ウェザーコック風見鶏(VOICE FROM KOBE)

風の向くまま、気の向くままに……

阪神淡路大震災の記憶 =1995年2月3日=

2007-02-04 08:01:10 | 阪神淡路大震災/震災関連
 阪神淡路大震災は、もうひとつの側面で、子供たちにも多大な影響を与えた。
 多くの人たちが家を失い、あるいは、自宅が危険な状態にあるか、余震等の影響で倒壊する危険性があるため、各学校の体育館が避難場所となり、学校の先生たちも避難している人たちの世話に明け暮れなければならない状況の中で、授業どころではなかった。
 
 当時小学校2年生であった長女も、当然のことながら「自宅待機」していた。
 1月も終わりに差し掛かる頃から、「子供を他地域もしくは他府県の学校に登校させる等の緊急避難を行っている親がいる」とのテレビ報道等がなされる中で、私のところでも、私の実家のある埼玉県に預かってもらうこととした。
 そのことを実家を継いでいる長男に話し相談したところ、長男は学校と協議し、学校側が積極的に長女を受け入れてくれることになった。

 記憶に誤りがなければ、1995年2月3日金曜日に、長女を連れて新大阪に出て、そこから新幹線で東京に向かい、東京駅で待っていた長男に長女を託し、神戸にとんぼ返りした。
 子供が新しい環境に入り込むのは早いもので、あるいは、阪神淡路大震災を体験した子供であるということがあったためか、2-3日で友達もでき、楽しく友達と連れ立って登校しているとの話が実家から報告されてきた。

 長女は、3学期の終わりまで埼玉県の学校で過ごし、3月20日過ぎに私が迎えに行き、一緒に神戸に戻ってきた。
 未だに記憶に鮮明に残っているのは、「帰りの新幹線の中で、長女はずっと涙を流していた」ことである。
 おそらく、短期間ではあれ、埼玉県の小学校に登校する中で、多くの友達ができたこと、その友だちとの「別れの辛さ」、それが彼女の涙だったのではないかと今でも思っている。
 埼玉県の小学校では、私の小学校、中学校時代の同窓生である小林(旧姓福島)信子先生のクラスに編入されたようで、3学期を終え、長女を迎えに帰省した際に、久し振りに母校を訪問し、そのことを知った。小林先生も、「久し振りですね」といった感じで、丁重に校長室で応対してもらった。長女が短期間ではあったが、お世話になったことにお礼を申し上げ、「埼玉の小学校に通った長女の成績に関する通知書」を受け取った。
 この通知書については、当然のことながら、当時長女の担任であった山口先生に手渡した。

 長女の3学期の通知表には、「震災のため評価できず」と記されていた。
 実際問題、3月に入る頃から急ごしらえの仮校舎等で授業がぼちぼち再開されるようになったと記憶しているが、3学期を通じて校区内の小学校を離れていたため、当然の結果「評価対象とはせず」ということなのかもしれない。
 この通知表については、家内が、今も大切に保管しているのではないかと思う。

最新の画像もっと見る