から生きがいを奪うほど
残酷なことはなく、
人間に生きがいを与えるほど
大きな愛はない。

そのとおりだと思う。

人は生きがいが無くても
生きてゆくことはできる。

でも、自分固有の生きがいを
持って生きている人は幸せだ。

生きがいを感じられるように、
それを、地位や経済的な豊かさ、
あるいは貧しさで覆い隠してしまわないように、
いつでも気をつけていないといけない。

どうすればよいのか?

神谷美恵子が愛生園で出会った
詩人、志樹逸馬の詩の中の言葉

すべての母体である この土壌に
ただ 耳をかたむける

結局のところ言葉にしようとすれば、
「いま、ここ」を深く感じること、
ということになるのだろう。

どこでも一寸切れば
私の生血がほとばしるような文字
そんな文字で書きたい
私の本は

そんなことはとてもとてもできないが、
一つの理想としては心にとどめておきたい。
コメント

カミュ 「ペスト」

2018-04-07 09:57:57 | 
「実存」つながりで、久しぶりに、
カミュの小説が読みたくなって、
Kindle で探したら「ペスト」があったので読んだ。

神は既に無く、悲惨な大戦争を経て、
人間の生の不条理性に直面した時代に、
「人はなぜ、なんのために生きるのか?」を、
ペストに見舞われて閉ざされた町という極限的な舞台設定の中、
「治療し記録する者」である医師リウーを中心として、
タルー、グラン、ランベール、コタール、パルヌー
といった立場や思想信条の異なる多様な人々を登場させて、
緻密に描き切る超力作。

いつものように筋を追うことに忙しくて、
ディテールが読めていないのだが、
印象に残ったフレーズはいろいろあった。

リウーとランベールの対話
「幸福のほうを択ぶのになにも恥じるところはない」
「しかし、自分一人が幸福になるということは、
恥ずべきことかもしれないんです」

タルーの
「人は神によらずして聖者になりうるか?」

タルーがほとんど神の視点に立ち
「それでいいのだ」と死んでゆくのに対して
医師リウーは、あくまでも、
人、実務家の立場で、自分のできることを、
自分たちの力の及ぶことだけを尽くして
あがき続ける。

黒澤明さんの「生きる」や、
宮崎駿さんの「生きろ!」も連想されるが、
全てを統べる絶対神を持たない日本人とは
問題のシリアスさというか肌触りがかなり違う。

日本人にとっては「天皇」
はそれだったのかもしれないが、
それを喪失した後に、
思想家たちはどうしたのだろう?

震災を経てなお、例えば「シン・ゴジラ」という
パロディー作品を生み出す(それしか生み出せない?)、
というのが日本、ということなのだろうか・・・

などなど、すごく久しぶりに
「実存」とか「近代的自我」
について考えていた頃を思い出した。

しかし、「ペスト」しか Kindle 化
されていないというのはちょっと衝撃的で、
他の作品も是非 Kindle で読めるように
なって欲しい。


コメント

実存と構造と人工知能

2018-03-24 09:49:23 | 
三田誠広さんの「実存と構造」
橋爪大三郎さんの「はじめての構造主義」
を読んだ。

三田さんは、実存と構造は
コインの裏表で、
実存の孤独が、
隠された普遍的パターン=構造の中に
回収することで癒される、と言う。

ふーん、という感じ。

橋爪さんの構造主義入門は、
レヴィ・ストロースを中心に、
数学との関係も含めて
わかりやすく説明している。

今の人工知能を支えている機械学習は、
たくさんの事例から学習するらしいが、
個々の事例は実存で、
そこから抽出される潜在的なパターンが構造、
ということであれば、機械学習というのは、
構造主義的な営み、ということに
なるのだろうか?

そういえば、昔々に、
群不変性に基づく特徴抽出の理論
というのも聞いたことがあったような。

そうしたパターンは、言語化されずに、
ある種の神託やタブーとして社会システムに
組み込まれていたわけだが、
人工知能が普及すると、だんだん
そういうふうに回帰してゆくのかもしれない。

なんだかわからないが、
人工知能の言うとおりにすると
うまくゆくのだから、
そうしておこう、みたいな・・・

もちろん、自動運転の事故のように、
人工知能でも避けられない事故や厄災は起こる。
今の金融市場のように、ゆらぎが増幅されて、
良くないことが起こることもあるだろう。
自律兵器への利用ももちろん心配だ。

ブラックボックスではない、説明できる人工知能
というのは、レヴィ・ストロースの神話学のように、
その構造を明示化、言語化しようとするもので、
やはり西欧的理性という感じがする。

「神」が使えない近代に、
神託的なものとどう折り合うのか?

というのは「人工知能が人間を超えるか」、
とか、「人工知能が仕事を奪うのか」、
ということとは別に、むしろそれらよりも、
今考える必要がある問題で、
案外と答えが難しい問題なのかもしれない。

などということをぐだぐだと考えるのは
愉しいのだが、でも、堂々巡りから抜けられない
のは悲しい。


コメント

カズオ・イシグロ「遠い山なみの光」

2018-03-21 21:19:36 | 
Kindle で読む本を探していたら、
「ユリイカ」がカズオ・イシグロ特集を
出しているのを見つけた。

その中に「遠い山なみの光」についての
評論もあり、それが、自分の記憶と
かなり違っていたので、改めて読み直した。

そもそも、昔、文庫本で読んだときには、
ほとんど無い筋を追っただけで、
なんだかよくわからない世界でのとても暗い話だ、
という印象くらいしか残っていなかったのだ・・・

読み直してみても、とても暗い話だ。

「ユリイカ」では、
中井亜佐子さんという方が、
女性=抑圧されたものの語り、
という観点から、この作品を
「わたしを離さないで」と対比させていて、
なるほど、と思ったが、
しかし、もっともっと暗い、
というか怖い。

これは怪談だ。

万里子さんはずっと不気味だし、
子猫を殺す佐知子も怖いし、
何より、いい人に描かれている悦子さんが怖い。

いかにも日本的?な、感情の屈折した会話と、
日本のような日本でないような
冥界的な不思議な世界も怖い。

5歳で日本を出てしまったのだから、
これは小津さんの映画などから
形づくられたものなのだろうか?

佐知子さんと万里子さんの物語が、
悦子さんと景子さんの物語と同型で、
どちらも、外国人と結婚して(しようとして)
娘を犠牲にしてしまう。

佐知子さんと万里子さんの物語は、
自らの苦悩を相対化するために、
悦子さんが勝手にねつ造したのでは?
とも思える。

実際、作品のラスト近く、
長崎で稲佐山に出かけたことが
振り返られるのだが、そこには

「あの時は景子も幸せだったのよ。
みんなでケーブルカーに乗ったの」
という悦子さんの言葉がある。

しかし、物語の半ばにある
稲佐山へのお出かけのエピソードでは、
そのとき景子さんはまだ
悦子さんのお腹の中にいた
ことになっている。

これは作者のミスなのか、それとも、
人の記憶のいい加減さ(不誠実な語り手)
を示すためのものなのか、
それとも・・・

 * * *

「実存主義」という言葉は遠い昔に廃れているが、
別に「実存」がこの世界から無くなったわけではない。

というか、実存=近代的自我、があまりにも
あたりまえのものになったので、
言葉としては廃れただけだ。

カズオ・イシグロも当然ながら、
「実存」をめぐる物語を、
丹念に作り上げる「実存主義的」作家だ。

イシグロさんの功績の一つは、
「実存」の内実が
「記憶」に懸かっている、
ということに新しいやり方でライトを当てて
いることにあるのかもしれない。

カズオ・イシグロは、
その「記憶」が、実にいい加減で、
不誠実なものだ、ということを通して、
「実存」の脆さ、哀しさ、卑怯さ、闇の深さ、
そして、逞しさ、を暗示する。

読者は、そこに示されるものと、
自分の中にあるものとの共鳴を感じる。

なんだか、カミュの作品でも
読み返してみたくなったなぁ・・・
コメント

残酷な奇跡の時代

2018-01-21 11:44:26 | 
NHKの100分で名著で、レムの「ソラリス」
をやっていたので、録画して楽しく視た。

レムは学生時代によく読んだ作家の一つで、
「ソラリス」以外も読んだし、
タルコフスキーの映画も、ソダーバーグの映画も
(こちらはほとんど印象に残っていないが)見ている。

今回、番組の中で、
タルコフスキーの映画のシーンが
挿入されていて、とても懐かしかった。
思ったよりかなり画質が良かったので、
DVD か Blue-Ray を買ってみようかなぁ。

それはともかく、旧訳がロシア語からの翻訳で、
検閲などを考慮して削除されたり修正されている
ところがあるというのは今回改めて気づかされたので、
今回の解説者の沼野さんがポーランド語から
翻訳したものも買って読んだ。

途中、旧訳では省略されている、
海の詳細な描写がレムの想像力のすごさを
よく示している(でもちょっと退屈で大分飛ばした・・・)

で、書きたいことは、やはりラストについてだ。
沼野さんも番組で紹介していたが、
原作のラストとタルコフスキーの映画のラストは
かなり違っている。

ラストでは、ハリー(もどき)との邂逅と別れを経て、
ソラリスにも上陸してみた後のケルヴィンの心境が
吐露されている。

海との出会いの中で、何かを理解できる、とか、
コミュニケートできる、とか、愛せる、といったことは、
すべて幻のようなもので、実のところ、すべては
不完全な神の戯れの中でただうつろってゆくだけ、という
諸行無常的な境地に立たされたケルヴィンだが、
小説のラストには、それでも「残酷な奇跡の時代はまだ続いている」
ことを固く信じている、と書かれている。
科学者としての信念を貫く、という感じだろうか?

一方、タルコフスキーの映画の有名なラストシーンは、
ケルヴィンが故郷の家に戻り、そこで父親と抱き合う。
しかし、そこからカメラが引いてゆき、実はそれは海の中の
島の上でのことだ、という映像で終わる。

番組の中で、沼野さんは、その違いについて、
レムは、絶望を持ちつつも希望することを宣言している
のに対して、タルコフスキーはノスタルジアの中に
回帰させてしまった、と言われていた。

レムのこともよくご存じの方なので、
これはきっと合っているのだろうが、
タルコフスキーファンでもある私としては、
ちょっと納得できないところもある。

タルコフスキーは、もちろん「ノスタルジア」の人で、
1+1=1の人ではあるが、
そこにすべてを回帰させてしまう人ではない。
それはあくまでも実現しない理想である、
ということは意識しているだろう。

にもかかわらず、
ノスタルジーを志向せざるを得ない
どうしてもそこに憧れてしまう
そういう人間の姿を描いている。

だから、タルコフスキー自体も
映画でそれを描かざるをえないわけだ。

そういうふうに思うと、ソラリスのラストは、
我々の世界もまた、ソラリスの海のような
ものの中にあるのかもしれない、
ということを示唆しているとも言える。

そこで父と抱き合い、一体化しようとする人間は、
感動的であると同時に、残酷で戯画的だ。

 * * *

それにしても「残酷な奇跡の時代」というのは
何を意味しているのだろう?

ハリーとの再度の邂逅と別れ=残酷な奇跡?
人間が宇宙に出て、未知の知性と遭遇する神なき科学の時代?
それをもたらす人間と言う存在の時代?
両方をかけているのかもしれないが・・・

ちなみに、旧訳を見たら、
「驚くべき奇跡の時代」と訳されていて、
これだと、やはり科学の時代という意味のような。

追記:
検索していたら、
こちらのブログ
が見つかって、なんと、勅使河原三郎さんが演出をしたオペラ、
というのがあるらしい。確かに気になる・・・

というわけでさらに検索したら
藤倉さんという方が作曲したらしい。
紹介記事があった。
YouTube でも少しだけ視られるようだ。








コメント

カズオ・イシグロさんのノーベル賞受賞記念講演

2017-12-16 08:42:29 | 
完全に遅れてしまったが、
カズオ・イシグロさんのノーベル文学賞の授賞式が
12月7日(日本時間の8日?)にあった(はず)

ニュースなどもほとんど見られなかったのだが、
受賞記念講演(Nobel Lecture)の全文が
いくつかの新聞に掲載されていた。

イシグロさんらしい、控え目で、でも
分断を避けるために、広い視野をもって,
多様性を許容しなくてはいけない、
という主張のこもった内容だったようだ。

ノーベル財団のページにも掲載されている。

末尾の、イシグロさん自身が "Nobel Appeal" と呼んだ部分を引用する:

> It's hard to put the whole world to rights,
> but let us at least think about how we can prepare
> our own small corner of it, this corner of 'literature',
> where we read, write, publish, recommend, denounce
> and give awards to books.

> If we are to play an important role in this uncertain future,
> if we are to get the best from the 16 writers of today and tomorrow,
> I believe we must become more diverse.

原文の英語の他、スゥエーデン語、フランス語、ドイツ語、スペイン語に
に翻訳されているのだが、残念ながら日本語は無い。

日本語訳は、たとえば毎日新聞に掲載されている

コメント

桜井章一「努力しない生き方」

2017-12-02 23:51:57 | 
このところ、麻雀で有名な桜井章一さんの本を
Kindle で読んでいる。

そのうちの一冊、「努力しない生き方」

ちょっと、今の世の中の価値観に対する
逆張りが過ぎる感じもあるが、
過剰な人為を排して自然を尊ぶ
という方向性には、親近感が感じられるて、
うなづきながら読んでいる。

もっとも、私の場合は、
頭で考えているだけで、
著者のような生き方は
全くできていないのだが・・・

忘れている大切なことを
思い出させてくれる、と言う意味では
たまに読みたい本だ。

そういえば、卓球の平野早矢香さんの
師匠?でもあるのだ。

雀鬼会の HP には、
ブログが掲載されていて、
見ていたら、平野さんが
を出していることを知った。

Kindle にして欲しい!
コメント

カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」

2017-10-29 14:44:19 | 
だいぶ以前に読んだのだが、
ほとんど憶えていない(上海の話だよね、くらいしか・・・)
ので、Kindle で再読した。

前半はかなりゆっくりと、下敷きとなる話が進むので、
なかなか入ってゆきにくい感じがあったが、
主人公が日中戦争中の上海に入ってからは、
一気に展開が激しくなり、
巻を措く能わず、という感じになった。

両親が幽閉されていたという家を求めて
上海の戦地を彷徨うところは、次作の
「充たされざるもの」も連想させるような
不条理劇の展開。

世界は決して子供時代のように美しくはない、
ということは「わたしを離さないで」
につながっている。

ラストは定石的とはいえ、
美しくてとても哀しい。

なぜかわからないのだが、
福永武彦さんの「風のかたみ」
のラストを思い出した。

長い長い音楽を聴いたときのような読後感。

どうして、こういうお話が書けるのだろう?

コメント

カズオ・イシグロ「日の名残り」(小説)

2017-10-08 16:56:43 | 
映画を見るのに並行して、
小説のほうも読み返している。

「日の名残り」と、その前作である
「浮世の画家(An Artist of the Floating World)」
とは関係が深いと言われている。

「浮世の画家」は日本が舞台、
「日の名残り」はイギリスが舞台だが、
どちらも、もっとも粗く言えば、
戦争を経た大きな価値観の変動の中での
人間の在り方を描いていると言えるだろう。

太陽が沈んだ後の夕暮れ、たそがれどき。
価値観が混迷し、アイデンティティが崩れる時間。

「誰そ彼(たそかれ)と われをな問ひそ
九月(ながつき)の 露に濡れつつ君待つ我そ」

それはまた、日常の規則・規範や
制約から解き放たれるつかの間の自由でもあり、
明日への再生のための時間でもあるだろう
(再生、といっても、希望に満ちたものではなく、
ある種の諦めに満ちたものだが)。

この題名は、元々は、フロイトの精神分析の用語で、
一日の名残りとして、それを補完するもの、
自我に抑制された無意識の現れとして視る夢、
という意味もあるらしい。

以前にも書いているが、
広くは、ヨーロッパ、あるいは、
大英帝国貴族階級の精神とそれを象徴する
ダーリントン卿の人生や、ダーリントンハウスの日の名残り(西洋の没落?)、
スティーブンス、そしてミス・ケントンの人生の日の名残りと再生。
そして、美しいイギリスの夕暮れの風景、
が重畳的に響きあっている。

しっかりとしたテーマが背景にあり、
緻密な舞台設定と構成があり、
そして、文章、語りが、切なく、美しくて、怪しい。

3拍子揃った素敵な作品、マスターピースだ。

小説に限らないが、こういう作品を
作りたいものだ、と何度読んでも思うのだなぁ。

コメント