メガリス

私の文章の模倣転用は(もしそんな価値があるなら)御自由に。
私の写真についての“撮影者としての権利”は放棄します。

鈴木亮平なら立派に西郷役をやってくれるだろう。NHK大河ドラマ『西郷どん』

2016年10月31日 17時27分41秒 | NHK大河ドラマ『西郷どん』

 鈴木亮平氏がNHK大河ドラマ『西郷どん』(せごどん)の主役に内定したという報道がある。 

 もし本当なら、彼の過去の仕事ぶりから観て、真剣に西郷隆盛役に臨んでくれるだろうという期待が持てる。良い人選であると思う。

  鈴木氏とともに西郷役候補として推す人の多かった山田孝之氏は出演するのだろうか。もし出てくれるなら小松帯刀や島津久光のような重要人物として出て欲しい。












キムタク西郷も悪くない。NHK大河ドラマ『西郷どん』。木村拓哉の真剣度次第。

2016年10月19日 14時16分03秒 | 幕末維新

 キムタク西郷も悪くないと思う。木村拓哉氏が西郷隆盛という人物に真正面から取り組むという条件付きで。

“NHK大河ドラマ『西郷どん』の西郷役に木村拓哉氏が内定した”、あるいは、“本人や事務所が熱望している”という噂がある。

 キムタク西郷も悪くないと思う。以前、木村氏主演の映画『武士の一分』を観たが、ちゃんとした芝居の出来る人という印象を持った。(この映画の木村氏を批判する人は、いかにも剣の達人という雰囲気を出さない自然な演技演出に対し見当違いの難癖をつけているだけとしか思えない。)
 「何を演じてもキムタクにしか見えない」という批判もあるらしいが、それは彼が本物のスターである証拠だろう。
 
 ただ、木村氏には彼が20代前半の頃に出演した映画『君を忘れない』で“ポニーテールの特攻隊員”を演じたという「前科」がある。
 “薩摩弁は大変だから基本的に共通語にしろ”とか“体重を増やすのはイヤだ”とか勝手なことを言わず、木村氏が西郷隆盛という人物に真正面から真剣に取り組むのなら、キムタク西郷も良いと思う。

 (『八重の桜』での吉川晃司氏演じる西郷隆盛はさほど太ってはいなかったが西郷らしい雰囲気を醸し出していた。巨漢西郷の印象を映像の上でしっかり出せるなら、過度にブクブク太る必要は無い。)



龍馬伝説「生涯海舟愛弟子伝説」はウソである。

2016年10月09日 09時51分51秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬は死ぬまで勝海舟の愛弟子であった”という龍馬伝説「生涯海舟愛弟子伝説」はウソである。

 龍馬単独名義で海舟宛てに出した書簡の現物は存在しない(龍馬から海舟宛ての手紙の写しと推定されている資料が1件在るには在る)。また、海舟から龍馬単独宛名で出した書簡も存在しない。後述する佐藤与之助と連名の書簡・来簡が数通残るだけである。師弟関係が間違いなく存在していたと思われる時期でも、両者の関係は一般に考えられているほど親密ではなかったようである。(単に現存していないだけで手紙の遣り取り自体は有ったのかもしれない。だとすると、龍馬も海舟も受取った手紙をしっかり保存しなかった、場合によってはさっさと捨ててしまった、ということになる。龍馬と海舟が常に一緒に行動していたなら、手紙を書く必要自体が無いわけだが、実際にはそんなことはない。)
 そして、「龍馬公金横領事件」が発覚した頃から、両者の間に直接の交渉は一切無くなる。

 元治元年(西暦1864年)に勝海舟は軍艦奉行を罷免され、後に神戸海軍操練所も閉鎖された。「龍馬公金横領事件」が明るみに出たのはその海舟罷免の直後だ。
 以下、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)から引用する。文中に登場する「与之助」とは、神戸にあった勝の私塾における事実上の「塾頭」と言える立場だった佐藤与之助〔さとう よのすけ。後の「鉄道の父」佐藤政養(まさやす)〕のことである。(坂本が神戸の海軍操練所や勝の私塾で、「塾頭」やそれに相当する立場だった事実は無い。この「海軍学校塾頭伝説」も後世の創作である。正式発足後の海軍操練所に関しては「塾頭」どころか一練習生ですらない。龍馬のような浪人は入所出来ないことになったからだ。)文字強調は私メガリスによる。

--------------------引用開始

 前年の海舟軍艦奉行罷免の報らせを受けて驚いた手紙で与之助は、松平大隅に預けてあった海舟の金四百両を受取り、指示された支払に三百両を使い、残り百両は自分が持っていると書いた。実は与之助の手許に残ったのは百両ではなくて五十両だった。五十両は松平大隅のところから坂本龍馬ら土佐人が持出していたのである。
 与之助は現金五十両の代りに松平大隅の家来が書いた〆金五十両の「覚」を受取った。この「覚」や他の現金を受取ったのは元治元年十一月二十四日だが、与之助は「覚」のことを伏せた。慶応元年の六月十日になって遂に隠しきれず、海舟宛の手紙に同封したのである。
 その「覚」は十両を坂本龍馬殿へ、十両を高松太郎殿へ、三十両を近藤長次郎殿へで計五十両だった。この順で松平大隅の手許から持出したのである。まず顔の効く龍馬が十両を借りだし、それが先例になって高松太郎が十両、最後に近藤長次郎が纏めて三十両を引き出して合計が五十両になった。各人それぞれがいつ持出したのか記録されていないけれども、元治元年(子年である)十一月二十四日に与之助が引継いだときには五十両に達していたので、松平 大隅の家臣が「子十一月」付の〆金五十両の「覚」を渡したのである。与之助が全部で四百両の筈だった海舟の金を受取ったとき、その内の五十両は土佐の人たちに先に渡してありますという話だったのである。
 与之助は高松太郎や近藤長次郎に返金を掛合ったけれども返事も無い。龍馬には大坂で会ったとき詰問したけれども、とてものこと返納の手段は無いとのことだった。

(中略)

 そのとき与之助は、龍馬が金の持出しを海舟に告白していないことを確認し、返すあてのないことを聞取った。与之助はなおも熟慮を重ね、六月十日に至り遂に報告することに決めたのである。これも龍馬と海舟の関係を考える上での重要なデータとなる。

引用終了--------------------

  佐藤与之助が“龍馬らの粗雑より起こったことで悪意の横領ではない”と庇ってくれたおかげで、勝海舟も大事にはせず済ましたらしいが、勝に一切断り無く大金を持出し使い返却しなかったのだから“横領”と言うしかない。
 この頃の1両は現代の5万円程に相当するという見解があり、それに従うと現代の価値で約250万円の横領ということになる。
 この
「龍馬公金横領事件」発覚の頃から龍馬と海舟は一切の交渉が無くなる。其れが理由であると断定は出来ない。だが、常識的に考えれば大いに関係あるはずだ。

 “龍馬は死ぬまで勝海舟の愛弟子だった”という龍馬伝説「生涯海舟愛弟子伝説」はウソである。
 

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薩長テロリストによる明治維新が無ければ幕府独力で平和的近代国家になり日清日露太平洋戦争も無かったはずだ。

2016年10月06日 13時19分14秒 | 幕末維新

“日帝による植民地支配が無ければ、李氏朝鮮が独力で近代化を行って朝鮮は平和的近代国家に生れ変り、南北分断・朝鮮戦争も無かったはずだ。”

“薩長テロリストによる明治維新が無ければ、幕府が独力で近代化を行って日本は平和的近代国家に生れ変り、日清・日露・太平洋戦争も無かったはずだ。”

 同じ連中ではないだろうが(多分)、同じような連中が言っているわけだ。

 「負け犬(あるいは参戦能力が無く負け犬にさえなれなかった傍観者)の遠吠え史観」。どうぞ御自由に。


 


西郷在世当時は「西郷さぁ」であり「西郷どん」ではない

2016年10月05日 18時20分26秒 | 幕末維新

 「西郷どん」という呼び方は昭和に入ってからの比較的新しいもので、西郷在世当時、彼は「西郷さぁ」と呼ばれていたらしい。
 そういえば平成2年NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』でも西郷は「西郷さぁ」と呼ばれている。

 NHK大河ドラマ『西郷どん』。題名からして、つまづいてしまっている。不安。。。 

 西郷隆盛という巨人の思想と行動は現代の老若男女を対象とするNHK大河ドラマの単独主役としては大きすぎる。
 今からでも遅くはない。(遅いか?) 主人公を島津斉彬・久光兄弟に変更しよう。

 

 


赤松小三郎暗殺に西郷ら薩摩藩首脳が関わっている可能性は有る。

2016年10月04日 11時18分02秒 | 幕末維新

 幕末の兵学者・政治思想家である赤松小三郎の暗殺事件には西郷・小松帯刀・大久保ら薩摩藩首脳が関わっている可能性は有ると思う。
 当時、薩摩藩は武力討幕・新政府樹立政変の計画を着々と準備しつつあった。薩摩軍を永年に亘って指導錬成してきた赤松だが、彼は譜代である松平氏が治める上田藩の藩士。共に縁の深い薩摩と幕府方による内戦を避けたい彼は、薩摩の武力倒幕方針に反対し西郷・小松らの説得を試みる。そんな時に度重なる上田藩からの召還命令を拒否し続けることが出来なくなった赤松は帰郷せざるを得なくなる。幕府側もボーッとしていたわけではなく薩摩の動きは把握していたはずで薩摩もまたそのことは判っていただろう。だが、やはり薩摩の軍事機密と武力討幕準備を熟知している赤松が幕府方に取り込まれる可能性は好ましくない。
 赤松小三郎という人物の重要度は坂本龍馬のような小物とは違う。 

 だた、有馬藤太の証言自体はさほど信頼出来ない。そもそも彼は暗殺事件には不関与で詳細を知らないのではないか。薩摩藩士内での噂話に基づく彼の認識をもとに、薩藩首脳陣を庇うつもりで”俺たち4人が独断でやった。俺も現場に居た”という事実とは違うことを言い、後には真相を明かすつもりで”大久保・西郷らが桐野に密命をくだした”と語っただけではないのか。

 ノンフィクション作家だという宮原安春という人物が、赤松小三郎に関する文章を『週刊朝日』に書いている。
----------------引用開始

 好戦的な西郷には平和主義の赤松が邪魔だったのかもしれない。
 赤松の死後1カ月後に慶喜は大政奉還、翌年1月から戊辰戦争が始まった。
 「たら、れば」ではあるが、民間からの初の憲法構想である赤松の建白書が採用されていれば富国強兵に走ることもなく、日清、日露戦争も起こらなかったかもしれない。

引用終了----------------

 薩摩軍を指導錬成していた兵学者である赤松が「平和主義」なのだそうだ。どうしてそんな辻褄の合わない発想が出来るのか?
 日清・日露戦争だけではなく、富国強兵さえも怪しからんとする姿勢は何なのか?
 朝日新聞的ハンセンヘーワ主義の視点から何十年もの先の事を都合良く妄想する愚かしさ。
 失笑するしかない。