ウェザーコック風見鶏(VOICE FROM KOBE)

風の向くまま、気の向くままに……

阪神淡路大震災の記憶 =その5=

2007-01-19 12:53:30 | 阪神淡路大震災/震災関連
 1995年1月23日、地震後の初出勤。
 出社しても、それほど仕事に傾注できるわけではなく、周辺への挨拶、地震の話題でもちきりという状況。その際に、通勤は可能であるものの自宅に帰ると風呂が焚けないため、風呂道具持参でリュックサックで通勤し、退社時大阪市内の銭湯で一風呂浴びてから帰宅しているという話がそこかしこから聞こえてきた。

 午後3時には、帰りの交通の便が気にかかるため、早々に退社させてもらった。朝、バスで西宮に出たものの、帰りも同様と考え、六甲山北側を経由して帰ることとし、JRで三田に出て、神鉄で谷上に抜け、谷上から地下鉄で1区間であるが、新神戸に出てそこから自宅まで歩いた。
 翌日からは、早速風呂道具を整え、リュックで通勤し、家族には申し訳ないが大阪で銭湯に使って帰宅するという期間が3月初旬まで続いた。
 土曜、日曜日には家族を連れ出し、六甲北側のゴルフ場の開放されている風呂に入ったり、フルーツフラワーパークの風呂に行ったり、家族にゆっくりと風呂に浸かってもらうようにした。

 交通インフラは、1月23日を起点に少しづつ復旧の方向に向かっていった。
 途中経過、例えば、王子公園駅から御影まで阪急線に乗り、御影からJR住吉に向かい、住吉から大阪に出るような流れも体験し、それ以前にフェリーで神戸港から大阪天保山に抜け、そこから会社に出勤するという体験もした。
 交通手段が一通り復旧し、通常のルートを使い出勤できるようになったのは、5月に入ってからだったように記憶している。

 これは、神戸に居を構える、ごく普通の人たちが体験してきていることで、「命は助かっている」ため、失われた6,000を上回る人たちに比べれば、「天と地」の差があることになる。
 幸いにして、私も、ごく一部家屋の損傷は出たものの、家族は全て無事、家内の実家も全員無事ということで、まだ恵まれていたことになる。
 いずれにしても、これが我が家の歴史の一幕であり、多くの神戸の人たちが苦しむことになった阪神淡路大震災に関わる部分である。  


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