メガリス

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坂本龍馬は一登場人物でしかない。幕末維新史

2015年03月17日 23時22分33秒 | 幕末維新

 坂本龍馬は幕末維新史の一登場人物でしかない。

 平成22年11月5日放送のテレビ東京『この日本人がスゴイらしい。Brand New Japan』という番組で幕末をとりあげ、幕末に関心や関係がある著名人らに意見を聞き幕末の代表的人物上位5人を選出していた。

 1位:勝海舟
 2位:坂本龍馬
 3位:小栗上野介
 4位:吉田松陰
 5位:大久保利通

 奇妙な結果である。大久保を除く全員が「脇役」だ。
 幕末維新劇は、薩摩藩主島津斉彬が舞台・大道具・小道具・役者を用意し、ペリーが幕開けの太鼓を叩き、芝居を演じたのは主に島津久光・西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通ら薩摩藩の人間だ。

 勝・小栗・吉田など、それ以外の人物もそれぞれ重要な役割を果たしてはいるが、やはり脇役である。彼らの中に徳川の世を揺さぶり動かし変える思想・才覚・胆力と経済力・軍事力・政治力を併せ持った者はいない。それらを全て持っていたのはただ薩摩藩のみである。龍馬に至っては脇役と言えるかも疑問だ。一応セリフは有るという程度のただの一登場人物でしかない。

 主役だけではなく脇役にも注目するというのは大事なことだが、それが行過ぎて主役無視というのはおかしい。

 意見を聞いた人々に実は幕末維新の歴史に詳しくない人々が多く含まれていた為こういうおかしな結果になったのだろう。行動力は有り海舟や西郷・小松帯刀らの部下として忙しく走り回ってはいたものの、実は大勢に影響を与えるような仕事は殆どしていない坂本龍馬が2位に挙がっているのはその証拠だ。彼らの多くが、龍馬が薩長を結びつけたとか大政奉還を実現したとかいう、司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』等で世間に広まったフィクションを未だに信じているのだろう。

 第三者で薩長提携を最初に提唱したは福岡藩の加藤司書(かとう ししょ)・月形洗蔵(つきがた せんぞう)・早川勇(はやかわ いさみ)らであり、彼らに共感し周旋活動をしたのは中岡慎太郎・土方久元(ひじかた ひさもと)だ。
 だが、実際に成立した薩長和解提携は他ならぬ薩摩が構想し西郷隆盛が中心になって工作を進め実現したもので、当時薩摩の庇護下にあった龍馬は西郷・小松帯刀らの指示を受けて関与した。(龍馬が締結に立ち会った六箇条の薩長密約は、薩長和解提携が事実上成立した後に、その提携関係を前提として結ばれた約定だ。)

 大政奉還の提唱者は幕臣大久保一翁(おおくぼ いちおう)と福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)で、龍馬は彼らから学んだ受け売りの大政奉還策を後藤象二郎に提示しただけだ。大政奉還建白実現の為に土佐・薩長の関係者の間を奔走し調整したのは後藤である。その間龍馬は大政奉還に関して何もしていない。何を思ったか知らないが、徳川慶喜が大政奉還を決意したことが周囲の目にも明らかになったに、後藤宛てに“励ましのお便り”を書いている。

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即席B級『龍馬伝』便乗本か?榊原英資『龍馬伝説の虚実 勝者が書いた維新の歴史』

2015年03月17日 01時01分57秒 | 幕末維新

 経済学者榊原英資氏の『龍馬伝説の虚実 勝者が書いた維新の歴史』(朝日新聞出版刊)はNHK大河ドラマ『龍馬伝』に便乗した即席B級本、というのが私の印象だ。
 本屋で見かけ一部を立ち読みした後の単なる“印象”に過ぎない。念のため。 

 明治維新以後の日本のあり方に疑問を呈するのがこの本の主旨らしいが、立ち読みした部分だけでも基本的知識の欠落や不十分な理解に起因すると思われる奇妙な記述が目に付き、購入し真面目に通読する気は起きなかった。
 時間とお金が有り余っている方は暇つぶしに読んでもいいかもしれないが、決してお奨めは出来ない。

 龍馬殺害の“黒幕”に関するくだりで、榊原氏は“武力倒幕を目指す薩長にとって、大政奉還を建策した龍馬は憎んでも憎みきれない相手だったはずだ”という意味のことを書いている。
 榊原氏の幕末維新史に関する知識・理解は司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』に登場するフィクションと同程度のモノらしい。榊原氏は大政奉還の主役は龍馬だったと勘違いしている。
 大政奉還策自体は、榊原氏もちゃんと書いているように、もともと幕臣大久保一翁(おおくぼ いちおう)や福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)らが提唱したものだ。彼らからの受け売りの大政奉還策を龍馬は地元土佐が王政復古運動の先頭走者に跳び出す為の離れ技として後藤象二郎に提示したが、大政奉還実現に関して龍馬がやったことはそれだけだ。(何を思ったか知らないが、徳川慶喜が大政奉還を決意したことが周囲の目にも明らかになったに、後藤に“励ましのお便り”を書いただけである。)土佐藩や薩長の関係者の間を調整に奔走したのは後藤象二郎である。
 薩長が大政奉還に関して誰かを恨み殺害まで考えるなら、それは後藤象二郎である。大政奉還運動に関して殆ど何もしていない龍馬を殺す理由が無い。

 後藤は、大政奉還建白を前土佐藩主山内容堂に提出する前に、薩摩の小松帯刀・西郷らに相談している。はじめ反対されたので後藤は提出を延期したが、やがて“反対はしない”旨の同意を得たので建白書を出した。(所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」が方針を巡って鋭く対立していたという理解は誤りだ。もしそうだったなら、前述した後藤の行動はあり得ない。両派の関係を例えるなら、一本の「王政復古トンネル」を山の両側から掘っている二つの班のようなものだ。)
 仮に、薩長にとって土佐の大政奉還運動が関係者の殺害を考える程の大問題だったとしたなら、後藤が建白書を出す前に後藤その人を斬らねばならない。大政奉還が成った後に、関係が有ると言えば有るという程度の龍馬を斬っても全然意味が無い。

 榊原氏は、京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)の一員だった今井信郎(いまい のぶお)の龍馬殺害に関する自白について、“龍馬暗殺の黒幕と思われる西郷らが今井を言い含めて、彼ら京都見廻組が龍馬殺害犯であるというウソをでっち上げたのではないか”という旨のことも書いている。
 榊原氏は、明治30年代に今井の証言が広く世に知られるようになるまでは“龍馬殺害は新撰組の仕業”というのが龍馬殺害直後からの殆どの人々の認識であり通説だったという事実を知らないか、知っていてもしっかり頭に染み込んではいないようだ。
 今井にとっては不本意な形ながら龍馬殺害に関する彼の証言が世間に公表されるまでは、龍馬殺害に関する「
謎」や「ミステリー」は事実上存在していなかったと言ってよい。今井が京都見廻組による龍馬殺害を証言し、それに対して新撰組による殺害を固く信じる谷干城(たに たてき)らが「今井の売名行為だ」と反論したことによって、“龍馬を殺害したのは本当は誰なのか?”という「謎」「ミステリー」がこの世の中に本格的に誕生したのだ。
 榊原氏はそういう事実の流れを全く知らないか、或は理解していない。
 明治の初めに於いては“龍馬を斬ったのは新撰組”と殆どの人が思い込んでいるのだから、龍馬殺害の「黒幕」が西郷であるなら、彼はそれをそのまま維持強化すればよい。わざわざ別の「真犯人」をでっちあげ状況を混乱させる意味は無い。「寝た子を起こす」必要が何処に有るのか?

 今井が龍馬殺害への関与を自白した経緯についても榊原氏は知らないか、或は理解していない。
 函館戦争終結後に龍馬殺害の件について詮議を受けた元新撰組隊士が“新撰組ではなく京都見廻組によるもの”との証言をした為、今井が尋問を受けることになった。共に会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)の配下に在り京都見廻組と兄弟組織とも言える間柄だった新撰組には事件直後から見廻組が実行したという情報が伝わっていた。今井は元新撰組に証言されたのではシラを切り通すことは出来ないと思ったのだろう。彼は“確かに京都見廻組が実行したことだが自分は見張りをしていただけ”と、この時点では、証言した。京都見廻組が龍馬を殺害したということを今井が聞かれもしないのに自分からペラペラ喋ったのではない。この経緯に“西郷らのでっち上げ”が入り込む隙間は無い。それは知識不足あるいは理解不足からくる妄想の類でしかない。

 榊原氏は戸田雅楽(とだ うた)が作って龍馬や西郷に見せた新政府人事案『新官制擬定書』に触れているが、西郷・後藤らの名前は挙げているのに、何故かこの本の主役であるはずの坂本龍馬の名前については書いていない。『新官制擬定書』には「参議」として坂本の名もちゃんと挙がっているにも関わらずだ。
 “龍馬が『新官制擬定書』を作り、それに彼自身の名前が無いことを不審に思った西郷が理由を問うと、龍馬は「役人は嫌だ。世界の海援隊をやりたい」と答えた”という龍馬伝説「世界の海援隊伝説」は有名だが、これは後世の作り話だ。『新官制擬定書』はかつて三条実美の側に居て朝廷の役職に関する知識があった戸田雅楽が作ったもので、龍馬はそれに「参議」として名前が挙げられている。もちろん龍馬は承知だろう。西郷に『新官制擬定書』を見せたのも戸田である。
 榊原氏はもしかすると素人同然に架空のウソ話龍馬伝説「世界の海援隊伝説」を信じているのかもしれない。

 ほんの一部を読んだだけなのに、これだけおかしな点が見つかるというのは異常だ。

 “幕末維新史に関心も知識も無かった榊原氏が、『龍馬伝』による龍馬ブームに便乗した本を出せば売れると考え、慌てて関連書籍をかき集めそれらを参考に書き上げた即席B級ブーム便乗本”。私はそういう印象をもった。

 くどいが私は全体を通読していない。しっかり読んではいない人間の“ゲスの勘ぐり”であることをお断りしておく。

 


龍馬伝説「亀山社中設立伝説」はウソである。「亀山社中日本初商社伝説」もウソである

2015年03月17日 00時44分42秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が「亀山社中」を設立した”という龍馬伝説「亀山社中設立伝説」はウソである。また“「亀山社中」が日本初の商社である”という龍馬伝説「亀山社中日本初商社伝説」もウソである。

 後世に「亀山社中」と呼ばれるようになった集団は薩摩藩家老 小松帯刀によって「設立」された。
 慶応元年(西暦1865年)五月に薩摩に滞在していた坂本龍馬ら土佐浪人一党のうち、坂本は他の浪人仲間より先に薩摩を発ち熊本・大宰府を経由して長州に入った。(薩摩と長州の和解連携は他ならぬ薩摩が構想し小松帯刀・西郷隆盛達が中心となって工作を進め実現したもので、薩摩の庇護下に入った坂本龍馬らは西郷・小松帯刀らの指示を受けてその工作に関わった。この時の坂本の行動も小松・西郷達の意を受けてのものである。“坂本龍馬が薩摩と長州の手を結ばせることを発案し、彼が仲介して気乗りしない両者を説得して実現した”という龍馬伝説「薩長連携発案仲介伝説」はウソである。
 龍馬出立後、彼を除く土佐浪人らを長崎へ連れて行き海運の仕事の道筋をつけてやったのは薩摩藩家老小松帯刀である。(龍馬らには操船技術はあっても船その物や海運業についての知識・人脈等は無い。それを持っていたのは薩摩である。)
 長崎に居なかった龍馬は「亀山社中」の「設立」には関わっていない。

 「設立」経緯などよりも重要な事だが、「亀山社中」は独立した会社・商社のようなものではない。
 正式な薩摩藩士ではないが薩摩に雇われ薩摩藩から給料をもらっている、現代の言葉で例えるなら臨時職員の集まりだ。勤務地が長崎で仕事が海運だったということだ。「亀山社中」には会社・商社と呼べるような実態は無く、“「亀山社中」が日本初の商社である”という説を唱えた当人が後にそれを撤回している。

 「亀山社中」という名称は後世になって創作されたもので、当時彼らは自分たちを単に「社中」と呼んでいた。現代なら「仲間」「グループ」という程度の意味の当時は普通に使われた一般的な言葉だ。独立した組織らしい名称が無かったので、便宜的にそういう呼び方が使われていたわけだ。秘密結社でもあるまいし世間様に対しちゃんとした名前を名乗らないというのは、彼ら「社中」が実は薩摩藩という組織の一部であり、当人達もそういう意識を持っていた証拠だ。

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