それさえもやはりヲタクな日々・・・

まったり生温いヲタク生活を続ける今日この頃を、ゆるゆると書き連ねる

『ユダの福音書』

2006-04-10 01:23:37 | Weblog
CSのナショナルジオグラフィックチャンネルの特番

『禁断の聖書:ユダが残した福音書の衝撃!』

を見た。


世紀の発見を今から自分の目で見るぞ!!!という方は読まないでくださいね!


ユダって、あのイスカリオテのユダ。キリストを裏切ってローマ兵に売り、ゴルゴダの丘で磔刑になる直接の原因になった新約聖書中最大の極悪人となっている人です。

新約聖書の福音書によると、ユダはイエスの十二使徒の一人だったのですが、ローマの迫害に恐れをなし、13枚だったかの金貨に目がくらんでイエスのことを密告し、ご存知の通り処刑の3日後にイエスは肉体を伴って復活し、ユダは己の罪におののき自殺をしたということになっています。


今回発見された『ユダの福音書』には、ユダの裏切りはイエスに示唆されて、イエスの魂を閉じ込める肉体からその魂を解き放つために、仲間からも謗られ汚名を着る辛い仕事を遂行した聖者であると記述してあるそうです。

あ、ちなみにタイトルが『ユダの福音書』でも、ユダが書いたものではありません!!! 後世の人が書いたものです。


流石は組織力お金のあるナショナルジオグラフィック協会。

ナショナルジオグラフィックが組んだプロジェクトチームによって『ユダの福音書』は偽造ではないことは証明されたようです。

これは紀元後3世紀~4世紀に書かれたテキストであることまでは分かっており、また、史実とあわせると2世紀末に成立していたようですが、原本はもともといつごろ書かれたものかは分かっていません。

発見は20年ほど前のエジプトの洞窟の中。墓の盗掘をしていた人が見つけて古物商に売ったものが、数奇な運命の末、ボロボロになって散逸する前に世に現れたと言う次第。

内容はコプト語(古代エジプト語)で書かれており、コプト語の研究者と復元の専門家がまるでジグソーパズルのようにしてボロボロの断片を組み合わせて復元させたものです。


既に書いたとおり、今度のテキストによると、ユダは他の使途とも一線を画したもっともイエスに信頼された弟子と言うことになっています。そして、もっとも信頼していたユダに裏切りを命じるのです。


新約聖書の記述と真っ向から対立する内容であり、新約聖書のユダの記述がユダヤ人のイメージと重なり現代に至るユダヤ人迫害の事実の原因のひとつになったとも言われることから、これが本当だとすると、キリスト教信者にとっては確かに衝撃的なの事実と言うことになるのかもしれません。

ただし、今後新たな事実が発見されない限り、何が真実であるのかは立証できず、結局は個々人が何を信じるかと言う心の問題になるのかもしれません。


私にとってユダのイメージは、昔読んだ『ノリメタンゲレ』(麻城ゆう原作・道原かつみ作画)というマンガのイメージが残っているために、あまり悪い印象がなく、こっちのユダの方がしっくりくる感じもあります。

『ノリメタンゲレ』って、たしか「私に触ってはいけない」とか言う意味で、復活したあとにイエスが人々に言ったとかいう言葉。


ユダがイエスに命じられて辛く厳しい役目を果たし、人間の原罪を贖ってイエスは魂となり天に昇ったとするほうが(イエス復活の記述はないらしい)、イエスという人の神性がより強固なものとなると思うのだけど、どうでしょう?


イエスは使途たちに形式や権威による信仰の無意味をとき、人はひとりひとりが魂の内で神と繋がっていると教えます。そして、もっとも心強く苦難の道を行くユダにだけ神の国のことを語り、お前はきっと神の国に行くことができると言ったと。


こちらの方がね、腑に落ちると言うか、なじみませんか?

そうでなければ、どうも使途としても優れていたように思えるユダが、こんな卑劣で浅ましい裏切りをするというのが・・・・納得いかない。なんか子供だましっぽいストーリー展開というか。

キリスト教的フィルターをもたない門外漢にはね、ちょっと不思議だったんですよね、昔から。



この福音書の宗教観は当時のグノーシス派の教えに近く、この宗派は肉体は魂の檻であり魂をこの檻から解き放つこと説いているそうですので、この宗派の関係者が作者ではないかと番組では推定しています。そうであるなら、神聖なるイエスの肉体の復活など考えられないことなのでしょう。

しかし、当時の正統派キリスト教ではキリストの受難と肉体の復活が信仰的な重要要素になっていたようであり、グノーシス派の教義は抽象的で民衆に好まれなかったのか、裏切り者と信じられていたユダが聖者として扱われていることが気に入らなかったのか、その他もろもろ他にもあったのか、新約聖書編集のときに数ある福音書の中からボツにされてしまったということらしい。


この福音書が、今の時代に世に出ることになったというのは、宗教的に考えると、これは神の御業であり、教団の権威とかではなく、人の魂そのものに神性を認める(いやキリスト教は認めているのでしょうが)新しい信仰の形を示唆するものかも・・・・・


それにしても、これだけでなく、歴史や宗教界ではこれからもなにか新しいものがでてきそうな・・・・予感が、勝手にしています。
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