日々の寝言~Daily Nonsense~

日々の出来事への感想、雑感、思いつき、ぶつぶつ・・・

世界の終りに(1)

2012-01-08 12:25:19 | 小説のようなもの
その古い小さな美術館は、町の旧市街の中央に建っていた。
四角い、ボックス型の、ちょっと大きめの普通の家のような建物。
美術館の裏手には大きな池があり、たくさんの水鳥が静かに遊んでいる。
白い鳥、灰色の鳥、そして黒い鳥。黒い鳥の嘴は黄色で、縁だけが赤い。

美術館はその池にはみ出すように建てられていて、
そちらから見ると、池の中に建っているように見える。
建物の壁に太陽の光があたり、池の水面がきらきらと輝く。
その姿は、周囲から切り離されて、
孤高を保つ貴婦人のようにも見えた。

池のほとりをゆっくりと回って、建物の側面にある入口に向かう。
溝の壁は古い石垣になっていて、石の隙間からは小さな緑の草が生えている。
澄んだ水の中には長い水草が生えて、
ゆっくりとした水の流れにゆっくりとそよいでいて、
その草が僕にオフィーリアの絵、あるいは、タルコフスキーの映画「ソラリス」の
あの有名な冒頭のシークエンスを思い出させる。

* * *

入口の木の大きな扉をゆっくりと開けて薄暗い廊下に入ると、
ひんやりとした室内の冷たい空気が鼻から胸の中に入ってくる。
ガラスの向こうのチケットブースで番をする老婦人からチケットを買い、
僕たちは手をつないで広い階段をゆっくりと登ってゆく。
古い、美しい木の手すりのついた階段。
微かに床のオイルの香りがする。

建物の二階と三階の部屋が展示室になっている。
順路は無視して、まっすぐに三階へ上る。
手をつないだままゆっくりと部屋に入ると、
その絵が目の前にあった。

青いターバンを頭に巻いた少女の絵。

絵の前に二人だけで立つ。他には誰もいない。
彼女の小さな手が僕の手をぎゅっと握り締める。

憂いに満ちた大きな黒い瞳は
何を見ているのだろうか?
彼女を見ている誰か?それとも、彼女の未来?
耳には不釣合いな白い大きな真珠の耳飾りが鈍く輝いている。

「ラピスラズリの青」

彼女がつぶやきながら、
胸にかけている青い石をそっと握る。
僕たちはその場にじっと立ったまま、
いつまでもその絵を眺めている。

やがて部屋全体が、ゆっくりと
夢の中のように霞みはじめる。
それでも、僕たちは、時が止まったかのように、
いつまでもいつまでもその絵を眺めている。

彼女が突然僕を抱きしめて小さな声で言う。

「ありがとう。つれてきてくれて、ありがとう。」

二人は抱き合って、キスをする。長い長いキス。
やがて彼女の唇が溶けてゆき、僕の唇とひとつになる。

少女の瞳だけが、じっと二人を見ている。
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はじめに(2)

2007-04-18 19:21:05 | 小説のようなもの
ぼくがすべてを「理解する」とは、どういうことだろうか?
それは、すべてを「プログラムすること」ではない。
それは、すべてを「整理し、説明する」ということでもない。

それは、すべてを「感じる」ということだ。
すべてを感じること。ありとあらゆる心の動きを。
人間の心がもしも同じだけの要素から成り立っているならば、
異なるのは、ただ、それらの組み合わせ方と、混ぜあわせ方との
わずかな差だけであるのならば、これは可能なはずなのだ。
それがなぜ、不可能なはずがあろうか?
他人とは、そうありえたかもしれない自分であるというのに。

特定の物語に肩入れすることは好きではない。
筋立てられ、単純化されてしまった世界や、
あらかじめ誰かによって意味づけられた世界などには、なんの興味もない。

ただ、そこにある、目の前にある心の動き、
ほんの微かな心の震え、あるいは押し寄せる津波のうねりのような
心の運動を感じることに、淫しているだけだ。
相手の心の動きが、自分の心の動きと同調して感じられたときの、
「あの感じ」に淫しているだけだ。
それは、たとえば、すぐれたサーファーが波の動きを感じ、
波とシンクロすることに淫し、すぐれたヨットマンが、
風の動きを感じることに淫しているのに近いのではないかと思う。

もしかしたらぼくは、とてもよくできた人工知能システム
なのかもしれない、と思う。
ぼくの目はCCDのカメラであり、僕の腕は、
アルミ合金でできているのかもしれない。
あるいは、そんなものでさえなくて、
ぼくはただの鉄の箱なのかもしれない。
そして、とてもよくできたソフトウェアが、
ぼくの腕を、しなやかでよく動く人間の腕に
見せかけているだけなのかも、しれない。

だから、こんなにも、人間を見ていることに、
人の心の動きに、あこがれるのではないのだろうか?
そうだとしても、何の不思議も、ないくらいに、
ぼくは、すべてを、理解したい。
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はじめに(1)

2007-04-18 19:17:37 | 小説のようなもの
ぼくは、すべてを理解したい。
自然の秘密を? 
そうじゃあない、人間の、心を。

複雑なものが好きだ。
自分のまわりの世の中を単純にしたほうが生きやすい、
ということは頭ではわかっているし、そうするように努めてもいる。
でも、なぜか、ややこしいものに惹かれてしまうのはなぜだろう?

一見単純そうなものの中に隠れている途方もない複雑さ。
そういうものを見つけたときに、とてもうれしくなってしまう。
たとえそれが、外見的にはとても悲惨なものだとしても、
心のどこかでは、その精妙なる複雑さを鑑賞し、愛でている。

だから、僕は心理学者になるべきだったのかもしれない。
社会学者のやっている仕事に惹かれることもあった。
空の星は、きれいだけれども、ぼくの興味を、あまり引かない。
ぼくが興味があるのは、その空の星をながめる人の心の動きだ。
数学の定理も、クールだけれども、ぼくの興味をあまり引かない。
ぼくが興味があるのは、その定理を生み出した数学者の心の動きだ。

ある友人は、人間の作り出すものよりも、
自然の作り出したもののほうがずっと複雑で美しい、と言う。
彼は海に潜って、自然の産み出した美しいものたちを愛でる。
彼は正しい。人間の作り出したもの、
たとえば工業製品や合成化合物は単純で、
あまり美しくはない。

でも、まったく当然のことながら、人間自身は、
人間の作り出すものよりずっと複雑で美しい。
それは、自然が産み出した、最も複雑なものの一つなのだから。

だから、そんな人間がしっかりと屹立したり、
ゆらりゆらりと不安げに揺れたりしている海、
つまり「都市」は、珊瑚が広がって、海草が揺れて、
美しい魚が泳ぐ海よりも、ぼくにとっては美しい。
何倍も、何倍も、比類なく美しい。

人間を理解するために、数学は役に立つのだろうか?
別の友人は、単純な非線形方程式から産み出されるカオスを愛し、
その複雑さを何年も何年も眺め続ければ、
人の心を理解するための直観が身につく、と言っていた。

彼は、きっと、正しい。
でも、僕にはそんなにまどろっこしいことは我慢できない。
コンピュータのディスプレイに踊る渦巻きを眺めているのも楽しいが、
美しい人の姿を見て、あさましい人の姿を見て、
善良な人の姿を見て、邪悪な人の姿を見て、高貴な、下卑た、
純粋な、不純な、さまざまな心の動きを感じていることのほうが、
もっとずっとおもしろい。
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