第十話では、第65代天皇花山天皇が、藤原兼家の策略により、出家して、退位する様子がえがかれています。
969年、父冷泉帝の弟で叔父である守平親王の即位(円融天皇)とともに皇太子になり、984年、同帝の譲位を受けて即位。
生後10か月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父藤原伊尹の威光によるもの。
17歳で即位時には、すでに伊尹はなくなっており、有力な外戚を持たなかったことは、2年足らずの在位という結果を招いた。=(ウィキペディアより参照)
花山天皇時代は、外叔父藤原義懐が実権を握っており、荘園整理令の発布など革新的な政治を行った。
革新的な政策は関白である藤原頼忠らとの確執を招いた。
さらに皇太子懐仁親王の外祖父である右大臣藤原兼家も花山天皇の早期退位を願っていた。
花山天皇に気に入られた、藤原為光の娘、藤原よし子が入内し、懐妊するも、
17歳で死去。
これにショックを受けた花山天皇は「出家して,よし子の供養をしたい。」
と、言い始める。
さらに「大鏡」では、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために、花山天皇退位の陰謀をめぐらしたことを伝えている。
このくだりが大河ドラマ「光る君へ」で第十話の中心となって、ドラマ化されていました。この事件は「寛和の変」とも称されています。
出家した花山天皇は、上皇となり、播磨国書写山の圓教に入り、やがて比叡山延暦寺に登って、法皇となったのちには、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三か所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津の国の中山寺(兵庫県宝塚市)で、この宝印を 探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し、修行に勤めたという。
この花山法皇の観音巡礼が「西国三十三所巡礼」として、現在でも継承されており、
各霊場で詠んだ御製の和歌が「御詠歌」となっています。
このくだりは、西日本ではとくに有名で知られています。
宝塚市(摂津の国)にある中山寺
御詠歌 第二十四番 紫雲山 中山寺
野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後の世のため
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