話題の映画『侍タイムスリッパー』を見たのですけど、昭和の古臭い「会津観光史学」がそのまま下敷きにされていて、ガッカリでした。
新政府軍は勢いづいた挙句に会津の意向を無視して一方的に攻めたというわけではありません。会津戦争に至ったのは他ならぬ会津松平容保(かたもり)が徹底抗戦の姿勢を崩さなかったのが一番の理由です。「嘆願書」あるいは「上表文」などと呼ばれる容保の新政府軍に宛てた文書では、ひたすら言い訳を重ねているだけで、新政府軍に対し最後まで抵抗するのかしないのか?とか会津若松城を明け渡すのかそれとも城を枕にうち死にの積りか?とかいう、新政府軍が一番知りたがっている肝心な問題からは逃げ回っています。“松平容保は恭順の意を示したが新政府はそれを受け入れず会津を攻めた”というような事を未だに言ってる人が居るようですが、嘘です。「恭順の意」など全く示してはいません。
容保の主君である徳川慶喜は江戸城を部下たちに任せて寛永寺に自ら引きこもり「恭順の意」を明確に表しました。もし容保に「恭順の意」があったならばこの良いお手本を必ず真似ていたはずです。でも、容保はそうしてませんよね。容保が蝦夷地の自分の領地を金銭や軍事的支援と引き換えにプロシア(今のドイツ)に事実上売却しようとしていた事実も、彼に「恭順の意」など無かったことの証拠でしょう。新政府軍は会津が恭順の姿勢を明確にするなら寛大に処置する意向であることを仙台藩を通じて会津に伝えていますが、松平容保は徹底抗戦の姿勢を貫き、ついには戦争になったのです。
新政府にはカネが無いのですよ。なるべくカネを使わずに事を済ませたいのです。恭順の意を明確にした相手をワザワザ攻撃して使わなくてよい戦費を浪費するバカな真似はしません。実際、徳川慶喜・松平容保とともに「一会桑勢力」の一端を担った、松平容保実弟の元京都所司代:松平定敬(さだあき)の桑名藩は、定敬本人は函館戦争まで抵抗を続けましたが、藩自体は早々に恭順の意を明確に顕したので戦争にはなりませんでした。無血開城です。
見せしめのため会津兵の遺体の埋葬を禁じた、という話も完全な虚偽です。昭和30年代以降に大声でそういう主張をする人間が現れましたが、それ以前にはそんな話は有りませんでした。昭和41年に刊行された『会津若松市史』(編:会津若松史出版委員会 出版:会津若松市)でも「埋葬禁止令」の存在には疑問が呈されており“仮にそれが実在していたとしても、埋葬が可能になるまで東西両軍の戦死者に対して手を触れるなという一時的なものであろう”としています。平成28年には会津降伏直後の会津藩戦死者の埋葬記録が発見されており、「埋葬禁止令」は虚偽であることが確定しています。
『侍タイムスリッパー』監督・脚本の安田淳一氏は、自分の映画の構成に関わる重要な歴史的事実についてロクに調べなかったのでしょうか。それとも、史実ではないと知りながら「娯楽フィクションなんだから、まあ、良いじゃないか」と安易に会津観光史学的作り話を採用したのでしょうか。どちらであろうとも、最終的に迷惑を被るのは会津若松の関係者なんですがね。