朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

言葉

2022-12-20 01:14:05 | 随筆


言葉

先日、なぜ書けないのか?
問うてみたが、どうも「言葉」の重みというか
その意味は
どこから発生するのかという壁のようなものに
出会った、いや、感じた、これも違う
考えさせられたのだろう。

書くことは、内省や内観にもつながると思うが
それは、自分の日記でもじゅうぶんです。

日記を習慣としていたわけではないが、振り返ると、
ここふた月ほどまったく書けていない。

書けなくなった発端はわかる。
10月から仕事が、かなりハードで、机に座ることさえ
できなかったのがずるずると持ち越してしまい、
書いても書かなくても一日は過ぎるし
ノルマというのも、嫌うのでいつかまた再開するだろうと思っていた。

しかし、一向に再開の兆しはない。

では、いまなぜノートとペンではなく
この機械をたたいているのだろうか?

内省や内観の記録であるなら、紙とペンでじゅうぶんである。

わざわざ、起動までさせて、ブログを立ち上げる必要もない。

まして、人様になんか言いたいとか伝えたいとかもない。

と、ここまできて、あ、「言葉」かとわかる。

世の中、言葉にあふれている
しゃべり言葉、書かれた言葉、音楽からの言葉、動画音声としての
言葉。
天気予報すら見ず、ましてニュースすらまともにみない
日常であっても言葉の氾濫というのは、感覚としてわかる。

普遍という言葉がある
時代の移りかわりがあろうと、かわらないことであろう。
外に普遍を求めると、少々やっかいである。
内に普遍を求めるとどうだろう?

生と死 生き物である以上のこの言葉からは逃げることはできない。
表裏一体というか、生まれてからいつ訪れるかわからぬ、
死に向かって生きているのが
あらゆる生命にとって等しい。
考えてみれば毎日が臨死体験といえる。
これも普遍といえば普遍である。

外に普遍を求めると厄介であると書いた
時代時代においての道徳は、そのおかれた状況によってかわる。
疫病以前と疫病発生後の道徳が変化していることでも明らかである。

では、どこに普遍をみるか?
いまを生きているすべても人々は、その人にしかないかけがえ
のない過去の経験がある。
これは、時代背景がかわろうと、世代がかわろうと、普遍である。
そこに寄り添うのは、「言葉」であり、その「意味」を知ることでは
ないだろうか。

意味をしるのは、考えることと言っていい。
どう生きるか?よりも
生きているのはどういうことか?

これには答えがでない。。。
しかし、答えのない問いを考えることそのものを
「言葉」の力といってもいいのではないだろうか・・・

これは、内側から外に貫く。





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