◎各開催内容要約
■2001年9月2日-11月11日(第1回展)
「メガ・ウェイブ-新たな総合に向けて」
:第1回横浜トリエンナーレは、パシフィコ横浜展示ホールのほか、当時廃屋となっていた赤レンガ倉庫を展覧会会場として使うなど、横浜らしさを追求。またアジアの芸術家の紹介や分野横断的な作品を提示し、横浜らしい国際展のあり方について探求した。ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルの外壁に全長35mの巨大バッタが出現する展示は、市民に驚きを持って迎えられ35万人の来場者を記録。現代美術が広く一般の目にも触れる機会となった。
■2005年9月28日-12月18日(第2回展)
「アートサーカス-日常からの跳躍」
:主会場となった山下ふ頭の倉庫のほか、山下公園や中華街などにも作品を設置。特定の場に関係するサイトスペシフィックなかかわりを持つ作品のほか、会期中制作が続くワーク・イン・ブログレスや参加型パフォーマンスなど多彩なイベントが繰り広げられ、ライブ感あふれる会場構成と会期中変化し続ける展覧会を実現。「トリエンナーレ・ステーション」の運営を始め、「トリエンナーレ学校」の開講や「トリエンナーレ・スタジオ」の開設など、市民サポーターの参加と交流の機会を拡げ、トリエンナーレ運営に新たな方向性を示した。
■2008年9月13日-11月30日(第3回展)
「タイムクレバス」
:新港ふ頭に新設された会場のほかに、歴史的名勝「三嗘園」も会場となり、臨海地域とは異なる横浜の表情も見せる試みとなった。「時間」の概念を中心に構想され、多様なパフォーマンスのプログラムが組まれた。会期中を通して、プロジェクトやライブのイベントが行われ、会場内のみならず、街頭もパフォーマンスの舞台となり、「展示」にはおさまらない作品や芸術家の活動が提示された。
■2011年8月6日-11月6日(第4回展)
「世界はどこまで知ることができるか?」
:運営の主軸が国際交流基金より横浜市に移り、横浜美術館が初めて主会場のひとつとなる。夏休み期間中に開幕日をずらし、より幅広い観客層に向けて横浜トリエンナーレへの回路が開かれた、科学やり聖では解き明かせない領域に目を向け、開かれた世界との関わり方を示唆する作品を展示。美術館の収集作品も取り入れ、これまでとは異なる趣向で作品を展示した。東日本大震災の影響を受けながら、予定どおり開幕。NPOとも特別連携を組み市内の芸術活動と同時に紹介した。
■横浜トリエンナーレとは?
-横浜で3年に1度行われる現代芸術国際展。これまで、国際的に活躍する芸術家の作品を展示するほか、新進の芸術も広く紹介し、世界最新の現代芸術の動向を展示してきました。
2001年に第1回展を開催。その後回を重ね、2014年には第5回展開催を迎えます。この間、世界の情勢はより流動化し、第4回(2011年)展開催前は東日本大震災が発生するなど、予断を許さない時代の中で、横浜トリエンナーレは世界と日本/社会と個人の関係を見つめ、芸術の社会的な存在意義をより多角的な視点で問い直してきました。
開港以来、さまざまな文化を積極的に受け入れ、それらを交流し、新たな文化を醸成し、そして発信する都市として発展してきた横浜では、2004年に市の政策として創造都市を策定し、文化芸術が持つ力を活かしたまちづくりを推進してきました。横浜トリエンナーレはその主導計画として位置づけられています。
第4回展からは、横浜美術館が主会場のひとつとなり、継続性を視野に入れた新たなスタートを切りました。今後も会期中には、国内外より芸術家や関係者が横浜に集い、豊かな創造性を持つ市民や個性的な活動を展開しているNPOなどの力が結集します。
横浜トリエンナーレは、芸術を通して、まちにひろがり、世界とつながり、横浜のまちづくりに寄与しつつ、新しい価値を世界に発信することを目指します。
■方針
-横浜トリエンナーレは、次の方針に基づき開催されています。
◎使命
:創造都市横浜の資源を活用し、芸術を通して世界に貢献し、横浜のまちづくりにも寄与する。
◎目的
・芸術からひろがる
・世界とつながる
・まちにひろがる
◎指針
・見る
・つなぐ・そだつ
■沿革
・1997年-外務省が国際美術展の定期開催方針を発表
・1999年-横浜トリエンナーレ組織委員会(国際交流基金/横浜市/NHK/朝日新聞社)設立
・2001年-横浜トリエンナーレ2001「メガ・ウェーブ-新たな総合に向けて」開催
・2004年-横浜市が創造都市政策を策定。横浜トリエンナーレを主導計画に位置づける。
・2005年-横浜トリエンナーレ2005「アートサーカス-日常からの跳躍」開催
・2008年-横浜トリエンナーレ2008「タイムクレバス」開催
・2010年-横浜トリエンナーレ組織委員会の主催者が横浜市/NHK/朝日新聞社の3者となる
・2011年-文化庁の「国際芸術フェスティバル支援事業」となる。ヨコハマトリエンナーレ2011「世界はどこまで知ることができるか?」開催
・2012年-横浜トリエンナーレ組織委員会の主催者に(公財)横浜市芸術文化振興財団が加える
8日、横浜美術館・子どものアトリエで-
《豪州、「現代美術と子どもをつなぐキッズAPT(アジア・パシフィック・トリエンナーレ)」》
の、豪州からの講師サイモン・ライン氏のお話。
1993年から行われたAPTは年々来館者が増え、それにつれて子供の数も増えていった。
(APTが)国際展として子供を重要し、それらを組込み芸術家にもそれに合わせて作品を造ってもらうようになった。
子供達は、APTを通して州立美術館を知り、自分達の自慢になっていく。
過去、室内に中国人作家による竹製の巨大橋がかけられ、子供達が大喜び(それを見て危ないという人がいるが落ちたのは大人1人だけ。kabitan談:その解説前にスクリーンで見せられたががっしりしていて立派な橋で驚いた)。彼が研修会で、来館者に橋の模型を自作で作ってもらった。
アフガン人作家による、自国の生活を紹介するもの。
オーストラリア原住民アボリジニ伝統芸術が、水玉模様と思い込まれているのを逆利用して画の上に重ねて、穴の所を動かして画を見ていく作品を造った。
(APTは)芸術家がやりたいのを、子供に見せて反応みながら完成させていく。
ヨコトリでは、
《みる・そだてる・つながる》
で、《そだてる》方で、子供学芸員を継続的に考えている。
横浜美術館も、子供学校を20年以上続けている-今年度も鑑賞プログラムで、浮世絵展にて子供に浮世絵が出来上がりを見せ、鑑賞。
夏休みには、美術教師やクラブに館内見学してもらった。
■Q&A
Q美術館と学校や興味ない子への対応
A州立美術館では、小中学生教員体験ある常勤スタッフ同士が交換して刺激を与えあっている。
今準備しているのは、子供達が遊べる1フロア分の空間で、そこには興味合った体験広場や当館向けゲームプログラムが組み込まれたTVゲームも置いて、どの子でも楽しめるようにしている。その施設実用には、15万オーケストラドル-当館予算配分は、活動・書物・職員給料で、それ以外は地元民間企業の寄付から。
子供を扱うので、教師資格所有・勉強中の芸術家に絞っている-芸術家も勉強になるから。
現在、白人によって、植民地化・強制移民を強いられたアボリジニの歴史を作品にしているアボリジニ人作家と共同で原住民文化と歴史を授業に入れていく。4種類のオーストラリアカンガルーを主役に、住み家を鳥に追われ最後には鳥と共存するまで話を造り、4匹の個性も読み取る。アボリジニ人学校で実施し、文化的に問題ないが調査中。
Q全無料施設での活動評価
A難しいのはロンドンの会社に頼んでいる。自らもやっている。
ロンドンと共同で、アンケート作成・現地調査をまとめている。
Qロンドンの会社を選んだ理由
A資料使い回しでなく個別に造っている面のと、当館所有クィーンズ州文化教育市策をふまえた、全方面的やり方をしているから。
Q作家選択・関わり方
A子供だからといって、いかにも子供向けに易しくするのでなく、難しいのも子供は受け取れる。
8日、横浜美術館・子どものアトリエであった-
《豪州発、国際展における次世代教育普及プログラムの事例紹介「現代美術と子どもをつなぐキッズAPT(アジア・パシフィック・トリエンナーレ)」》
、豪州クィーンズ州立美術館でキッズAPT実行担当者サイモン・ライト氏が来日講義-話が、テーマから周辺活動まで及び少々まとまりないものになったので、要約しました。
逢坂恵理子(横浜美術館長+ヨコトリ組織委員長)氏は、海外の国際展で沢山の子供が楽しくみているのを見て、日本の受け入れがまだまだと感じたそうです。
サイモン氏は、今は美術館には子供まで来るようになり、見たのをネット配信する人も出てきた-今まで、受け身ばかりだったのが発信する人へと観客が変りつつある。展覧会が人をひきつけるというのも気がついた。定期的にやっているAPTは、アジアとオセアニアの代表的現代美術展で観客が東洋文化といった多文化体験-現在、子供が重要な位置付けられ、それに合わせたものを行っている。
子供に対しての活動で物議を呼んでいる-
《誰に対しての芸術か?》
当館では、1990年代から子供主体にしたが当時欧米では殆ど行われていなかったが、90年代後半では《教育は二の次》という美術館界中では、当館が中心核となった。
子供向け活動は、上記のような美術館的思想自体変えるべきでスタッフ全員で一丸となって動いた-現代美術ギャラリー開館から、展示には子供も見れるよう一つ物として扱っている。
子供には、《能動的活動・体験》《現代美術から、文化の多様性と関連性を知る》《芸術家を通して、専門的なものから世界の関わりを知る》
をする中、普遍的ものとしては
《作品と触れる・造る》《楽しむ》《情報読み取り能力向上》《体験から、文化や思想を教える》
教えるのと自由な発想のバランスを考える-《芸術家の作品制作での考え》《芸術家本人について》《触れ合って個人的もの》
をやっている。
それが大きな変化となり、子供向けの作品解説文が大人からも好評。でも、一番見に来てくれるのは子供で学校で見に来て良かったので、親を連れて来てくれる。
子供向け活動前に、まず先生から体験してもらい内容理解してもらう。
子供は、素直なので面白くないとはっきり言う。
6日、ヨコハマ創造都市センター(YCC)であったもので、ヨコトリ芸術監督・森村泰昌氏の、
《「ヨコトリ物語」が始まった!さぁ、たいへん!》から-
■Q&A
Q作品選択方法
A(今回のヨコトリでは)反省の中で造ったものは表現者としては大事で、自信過剰で作品自体前に出すぎるのは良くない。そういうのは、展覧会全体にも良くない。
Qサポーターの可能性
A全方面的-ヨコトリ舞台裏公開してもいいと思う。運営本部で話されているのを記録書にまとめ、発表してもいい-しっかりとヨコトリに深く関わりたい人に向けて、そのまま見せ考えてもらう。こうした公開は時期を選んで過程を見てもらう。
互いに共鳴してもらい、つながっていたい。
Q横浜の魅力は?
Aヨコトリ会場周辺は都会でもある中間的に活用できる-自然や地域史あるのも大事だがそれにとらえわれてしまう分横浜は自由な空気で規制もない。何でもやれる、歴史を重ねられていける。
Q子供に話すには?
A子供が美術みるのは大事-子供ならではの感性、大人でも実物見て感じる。
《わからないものはやはりわからない》-(それでも)記憶になって、その後の鑑賞につながればしめたもの。
子供時分の初体験が一番-とにかく、見てもらう。ヒントはいいけれど、大人な的目線の(教育的?)説明はよくないかも。
昨日、ヨコハマ創造都市センター(YCC)であったもので、ヨコトリ芸術監督・森村泰昌氏の、
《「ヨコトリ物語」が始まった!さぁ、たいへん!》から-
夏に向けて、ヨコトリ2014での方向性を打合せ中-芸術家という立ち位置から、逆の立場になって困惑している。
今回、展示や鑑賞について-森ビルでの日本人によるワルセル・デュシャン氏という芸術家の、売られているトイレに偽名のサインをした《泉》について語ったのを軸に考えてみる。
ワルセル氏は、1917年米国で《泉》を出品しようとして拒否された-これについては、70年にブラジル人詩人が20世紀を代表する芸術家として、ピカソと共に彼の名を挙げ、《泉》によって有名になったと、称賛。
《泉》出品拒否事件の、4年前(13年)でも米国兵器庫をギャラリーにして米国を美術大国となった展覧会でも油絵で階段をおりる女性のを出したら「下品すぎる」と批評された。
森ビルでの話によれば、この13年は、カフカが「火夫」を第一部に連作「失踪者」を書いた(この題名は、カフカ本人でなく後々付けられたものである)。その他、表現・論壇界でも大きく発展しフォードのベルトコンベアによる大量生産方法も生まれた。19世紀と20世紀のきれつの時代と、森ビルでは言っている。
それから一世紀たった今、丁度、20世紀から21世紀のきれつが発生していて、そこにヨコトリが立つべき。
ワルセル氏の《泉》は、一般的作品のように作者が思いを込めて造ったのを読み手が読みとるものでなく、(日常的なものが)ただ置かれているだけ-これに対しては、出品先では拒否されそこから色々と言われ続けられている-これは、《オープンテキスト≠白紙のノート》で見る手が好きなように意見して、造り上げていく-モナリザも全くこうという気配がなく、後世の人達がそれを読みとろうとして、作品化した。
《泉》には、作品化への仕掛けがあった-出品拒否されそのまま舞台裏に置かれてしまう。展覧会終了後主催側に捨てられたと思われていた《泉》が、写真として関連小冊子に載った-これは、ワルセル氏が引き取った編集写真家にとってもらった。その後、そのまま写真家の所に置かれたが、本当に消えた。話としてはその写真家というのが、彼の性格上それはないという事なので、意図的に消されたようだ。60年代になって、ワルセル氏本人が《泉》のコピーを作り著名美術館に売られた。
まさに、大かかりな《泉》の作品化への仕掛け-《中身のない≠オープンテキスト》として、見る手が造り上げていく。
NYの近代美術館は入口から出口まで順序たてられ、歴史勉強的に見る手が納得される。しかし、人は偶発的で見てそこから気が向くまま見る-欧米でははっきりすぎて、一方的美術史(西洋史にそったものが殆ど)。
《泉》から表現は何でもありと思われるが、実際、大量生産や争いといった時代性に反響され、作品となる。
ここから-
1)ヨコトリは、20世紀から21世紀のきれつの間で立つべき
2)時代に反響したもの
3)娯楽でなく
4)一方的でない、全方向性
5)型にとらわれる危険性-一度忘れて、そこで残ったのを置く。その繰り返しながら、ぼやけたのが深みあるものになっていく。
昨日、高架下スタジオDで行われた《まちを航海する「LOGBOOK横浜」》-主に、黄金町周辺を歩き自分なりの《航海日誌》を書いていくものです。
ここでは、主催者である福岡県北九州市枝光商店街を拠点にして活動する演出家・市原幹也氏(活動内容は、http://blog.goo.ne.jp/goo20030407/e/468cef3c05be52b63ab7730f8186ed78
←にあります)と、このLOGBOOKを考案なされた野村政之氏、お二人の思いを、まとめました。
野村氏(プログラム共同開発/ドラマトゥルク/制作者)は、東京・横浜で活動していて市原氏の劇場に3日間滞在時「何しようか」という所でLOGBOOKに発展-市原邸に泊めてもらった時、市原氏は地域密着で自分はよそから来て用意されたのを受けとっているだけなので、お世話になったお礼と考えて-誰でも参加して楽しめるもの、枝光は変わり消えつつある・・・そうした街の記憶・奥行きをよその人でも感じとれ人に渡して記憶再生されていく-それをひとつにまとめる・・・記憶だけの枝光を目線による記憶として、誰でも体験していく。
《遊びの中の記憶》-新しい人の記憶をつけていく。
-枝光は近代日本を強くした鉄の街だったが、産業さびれ高齢化が進む。そして、新しいのも古いのも興味なくし地元の人に変って、よそからの目線から掘り下げそこの素晴らしさが発掘され地元の誇りになる。
こうしたLOGBOOK活動を地元の人が継続していて街の記憶を貯蓄していって欲しい。
今月23日、ヨコハマ創造都市センター(YCC)での横浜トリエンナーレ学校にて購入した「(北九州)枝光本町商店街アイアンシアター活動成果報告2009-2011」から-
■北九州お手軽劇場アイアンシアター運営実行委員会について
◎設立委員会について
-福岡県北九州市八幡東区枝光地区において、商店街空店舗を再利用した地域共同体拠点の再構築事業を行います。滞在芸術家事業を基盤とした、地域密着型の芸術空間を拠点に、地域における舞台芸術に新たな思想と価値を創造するを使命としています。また、国内外の芸術家の野心的な創造を支援すると同時に、彼らの表現手法を、創作/交流体験プログラムとして地域共同体に開示/共有しています。地域と国際の視点から舞台芸術の未来を見据えます。
◎運営理念
・ひとづくり×ものづくり=創造性豊かな人間形成/品質の高い芸術作品の創出
・ものづくり×まちづくり=地域活性化/観光振興
・まちづくり×ひとづくり=地域文化の振興、及び継承
⇒3つの分野を更に密接にして行くことで拡大化を担う、《新しい公共財の創出》
◎主な活動
・枝光本町商店街アイアンシアター管理運営
・「えだみつ演劇フェスティバル」開催
・居住仲間の公演制作
・日韓交流事業
・アウトリーチ事業
・全国地域ネットワーク構築事業
■活動の目的
1)ものづくり:舞台芸術の新しい価値をつくる
◎継承する-次世代へ引き継ぐことを視野に入れながら記憶に残る優れた舞台芸術作品をつくります。
◎協働する-市民が参加できる作品づくりの機会を積極的につくります。
2)ひとづくり・未来をきりひらく人材をつくる
◎体験する-子供から体験できる文化交流事業(研修会など)を実施し、新しい思考を持った市民を輩出します。
◎共有する-市民が様々な情報や意見を交換/共有できる場をつくり、自由で開かれた意識を育てます。
3)まちづくり:共同性同士のネットワークをつくる
◎交流する-県外や国外の芸術家を地域に滞在させながら、芸術文化交流の交差点として賑わいを創造します。
◎発見する-文化活動を通じ様々な共同体と対話し、劇場の可能性を模索しながら、新たな使命を発見し続けます。
■枝光本町商店街アイアンシアターについて
◎立地:九州の玄関口である北九州市の中でも、最も少子高齢化が進む八幡東区にあります。
◎建物:商店街の中の空店舗(旧銀行)を再利用しています。
◎運営:街の有志団体・北九州お手軽劇場アイアンシアター運営実行委員会が運営しています。芸術監督を迎え入れ、運営方針決定や予算執行を一任しています。
◎資金:地元の企業と住民の寄付・来場者の基金により成り立っています。公演事業は助成金支援により取り組んでいます。
■アイアンシアターの経緯
2009年5月:
◎施設提供「北九州お手軽劇場」-臨時劇場として開館した公演の成功をうけて、商店街組合員や枝光近隣の企業が中心となり、“にぎわい作り”をテーマに劇場づくりを始める。
◎技術提供「劇団のこされ劇場」-北九州芸術劇場での公演を続けていたが、市内の劇場の減少を受け、新たな活動拠点の形成・演劇の公共性を模索し始める。
同年9月:
◎地域密着型えんげきプロジェクト-北九州お手軽劇場と劇団のこされ劇場による枝光本町商店街アイアンシアター共同運営開始。
2010年:
◎地域と演劇の交差点をつくる
・のこされ劇場は運営から離れ、アイアンシアター居住企業として協力。
・北九州の演出家・市原幹也を劇場監督として迎え、運営指揮を一任する。
・「北九州お手軽劇場アイアンシアター運営実行委員会設置・運営開始。
・全国5つの地域劇団を集めた「えだみつ演劇フェスティバル2010」開催。
2011年:
◎演劇が住む街・枝光
・韓国の劇場との共同関係を締結。日韓交流事業を開始する。
・全国6つの地域劇団が枝光に滞在した「えだみつ演劇フェスティバル2011」開催
今月23日ヨコハマ創造都市センター(YCC)であった、《横浜を知ろう、まちを歩いてみよう~まちを航海する研修会「LOGBOOK横浜」》
主催者:市原幹也・演出家
■LOGBOOKについて
LOGBOOKとは《航海日誌》という意味で、その意味通りに船長(ツアーガイド)と共に航海(まちあるき)しながら日誌(A4型の白紙)を書き、他の人がその日誌頼りに航海して日記を書いていく・・・
航海日誌には、
・今日あって明日ない
・10年後もあって欲しい
・見ていて思い出と重なるもの
を書き入れ、そこから他の人と同じ道筋通れるように案内文を自己流に書く。
他人に渡りその人がそれを見て、仲間と話したり追体験しようとした時、目線や空間の気持ち良さ・悪さを感じられる-演劇に通じるものがある。前の書き手の背景や感情も感じられ、地元の人も若いよその人からの目線から新発見につながる。
Q&A
-劇場イベントへの、地元商店会との問題
「最初はよそから沢山来るのに全く慣れていない人も居て、邪魔だとなじっていたが今ではすっかり応援側に」
-広報活動
「東京がアンテナ鋭そうだからと思い折り込みチラシを配布したり、地元では市民センターから回覧板も利用」
-劇場開業後の、シャッター通りの変化
「こちらの力でないと思うけど、商店会の人達からは有難うと言われる-地元人によって食べ物屋が3店開業」
◎LOGBOOK
-参加者の年齢幅
「かなりの高齢者から、高校3年生のカップルまで」
-集まった《航海日誌》は?
「行なった所ごとまとめていて、祭りなのでも貸し出しして帰って来たのをまた回していく」
-どのようなやり方
「拠点(北九州の枝光(えだみつ)本町商店街一角にある劇場)で、話し合いながら」
-1回の航海(まちあるき)はどの位
「3時間をメドに」
-場所によってやり易いのか
「航海先の(町の)地形に合わせたやり方を用意している。やる前には、現地調査して、時間などを決めていく」
-子供や外国人もできる?
「子供ならできるけど、外国人は言葉が壁」
-北九州での他の活動は
「環境や図書館施設や、高齢者活性などで共同している」
-横浜の印象は
「2005年のトリエンナーレ見学からその開催時には来ていたが、おしゃれで芸術と市民がとけこんでいてうらやましい」
《横浜を知ろう、まちを歩いてみよう~まちを航海する研修会「LOGBOOK横浜」》
主催者:市原幹也・演出家
■その前に
-自分が活動拠点にしているのは北九州の枝光(えだみつ)本町商店会一角にあるアイアンシアター-そこに落ちつくまでに、2003~09年の間北九州芸術劇場で演劇作品制作(劇団「のこされ劇場」)の傍ら、子供を招いて裏方さんの仕事場や舞台裏を見せたり脚本から演出までやらせて芝居うったりした。2009年になって、北九州では劇場が働いている所しかなく地元の演劇人達は活躍しにくかった-そのため、色々とあたったかどこも空振りだったが、丁度高齢化とシャッター通りで悩んでいた枝光商店街にいい物件あって行ってみるとすぐに鍵を渡された。実は、貸し手もいなかった有様で商店街も製鉄所がなくなって衰退し切っていた所に《若い劇団がやってきた》と喜んでいた。
実際、借りた所は元銀行で内部ボロボロだったので皆で改修しようとしても何もなかったのを、工務店主が預けるといいながら道具一式を電気屋さんも「スタントなどはうちの店で」とストーブを、と置いていってくれた。居酒屋で資金難の話をしていると、そこのお客皆がお金をくれたりした。
こうした支援のおかげで、今の拠点ができあがった。
運営も、チケット代以外にも個人から応援団までの寄付によって行なわれています-これは、商店会の人々が「どうにか街をよみがえらせたい」という強い期待感によるもの。劇も、《見るだけでなく老若男女から外国人も参加できる》ものとしている。
最近でも、参加韓国人劇団が地元の子と遊んでいた。
子供は無料で、イベント参加劇団は滞在が前提-例えば、
《地域の歴史・資源を再発見する創作活動》
滞在女性演出家(?)がおかみさん1人で60年以上もモナカ菓子を造って今にもやめようとしているのを見て、「それはさびしい」とおかみさんに造り方を学び子供達に芝居でやらせた。子供達は近くにこんなおいしいのがあるとは知らず、最後はおかみさんの所まで行って見せた。それからは、子供達が商店街に遊びに来るようになりおかみさんも子供達が買いに来るのでがんばるようになった。
イベントによそから若い人達が来るようになり、商店街の味にはまるの見て地元の人達は「何でうけるんだろう」と驚きながらも、浮き立っている。
~韓国の国際展を知ろう!~
先週の水曜、YCCであった座学のまとめです。
■光州ビエンナーレ、の続き
『しかし、女性6人で展覧会監修者をやってまとめる人もなく、社会/歴史背景すら違う同志でやったため、予算も先にまとめられる年配者から手をつけ若い人が遅れて使えない事態になったり、場所も前あったのを再利用したせいで照明や音声といった配置に制限かかり、昨今多くなった映像作品の機種設置に専門工が必要になった分、資金渋ったため素人工を雇ってしまい後に来た小数の専門工の取り合いになり、作家が勝手に使うのでますます時間的にきつくなった。≪船頭多し船山のぼる≫有様になりながらも何とか開催-作品は、韓国独裁時代だった70年代に近代か目指して地元人の家を強制的に改修してしまったのを人々がその後どうやっていったが写真で追っていくもの-日本人ので、第2次大戦時日本軍がアジア占領各地に社(やしろ)を建てたのが後に取り壊されたがその痕跡が残っているのでそれを写真におさめ作品に-彼は離れた土地にかけられた≪橋≫を撮った作品で新人賞取っている。欧州人の作家で中世朝鮮時代の星座を作品にしたり使われていない建物や、商店にも作品が展示された』
■片岡さんとQ&A
進行:帆足亜紀氏(ヨコトリ組織委員会事務局長)
帆「光州開催時、大統領候補3人も来る大きなものだった」
Q,観客の反応
A「参加型多く、良かった」
Q、6人の女性合同監修者の共同テーマは?
A「政治的背景・問題を中心にしているが、光州によっていた感が強く感じた」
帆「版画による≪光州事件≫を見て心を打ったが、知らない世代には受け継がれているか?」
片「民主化の世代との違いが強いみたい」
Q,日韓問題の影響は?
A「それについては、一般の人々は≪政治家がやっている事≫と気にしていない。町が光州事件を内包している-よそものである外国人監修者が良く理解せずそうしたのを取り扱っていいのか、と思った。地元の方では、それを超えて欲しいと言っているが、外国人としての立ち居地に悩む」
Q、この体験を今後につなぐとすれば
A「≪6人で監督≫は初めてだし、大変だったがいい体験。
前のようにまとまったものより、いいかもしれない。≪全部つなぐ-まとめる≫というのも疑問に感じる」
帆「事務局としても短時間で共有・一つに動くかで考えされる」
片「責任が6分になってしまい、積極性がないというのが問題。今光州はアジアの拠点になろうと、それは政治的期待と交流・交通の便の悪さがある」
~韓国の国際展を知ろう!~
先週の水曜、YCCであった座学のまとめです。
■光州ビエンナーレ
講師:片岡真美氏(ビエンナーレ共同監修・森美術館学芸員長)
『携わったのが光州なのでそれを中心に-韓国でも盛んで光州ほか、ソウルの「メディアシティ」・釜山のが世界的に知られている国際展。
1995年設立-光州は80年に起こった民衆化運動を軍が弾圧した「光州事件」の地で、民衆化された時それを忘れないようにと開催されるようになった-アジア地域での国際展の中では一番古い。
資金は、国が光州を民衆化の聖地としてみていて多く出しているので、地元自治体予算でも出来る。
【民衆化≠現代芸術】というイメージでこうした事につながっているが、「光州事件」も背景にある。
韓国全人口は約4800万人でその内ソウル(特別区)970万人/光州46万人/釜山340万人が三大としになる。光州への予算が一番多く使われ、ソウルがその7分の1程-実際、日常的に中高学生が学校行事で来るように韓国人誰でも一度は訪れる民衆化の聖地でもある。
開催当初は、≪とにかく世界中の作家を呼ぼう≫と世界各地から集まった美術監修者が自国から連れてきて、それぞれ分けてやった。2000年からは、監修者名も紹介されるようになる(日本人も居たようです)。2002年は、アジアの若手を中心に31ヶ国300近くの作家を紹介-ここで国際展として世界的に評価された。2004年には、芸術とはからみのない一般の人と芸術家を合わせて談話させたが無理があったと賛美両論があったが、システムとしては話題になった。2006年には、初めて女性を監修者として招き非西洋的記憶を喚起させた作品を造る作家も居た点で世界的に注目された。ここで1年間話題になった展覧会から参加作家を選んで集めたので内容にバラつきが強かった。2010年は、ここで著名な欧州人を監修者として招き国際展と位置付けた。これは彼一人ですべて行ったので歩ける範囲で同一性ある内容で高い評価を受ける。今年は6人全員女性で-それに合わせて、≪女性目線で世界を見る≫という難解なテーマが与えられた。地域も年齢も違う上に、おい立ちや考えも違う自分の考えに固執する人も何人がいてまとまらない。80年代生まれの人は時代を再評価したい姿勢がある。それでも一つの空間でそれぞれ違う問題が共有できるかをテーマに固める。しかし、地元人は欧州人の監修者で世界的に有名になった分、自分達のものでなくなってきたので見に行かなくなったと言うので、特に地元作家を多く招いた。自分は、≪つかの間の出会い≫をテーマに≪変化する中何を継承し構築されたか≫を問いかけるものとした。世の中、何でも市場価値で見るのがつかの間の存在自体価値があるものでそれを問いかけたい-
(続く)
~アジアの近現代美術を学ぼう~
3)質疑応答
Q-展示作品で?
A-展示作品は、よく「仮説的に置かれたモノ」と訳され一時期「アジア美術」とも言われていたが、どこでもやっている事。
「アジアは身近なモノで表現している」と、ある作家が言っている-背景としては、「展示場所がないので町中で置く/撤去前提」があるが、「誰でも好きなように作品見られるようにしたい」という作家の思いがある。しかし、シンガポールはそれを出来なくしてしまった。
Q-東南アジアでは独自なモノがあるのでは?
A-文化は外部からの影響によって変化し、そこから創造的なモノが造られる。
Q-伝統的独自性
A-「伝統的」とは、近代-外部の影響で造られたモノと再発見のどれか、でも殆どは前者の「鑑賞・工芸モノ」。でも、伝統文化を表現に使っている作家もいる。
Q-日本占領時代とのつながり
A-日本人という事で会ってくれないという事もあったが、調査・研究しているのを知ってくれると認めてくれる?
Q-東南アジア作品見られる所は?
A-収集・企画の多さでは福岡美術館、現代作品と作家に直接触れられる身近なのでは黄金町バザール2012。
~OPEN YOKOHAMA2012~
◎期間:9/7-11/11
(ガイドブックから、抜粋)
■創造的ヨコハマに会いにいきませんか?
-期間中は街じゅうのいたる所で創造的な魅力あふれるイベントが目白押しです。
足の向くまま、ココロのままに訪ね歩けば「横浜って、なんだか楽しい」って、きっと体感できるはず。
■そぞろ歩けば、発見がきっとある!!「創造都市・ヨコハマ」
-横浜は、幕末の開港以来150年あまりの間に、独自の発展を遂げてきた。行き交う船でにぎわう港の風景/中華街に代表される豊かな食文化/懐古的異国情緒を感じさせる街並み-そしていま、新たな視点から横浜を見直してその魅力に光を当てる「創造都市」計画が進行中。港と共に育ててきた独自の歴史や文化に、芸術の持つ「創造性」を生かし、新しい価値を生み出し続ける都市の姿。
これが横浜の目指す都市像。
歴史的建造物を活用して、驚きあふれる芸術拠点を創りだし、さまざまな分野で活躍する芸術家を支援したり、街全体を巻き込んで、街を魅力的に進化させていくなど、ここでもあそこでもユニークな取り組みを行っている。芸術と人/古きと新しき、そして未来をつなぐ・・・こんな「創造都市・横浜」の要がOPEN YOKOHAMAで、きっと見つかるはず。
■象の鼻テラス
《文化や芸術で新しい港町「横浜」を創造する》
-ここ象の鼻テラスでは、芸術/舞踏/音楽など、各分野の文化プログラムが開催されている。まず気になる“象の鼻”という名称。横浜開港時に造られた2本の波止場が、象の鼻の形に似ていたことから呼ばれるようになったとか。ちなみにこの場所は、1854年にペリー提督が2度目の来日で始めて横浜に上陸した場所でもある。そんな歴史をふまえて、「文化交易をキーワードに、人々や文化が交流する場所にしたい」と芸術監督の岡田勉さん。
例えば美術家の小山田徹さんが発案した「聞き耳ワールド」は、国内外の多彩な案内人が実際に街を歩いて交わした会話を聞きながらお散歩ができるという、今までにないお散歩型音声ガイド。また、昨年からはじまった「ポート・ジャーニー・プロジェクト」は、横浜と世界の港町を芸術を投じて持続的な相互交流を図ろうというもの。この夏はメルボルン出身の作家ガ滞在し、日本で始めての個展を開催した。
今後も様々なイベントの拠点となるので、情報収集や休憩に立ち寄りたい。
(続く)
~アジアの近現代美術を学ぼう~
1)東南アジア近代美術史、の続き
■1930年代
◎シンガポール/マレーシア
中国帰りの人々により自国芸術を造っていったが、第2次大戦日本占領時において多くの作家の命が日本軍によって奪われた。
◎タイ
日本同様に独立を守り、国主導で近代日本に見習ってお雇い外国人を多く招き1925年に美学校も設立した-そこで彫刻家中心に芸術家を育成し、タイの近代美術はその卒業生によって生み出された。授業はフランス式で、教師の作品が地元作家に影響与えた。
伝統的作風に見える、水彩絵の具で布に描く技法は1930年代1人の作家によって確立したもの。
絵の具が手に入りにくかった時期、身近にあったうるしで描いていたが逆に素晴らしい作品を生み出す事に。
■1940年代
第2次大戦時日本軍によって占領された東南アジアだったが、各地の軍の対応によって事情は様々-当時オランダ領だったジャワ島では宣伝としての芸術が重要視され、コンクールや作家協会への強制入会がなされた。
日本の新聞各社も雑誌を出版し、ある雑誌では写真を沢山使っての作家紹介し、展覧会告知もなされていた-子供時分にそれ尾を呼んで作家を目指すきっかけになった現地作家は「美術専門誌がなかった時代、読んでいた本が一番そうした傾向が強かった」と言っていた。
シンガポールは先に書いて事以外にも美学校も閉講されたが、その反面インドネシアはそうしたものがなく日本によって作られた-3年間だけだったが、アジア近代美術史にとっては大きな影響を与えた。
■1950年代以降
日本敗戦後-60年代にやっと独立し民族芸術を目指す。
植民地支配からの独立戦争・生の生活を中心に「独立国としての新たな一歩」をテーマにした作品が描かれるようになった。
それに自国性を求むには他民族なアジア、自国民意識を持つ必要性が芸術にも強く出ている。
■1990年代前後
その反面、「アジア的イメージ」を追及する作品も出てきた。
1990年代シンガポール人作家が自国の中華文化を批判する-漢方薬のためにサイが乱獲されている-作品を作る。
1980年末から内面的でメッセージ性を持った作品が増えた。
2)まとめ
1995年、タイ人作家ナウィン氏が車の渋滞が激しいバンコクでタクシーに作品が飾り、偶然乗り合わせた客が渋滞の間に運転手に説明してもらうという、趣向の作品展をやった-これは「身近に芸術を」と考えたもの。
後に日本人と結婚し日本-そこでタイ人としてはマンション暮らしが珍しくそこでつながりの少ない高齢化世界を見て、会話を通して若者と年配者をつなぐ作品を造りそこから共同体や人々が参加できる作品を造るようになった(ヨコトリにも2001・05年に参加)。
(続く)
~アジアの近現代美術を学ぼう~
講師:後小路雅弘氏(九州大学大学院科学研究院教授)
《はじめに》
大学卒業まもなく、福岡美術館に就職したてに「アジアの現代美術を学ぶように」と言われ、1978年12月にインドネシアのジャガルダに。
大学生時代、欧米のを勉強していてアジアは全く専門外だった(日本の大学全体がこうした傾向で今も続いているそうです)。急な海外出張した理由は、2年後にある「アジア現代美術展Ⅱ」の準備のためだった。
5年ごと、展覧会に参加している内に重役になり、今の職に。
■「アジア」とは・・・
最初、「欧米より進んでいない」と思っていた。
西洋世界では19世紀では「空想的世界」と見られ、当時は女性が肌を露出する絵はご法度なのに東洋-特にアラビア-女性に対しては放任-野生児的見方されていたようので、一種空想ものとしても扱われていたようだ。
1)東南アジア近代美術史
■1930年代
植民地化の影響が根強くあって、フィリピンではキリスト教定着のために聖人像や教会装飾を地元で製作したり美学校を作りそこで西洋技法を教えていた-富裕像だと、支配国に留学しに行っていた-1933年では、米国の植民地となり欧米観光客のイメージに合わせた田園風景や自然児的人物画をおみやげ的に制作されていた。
◎インドネシア
オランダ領だったジャガルダも、観光客向絵画が造られていた。
しかし、そうした「西洋人が思い浮べる東洋像」でなく「ありのままの姿」を描こうと、一人の現地作家が若者達に呼びかけ「インドネシア画家協会」を結成。
◎フィリピン
米国帰りの作家が今までの牧歌的だった女性像を力強く描き、1920年代には近代化し都市化進む国の様子も表現した。
他の作家でも、「聖母像」など宗教画を全て自国人と風景に置きかえて描いたがそれが物議となる-それに対して、描き手は「自国人で身近な人にしていいのではないか」と反論。
(続く)