げなだべげな

長崎から福島へそしてさいたまへ→そして長崎へ

保科正之伝

2020-04-21 13:35:00 | 日記




〜本妙寺から出火した火は、おりからの北風にあおられて江戸の町を焼き尽くしていった

住民たちのほとんどが、最初は荷車に家財道具や長持ちなどを積んで逃げ延びようとしたが、火の手は以外に早く、荷車や家財道具を運ぶのを諦めて道路に投げ捨てて身一つで炎に追われるように逃げ惑った〜

大火事の様子を歴史小説の「保科正之伝」ではこう綴ってます

江戸時代初期の1657年に江戸の大半が焼け、江戸城も焼け落ちるという大火事がおこりました

危機を乗り切ったのが、その時の幕府の実質的な最高実力者の保科正之です

〜慌しい中に、浅草蔵前にある幕府の米蔵が危ないとの報告があった

蔵前の米蔵とは、天領から集積された米が備蓄されている米蔵であった

この米蔵が焼失すれば、旗本たちに支給する切米にも事欠くことになる

「ただちに火消しを蔵前に出動せよ」と幕閣たちが喚いた

正之は冷静であった。閣僚たちを見渡して「よき考えがござる。焼け出された者たちに触れを回すのでござる」

「何と?」

「蔵前の米蔵を解放する。それぞれ勝手に米蔵から米を持ち出すことを許すと」

「そんなことをしては、、」

「焼け出された者たちは昨日より何も食しては居らぬはず。米が手に入るとなれば必死に火を防ぎ米を手にしようとするはず」

その米蔵は多少の焼失はあったものの無事に生き残った

幕府では、その米蔵の米で、各所で炊き出しをして窮民を救う事に努めた

また家を失った者たちの戸数を調べさせて家の再建費として間口当たり三両ニ分を支給した

また、旗本たちにも屋敷建替料を支給することにした

その案に異議を唱える幕閣もあったが、正之の「幕府の金蔵は、家臣や庶民を安堵させるために貯えていたものにてござる」との一喝で、総ては決着した〜

私が大好きな本のくだりです

引用させて頂きました

幕府の金蔵は、家臣や庶民を安堵させるために貯えていたもの

今、使わなければ貯えがないのと同じ

私の尊敬する人物です