朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

時間

2022-12-05 06:40:26 | 随筆
時間について考えてみると、前方に進むまたは、有限の言葉が
頭に浮かぶ。

現に、手元にある時計の秒針は、一秒一秒と前へ前へと時を刻んでいます。
人生は有限で、どこへ向かっていくのかと問うと
一日一日とその確実なる死に向かっているのは、自明であります。

今現在を生きている、この肉体と心は、まだ死んでおらず
どこかで、まだ遠い先の未来にやがてそれは訪れる。と頭では
わかるものの、実感、体感はできません。

死を語る読み物などを、読んでも同じことで、それを語るあるいは
書いている人は、すべて生きています。

誰もみたことのない世界なのに、確実に訪れてくる死。
辞書を引くと、死=生でないもの、生=死でないものとあり
これでは、どちらがどちらかわからなくなる時間があるのです。

体験したことがなく、確実なものとわかっている
いるのに、わかっていない。

このことを、一度静かにじっくりと考えてみると
時間がはたと、止まります。
実際には、止まることはないですが
今という時間が、前方ではなく、上へ上へと垂直に
立ちあがるのです。

その時、垂直の時間は永遠へと向かい、生きていることと死ぬこと
は同じではないか?
と自分に問うてしまうのです。

沈黙とともに。





静寂

2022-11-04 03:23:30 | 随筆
静寂な世界
わたしたちは、日常の物質的世界に
身をおけば、そこに自我があり
さまざな葛藤や喜怒哀楽、不安、
恐れ、怒り、善悪、注意、確認…
がはたらく。

静寂な世界は、肉体として活動する
に不可欠な自我を、静かに見つめる
時間ではないだろうか。

それは、その人達だけが持ちうる
いや、持ちうるというより
感じるのかもしれない。

その静寂には
裁きはないのだろう。

言葉

2022-10-09 09:11:10 | 随筆
人間は自由意志をもち
それを表現するのに
文字や言葉、あるいは音を発する。
人間だけがもつものだろう。

言葉や音(音楽)には
物質的質量はありません。

その言葉が10キロです。とは
いえないし、そも、測りようがない。

値千金に相当するや
重み。深み。はあります。
これは、言葉も音も同じでしょう。

これら、物質的質量でないものに
人は感動し、喜び、励み、勇気
憤怒、疑い、恐れ、悲哀、郷愁を
その胸の内に抱く。
(恐れには、色々あっても
大きな音に恐れを一番感ずるのでは
ないだろうか?)

言葉や音は、それが独りであった
場合は、自分対自分であり
対象者(物)がある場合は
対象対自分となる。

ただ、変化しないのは
受け手の「自分」となりますが
そのときに対象者(物)がある場合は
言葉に反応して、言葉を返す、
当たり前のことを意識して行います。

そこで、対話が始まり
思いもよらずの、解決になったり
停滞、暗礁、決裂、感化となること
ありますね。

自問自答である、対象者がない
対自分となった対話は
どうでしょう。

そうなると、いままで出会った
言葉や音、風景、印象に残ったこと、
文字を思いおこし、自分の頭だけで
考えるのではないでしょうか?

自分の頭だけで考えるというと
独善的と思われがちですが、
考えを述べる相手は、自分になるので
それが本質か?という問いが
湧いてでで、もっと考えていくと
自分の主張がなくなってくるんですね。
(自信がなくなるわけではありません)

主張がなくなった状態が
対自分との対話となります。

そこで、文字を読むのではなく
言葉の意味を知ろうとします。
また、行間や間合いを読もうとします。


「ありがとう」と言ったとき
「ありがとう」と言われたときの
背景は、なんであったのか?

「バカ野郎」はなぜ言ったのか?
「バカ野郎」となぜ言われたのか?

なぜ、作者は
こういう作品(書物、音楽、絵画)を
創ったのか?
何を言いたいのか?
言いたかったのか?

自分の頭だけで考えるのは

自由意志を言葉や音で伝える
わたしたち、人間は物質的質量
では、測れない
「重み」「深さ」の旅人なのかも
知れませんね。





人間

2022-09-05 04:40:48 | 随筆
もし、わたし(あなた)は誰ですか?
と問われたら、どう応えるだろう。
私たちはどう応えるだろう。

自己紹介なら、名を名乗り
その場に則し、応じる。

自分自身に、この誰ですか?を
向けて、問いかけると
「ただの人間」です。としか
応えがないと感じます。
ふざけてる訳ではありません。

人と人の間に。
支えあうものとの間に。

独立した、一体の体と精神をもち
静かであり、屹立する。

それは、表現でもなく
演じるでもなく

ただ、今に意識をはたらかせ
体と精神の調和を観続けて、互いの
休息と活動のバランスをとりつつ
健康なときには、病いのときには
そのとき、そのときでの
最善を尽くし

もし、あるなら、遠い故郷にかえる
ときまで、他の誰でもない
自分自身になるためへのプロセスを
歩みつづけていく。

性別、年齢、人種、経歴、肩書
国籍、前途、持って生まれた気質、
体質…
いま思うのは
それらを意識することはなく

「ただの人間ですよ」と応えようが
ないのです。

違い

2022-09-01 06:36:08 | 随筆
先の、小筆で
瞑想の練習に触れましたが
ある違いに気づきました。

なにか、啓示を得るとか
住宅ローンが返済がなくなる?
というものではありません。
(相変わらず例えがヘタですね)

心拍数の違いでした。

最近、少々、心臓をいわしたので
布団から手の届く範囲で、血圧計を
置いています。
(不精者なので、毎日決まった時間に測定はしません)

神経質になるほど
測定はせずに(血圧はあがったり、
さがったりが当たり前なので)
夜中、目覚めたときや
朝、起きて、寝たまま15分の瞑想後に
測定してるくらいです。

夜中の心拍数は、だいたい
45-53の範囲なんですが
瞑想後には
65-70にあがってるんですね。

わたしは、座って瞑想ができないので
布団へ横になって
腹式呼吸を交えながら、心を空に
する練習をしています。

終了するころには、かなり
ゆっくりと長く吐ききる
深い呼吸になるので、心拍数は
さがっていると思っていたのですね。

そして、夜中も朝の目覚めのときも
ともに、横になり安静にしています。

たまたま、血圧計に付属している
記録をさかのぼってみてると
「おやおや」と。
違いがでてるなーと思った次第です。
なぜだか、よくわかりませんが...

心を空っぽにする状態の練習は
続けていこうと思っています。