メガリス

私の文章の模倣転用は(もしそんな価値があるなら)御自由に。
私の写真についての“撮影者としての権利”は放棄します。

龍馬伝説「平和主義者伝説」はウソである

2015年03月13日 23時48分33秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬は平和主義者であり大政奉還を推し進めたのも内戦を避ける為である”という、NHK『篤姫』でも無批判に採り入れられ、『龍馬伝』でも踏襲された「平和主義者伝説」はウソである。

 坂本は状況によって所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」の間を右往左往している。(両者は連絡・相談をしながらそれぞれの仕事を進めている。土佐の大政奉還路線の主役だった後藤象二郎は大政奉還建白を提出する直前に西郷・小松帯刀らに相談している。両派の間に大きな溝が有ったわけではない。)彼が「平和主義者」だったらそんなことは有り得ない。

 幕末・近代の政治思想史の研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)より引用する。文字強調は私メガリスによる。

----------------------引用開始

龍馬は大政奉還側

 さて、いよいよ大政奉還の十月である。土佐主導で薩摩がしぶしぶ(或いは策略含みで)付き合っている大政奉還と、その大政奉還の「上表」と奇しくも同じ十月十四日になった薩摩・長州へのいわゆる「倒幕密勅」と。この二つの、からまりあいながらしかし峻別されるべき路線で、龍馬が大政奉還の側にいて、討幕密勅の側にいないことは明瞭である。

 平和主義者だというのではない。既に十分に指摘されていることだが、前述八月十四日付吉慎蔵宛書簡では、長州本藩・長府藩・薩摩藩・土佐藩の軍艦を集めて一組として幕府と戦うという構想が語られているし、九月二十日の木戸宛で土佐に鉄砲を運んで乾退助に引合と書くのも、土佐藩を可能な限り武力討幕路線に引寄せておこうというデモンストレーションである。

引用終了----------------------

----------------------引用開始

 しかし八月から九月と、土佐藩の大政奉還建白が平和路線に傾いていることが明瞭になったとき、木戸は龍馬に不満を呈した。龍馬は木戸に強く言われて、精一杯武力討幕路線に近寄ってみせる。この揺れが龍馬独特で、討幕一点張りでもなければ、絶対平和主義者でもない。後藤象二郎が土佐藩の大政奉還建白を京都まで持参したものの薩摩藩の反対で提出できなくて困っているとき、長崎から高知に鉄砲を運ぶ途中の龍馬は木戸に返事して、これから土佐に帰り乾退助(板垣退助=武力討幕派)と相談の上、京都に出て後藤を引込めるとまで書いたのである。 

  龍馬が武力討幕派だという面を最も強調したのは、故飛鳥井雅道の『坂本龍馬』(一九七五年・平凡社)だった。苦心の力作だが、討幕派寄りになったところばかりを拾いすぎた憾みがある。龍馬が高知を経て上京したときには、既に土佐藩の大政奉還建白は在京薩摩藩代表の了解を得て提出済みとなっていた。龍馬は後藤象二郎ともども、ただただ土佐の建白が受け入れられることを願うのみだったのである。 

引用終了---------------------- 

  大体、「平和主義者」がピストルなんか持ち歩き、奉行所捕り方を二人も射殺したりするわけがない。 

  坂本が土佐の大政奉還路線のきっかけを作ったのは、王政復古運動において薩長に遅れをとった郷里土佐藩を大政奉還建白という離れ技で一気に先頭走者に押し出すのが狙いだった。また、王政復古後の新体制の実をあげる為には徳川幕府による支配を形式のみではなく実質的に完全に解体すべしと考えた薩長と違って、坂本は徳川氏・土佐山内氏ら旧幕府勢力を温存することも可と考えていたので、その為でもあった。 

  司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』で、司馬は”坂本竜馬は既に土佐人ではなく幕末の日本で唯一人の「日本人」だった”という意味のことを書いている。これは空想歴史小説の主人公=坂本”竜”馬の話であって、実在の「坂本”龍”馬」とは関係無い。実在の龍馬は死ぬまで土佐人としての意識を強く持っていたと思われる。 

  後藤象二郎と共に土佐を海から援ける為の「土佐海援隊」を作り活動したのはその証左と言える。(「土佐海援隊」から「土佐」を意図的に省き単に「海援隊」と呼ばれることが多いのは、司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』の中で生まれた「当代唯一日本人伝説」がウソであることが広まると困る連中、即ち”架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬”を金儲けのネタにしている「悪質龍馬業者」が多いからだろう。) 

 幕藩体制を終わらせ王政復古を実現し天皇を中心に堅く纏まった新日本を建設することを目指した幕末維新の志士達のなかでは、坂本はむしろ保守的な部類の人間と言えるかもしれない。


龍馬伝説「海軍学校塾頭伝説」はウソである。

2015年03月13日 22時55分25秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が勝海舟の海軍学校で塾頭だった”という「海軍学校塾頭伝説」はウソである。

  平成21年西暦2009年9月3日0時現在、平成22年度NHK大河ドラマ『龍馬伝』に関するNHKウェブサイトのページに【坂本龍馬・岩崎弥太郎の生涯】という年表が掲げられ、その中にこういう記述がある。

----------------引用開始

  文久3年(1863年)29歳 龍馬、勝海舟の海軍塾の塾頭となる。

引用終了----------------

 ウソである。
 〝坂本龍馬が、勝海舟が神戸で運営する海軍学校の「塾頭」「塾長」であった〟という「海軍学校塾頭伝説」は作り話だ。数多い架空のウソ話「龍馬伝説」の一つに過ぎない。

 海舟が関わった神戸の学校は二つ存在する。勝個人の私塾と、勝が責任者として設立した幕府の海軍操練所だ。その何れに於いても坂本龍馬が「塾頭」やそれに相当する立場であった事実は無い。後世の作り話だ。

  勝海舟が『氷川清話(ひかわせいわ)』(ひかわきよしばなし、ではない)の中で「坂本龍馬がその塾頭であつた」と語っているが、仮に、実際に文章を書いた新聞記者に対して海舟が「塾頭」という言葉を使いこの通りに話したとしても(『氷川清話』は新聞に掲載された勝の談話を纏めた本で、元々の談話は勝が語ったことを新聞記者が文章化した物である。勝が自分で文章を書いたわけではない)、文脈からして“海舟のもとに集まった塾生達のリーダー格であった”という意味であることは明らかだ。現代の学校に当てはめるなら生徒会長(あるいは番長)といったところだろう。

『氷川清話』(勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫)より引用。

----------------引用開始

 塾生の中には、諸藩の浪人が多くて、薩摩のあばれものも沢山居たが、坂本龍馬がその塾頭であつた。当時のあばれもので、今は海軍の軍人になつて居るものがずいぶんあるョ。

引用終了----------------


 そもそも、現代で言う理事長・学長・教授等を兼ねた本当の意味での「塾頭」「塾長」に当たる人物は別に存在している。勝海舟と共に長崎海軍伝習所で学び新政府でも技術官僚として活躍した、生涯勝と交流があった佐藤与之助(さとう よのすけ)という人物だ。
  佐藤与之助(後に政養[まさやす・まさよし・せいよう])は、幕臣時代には、江戸湾各地を測量した結果を元に当時の横浜村開港を提言し、海舟の海軍学校では実質的塾頭として多くの人材を育成した。更に明治新政府では、初代鉄道助(てつどうのすけ)として日本最初の鉄道建設に尽力した。陸海両方で日本の近代運輸発展の基礎を築く多大な功績を残した「日本近代運輸の父」と称してもいいぐらいの大人物である。
 こういう超優秀な人物を差し置いて、殆ど学問らしい学問の無い坂本龍馬が海軍塾の「塾頭」になれる道理が無い。

 以下、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)から引用する。

 

---------------------引用開始

  前記『坂本龍馬関係文書』収録の坂崎紫瀾編「坂本龍馬海援隊始末」の年譜では「文久三年(日不詳)龍馬神戸海軍所ノ塾長トナリ勝ヲ助ク」と書かれており、 これが龍馬塾長説の最大の根拠となっているのだが、全く根拠の無い記述である。「神戸海軍所」が何を指すのかも不明である。坂崎は年譜的記述の典拠のようにして海舟の文章を無理に引いているけれども、その文中の「海軍局」は幕府の海軍操練所を指しており、これは準備中で発足は翌年だった。完成しても龍馬が 「塾長」になることは絶対にありえない。そもそも「塾長」というポストが無い。
 もう一つの大坂から神戸に移転した海舟の私塾は、もし強いて塾長を求めるとすれば、それは佐藤与之助である。

(中略)

  十二月九日付で神戸の様子を報じた与之助の書簡がある。塾については「御塾中は昌蔵教示にて文典前編は追々相済候体に相成、外にも至って勉強仕候事に御座候」と書いている。むろん与之助単独の手紙で、龍馬との連名ではない。土佐藩邸に宛てた海舟の要望書には「坂本儀は塾頭申付置、御船手足不申節は乗組せ候儀に候」と書いたようだが、これでは神戸塾の塾頭だったとは決められない。流動的な土佐グループの首領、あるいは江戸赤坂海舟宅に存続する海軍塾の頭という程度のものと感じられる。また龍馬の必要性を強調するためのサービスもあるだろう。いずれにしても九月から十月に掛けての長い江戸滞在、また十二月にも江戸にいるようでは、神戸の塾頭は勤まらない。神戸の塾頭を強いて求めれば、大坂塾(与之助の江戸から大坂への移動と共に成立)に続いてやはり佐藤与之助である。

引用終了---------------------

 付け加えるなら、正式発足後の幕府の神戸海軍操練所に関しては、龍馬は「塾頭」どころか一練習生にさえなっていない。練習生受入れに資格制限が設けられ、龍馬のような浪人は入れないことになったからだ。

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

検証・竜馬伝説
価格:3080円(税込、送料別) (2020/1/1時点)