横濱kabitanの、あれこれ話

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完全聞き書き・要約版(ひょうたんセミナー編)//ラスト

2008年08月26日 05時58分08秒 | NHK人形劇
【昨日の続きだよ♪今日は、特別ゲストに!!】←博士風に

【井上氏、登場】
 井上氏は、セミナー前日に2日前にあった人形劇ライブをニュースで知り今回の事を知り、見に来ていた。
 客席で見ていた処、突然、伊藤氏が話をふった為、
井「(思わぬ展開に仰天しながらも)
 『ひょうたん島』が5年続いたのは、武井氏のおかげ。
 当時25才だった、武井氏は堂々としていた。台本は、いつもギリギリで当初は相方とよくもめていた。それを丸く収める事になったのは、
①2人は同じような子供時代を過ごしていたという、共通点。
②≪チャンプラー(皆、いい)≫という、沖縄(言葉)精神
 言い合いしていると、2人とも悪い処が出てくる。大事な処は主張し合ってもお互いの意見を、
・認め合う
・けなし合わない
・いいモノはいいと、認める
 ≪犬の国≫が話的にきつく、それで作者を変えるという話になった時戦う相手は3人のディレクター(武井氏以外)と定め、団結。
 それからは、文句いわれれば2人で直し、ほめられれば喜び合った。NHKの考査室は『ひょうたん島』にとっては、まさに悪の巣窟。そこで、あーだこーだと台本を塗りつぶしてはつっかえしてくる(内容がNHKらしくない、品がない などで)ので、そこを通すのに色々考えた。
 映画見ては評価し合い、仕事も1話を10分割にして分割(勢い、1本できればそれでOKだった)と、いつも2人でやっていった。
 原稿が出来れば、印刷所に持っていくが時間がないのですぐにガリ刷り(印刷紙に直接書きつける、原始的モノ。書き損じたら、修整液で直せる1960年には学校でもフツウに使われている)される。
 実は、ひょうたん島全員を死者にして復活させる設定にしていたが、それがいつの間にか消えてしまい、全員死にっぱなしに」

【TV放送文化を考える】
武「放送したら台本は捨ててしまい、撮りっぱなし。しかし、40年後の今になってしまったと思った。あの時に、再放送(リメイク)はないだろうと思っていただけに。
 『ひょうたん島』と接する世代が、リメイクで広まった。
 当時のフィルムは、編集には切って銀紙で合わすがすぐにボロボロになってしまうし、10万円(今の単価に直せば、もっとする)という高額なモノだけに許してもくれない。≪撮ったら、そのまま≫という乱暴な話。
 しかし、今は井上氏のような≪考えを持つ≫作家がいない。芸能人ばかり集めて、個人的な話させて済ませてる、
≪技術が進歩して、内容が退化≫
していないか?」

【ひょうたん島が歩んだ、時代】
伊「当時、小6だった自分はあの時代は勿論VHSなんかないから、必死にノートにとって何度も読み返していた。まさに、ノートがVHS代わりだった。
 『ひょうたん島』では、子供達が大人に意見すると大人もちゃんと聞いている。自分の学校生活と、全く反対で憧れた。
 『ひょうたん島』ファンクラブ会長として、今後も何かできるか考えている」
片「一つの時代だった。
 最初は深く思わなかったが、後々、人に言われるようになり深く思うようになった」
中「博士というモノが、血肉になった」
武「放送当時は、皆、
≪意見してガンバレば、国がよくなる≫
と、思っていた時代の産物。
 若かったから、出来た作品だった」

【井上氏から、参加者に向けた2つの話】
①あの頃は
≪TVは撮ったらオシマイ≫
という事で、台本も何もかも捨ててしまう。
 しかし、≪現在≫だけでいいのか?未来も過去もある。VHSで残すべきだった。こんな考えを持ち込んだのはTBS,よくない格言である。
②今の時代、発信技術が発達して何か一つの事をやれば、それがドンドン広まっていく分、逆のイミでは狭くなっている。
 知っている周辺の人ばかりでなく、ドンドン知らない同士で交流していけばお互いの人脈で無限に広まっていく。
 誰かが声をあければ、世界が動く。それも作為持ってやれば、どうにもできる(良くも悪くも)。
【続編は?】
井「相方が亡くなったので、続編は全く考えていない。『ひょうたん島』を動かしていたのは2人、1人で動かしたら相方に顔向けできない」

【セミナーはここでオシマイ】←博士風に


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