経済学者榊原英資氏の『龍馬伝説の虚実 勝者が書いた維新の歴史』(朝日新聞出版刊)はNHK大河ドラマ『龍馬伝』に便乗した即席B級本、というのが私の印象だ。
本屋で見かけ一部を立ち読みした後の単なる“印象”に過ぎない。念のため。
明治維新以後の日本のあり方に疑問を呈するのがこの本の主旨らしいが、立ち読みした部分だけでも基本的知識の欠落や不十分な理解に起因すると思われる奇妙な記述が目に付き、購入し真面目に通読する気は起きなかった。
時間とお金が有り余っている方は暇つぶしに読んでもいいかもしれないが、決してお奨めは出来ない。
龍馬殺害の“黒幕”に関するくだりで、榊原氏は“武力倒幕を目指す薩長にとって、大政奉還を建策した龍馬は憎んでも憎みきれない相手だったはずだ”という意味のことを書いている。
榊原氏の幕末維新史に関する知識・理解は司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』に登場するフィクションと同程度のモノらしい。榊原氏は大政奉還の主役は龍馬だったと勘違いしている。
大政奉還策自体は、榊原氏もちゃんと書いているように、もともと幕臣大久保一翁(おおくぼ いちおう)や福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)らが提唱したものだ。彼らからの受け売りの大政奉還策を龍馬は地元土佐が王政復古運動の先頭走者に跳び出す為の離れ技として後藤象二郎に提示したが、大政奉還実現に関して龍馬がやったことはそれだけだ。(何を思ったか知らないが、徳川慶喜が大政奉還を決意したことが周囲の目にも明らかになった後に、後藤に“励ましのお便り”を書いただけである。)土佐藩や薩長の関係者の間を調整に奔走したのは後藤象二郎である。
薩長が大政奉還に関して誰かを恨み殺害まで考えるなら、それは後藤象二郎である。大政奉還運動に関して殆ど何もしていない龍馬を殺す理由が無い。
後藤は、大政奉還建白を前土佐藩主山内容堂に提出する前に、薩摩の小松帯刀・西郷らに相談している。はじめ反対されたので後藤は提出を延期したが、やがて“反対はしない”旨の同意を得たので建白書を出した。(所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」が方針を巡って鋭く対立していたという理解は誤りだ。もしそうだったなら、前述した後藤の行動はあり得ない。両派の関係を例えるなら、一本の「王政復古トンネル」を山の両側から掘っている二つの班のようなものだ。)
仮に、薩長にとって土佐の大政奉還運動が関係者の殺害を考える程の大問題だったとしたなら、後藤が建白書を出す前に後藤その人を斬らねばならない。大政奉還が成った後に、関係が有ると言えば有るという程度の龍馬を斬っても全然意味が無い。
榊原氏は、京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)の一員だった今井信郎(いまい のぶお)の龍馬殺害に関する自白について、“龍馬暗殺の黒幕と思われる西郷らが今井を言い含めて、彼ら京都見廻組が龍馬殺害犯であるというウソをでっち上げたのではないか”という旨のことも書いている。
榊原氏は、明治30年代に今井の証言が広く世に知られるようになるまでは“龍馬殺害は新撰組の仕業”というのが龍馬殺害直後からの殆どの人々の認識であり通説だったという事実を知らないか、知っていてもしっかり頭に染み込んではいないようだ。
今井にとっては不本意な形ながら龍馬殺害に関する彼の証言が世間に公表されるまでは、龍馬殺害に関する「謎」や「ミステリー」は事実上存在していなかったと言ってよい。今井が京都見廻組による龍馬殺害を証言し、それに対して新撰組による殺害を固く信じる谷干城(たに たてき)らが「今井の売名行為だ」と反論したことによって、“龍馬を殺害したのは本当は誰なのか?”という「謎」「ミステリー」がこの世の中に本格的に誕生したのだ。
榊原氏はそういう事実の流れを全く知らないか、或は理解していない。
明治の初めに於いては“龍馬を斬ったのは新撰組”と殆どの人が思い込んでいるのだから、龍馬殺害の「黒幕」が西郷であるなら、彼はそれをそのまま維持強化すればよい。わざわざ別の「真犯人」をでっちあげ状況を混乱させる意味は無い。「寝た子を起こす」必要が何処に有るのか?
今井が龍馬殺害への関与を自白した経緯についても榊原氏は知らないか、或は理解していない。
函館戦争終結後に龍馬殺害の件について詮議を受けた元新撰組隊士が“新撰組ではなく京都見廻組によるもの”との証言をした為、今井が尋問を受けることになった。共に会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)の配下に在り京都見廻組と兄弟組織とも言える間柄だった新撰組には事件直後から見廻組が実行したという情報が伝わっていた。今井は元新撰組に証言されたのではシラを切り通すことは出来ないと思ったのだろう。彼は“確かに京都見廻組が実行したことだが自分は見張りをしていただけ”と、この時点では、証言した。京都見廻組が龍馬を殺害したということを今井が聞かれもしないのに自分からペラペラ喋ったのではない。この経緯に“西郷らのでっち上げ”が入り込む隙間は無い。それは知識不足あるいは理解不足からくる妄想の類でしかない。
榊原氏は戸田雅楽(とだ うた)が作って龍馬や西郷に見せた新政府人事案『新官制擬定書』に触れているが、西郷・後藤らの名前は挙げているのに、何故かこの本の主役であるはずの坂本龍馬の名前については書いていない。『新官制擬定書』には「参議」として坂本の名もちゃんと挙がっているにも関わらずだ。
“龍馬が『新官制擬定書』を作り、それに彼自身の名前が無いことを不審に思った西郷が理由を問うと、龍馬は「役人は嫌だ。世界の海援隊をやりたい」と答えた”という龍馬伝説「世界の海援隊伝説」は有名だが、これは後世の作り話だ。『新官制擬定書』はかつて三条実美の側に居て朝廷の役職に関する知識があった戸田雅楽が作ったもので、龍馬はそれに「参議」として名前が挙げられている。もちろん龍馬は承知だろう。西郷に『新官制擬定書』を見せたのも戸田である。
榊原氏はもしかすると素人同然に架空のウソ話龍馬伝説「世界の海援隊伝説」を信じているのかもしれない。
ほんの一部を読んだだけなのに、これだけおかしな点が見つかるというのは異常だ。
“幕末維新史に関心も知識も無かった榊原氏が、『龍馬伝』による龍馬ブームに便乗した本を出せば売れると考え、慌てて関連書籍をかき集めそれらを参考に書き上げた即席B級ブーム便乗本”。私はそういう印象をもった。
くどいが私は全体を通読していない。しっかり読んではいない人間の“ゲスの勘ぐり”であることをお断りしておく。