三木之幹(ゆきもと)らが編集した「桃源遺事(とうげんいじ)」に書かれた徳川光圀の姿です。写真は平成26年に写した光圀の隠居場・西山荘です。
光圀7歳のとき、江戸小石川の後楽園にあった桜の馬場にさらされた罪人の首を、父の頼房が夜中に持って来るように命じたそうです。光圀は、少しも臆するところなくでかけて、暗闇の中、手探りで首を見つけ、まだ小さかったのでそれを引きずって屋形まで持ち帰ったそうです。
父・頼房臨終のとき、光圀は頼房に頼んで、それまで誕生後、父と会うことがなかった8男頼泰との初めての対面を果たさせたそうです。そして、死去後、3日間食事をしなかったそうです。またこのとき、追腹(おいばら 殉死)の話を聞き、噂された家臣の宅へ出向いて、それをやめさせたそうです。
旅行や狩りのついでに、小さな神社を見るために立ち寄るときには、必ず鳥居をくぐらず、その外側から境内に入ったそうです。そして、参詣するときは、潔斎して衣冠姿で向かったそうです。また、寺社へはいるときは、上段の座があっても決してあがらなかったそうです。
死去の年(元禄13年(1701))の晩夏にホトトギスの鳴き声を聞いて、
ほととぎすなれも(汝も)ひとりはさびしきに われをいさなへ(誘え)死て(死出)の山路に
と口ずさんだので、伺候していた人たちは心細く思い、悲しんだということです。
元禄13年光圀の病気が重いことを知った将軍・綱吉が、上使をつかわしたそうですが、寝ている西山荘では会わず、そのたびごとに馬で水戸城下までゆき、城内は杖をついで歩いていって、使者と面会したそうです。この年の12月に死去したそうです。
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