哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

サークル『哲学的な何か、あと…とか』のご紹介

2014年01月27日 | 哲学・心の病
※「ニコッとタウン」のサークルです!


【サークル『哲学的な何か、あと…とか』のご紹介です】

『哲学的な何か、あと…とか』を、楽しく語り合うサークルです。 (『あと…とか 』とは、ご意見、ご質問、ご相談など『何でも』ということで、ご遠慮なく、お気楽に、掲示板に『何でも』アップして下さい。)

年齢制限があり、25歳前後以上とさせて頂きます。ただし、参加メンバーとご交流されている方は、年齢制限がありません。

サークル活動は、臨機応変で進めていきたいと思っております。

そして、「ROM」でも構いませんし、無言で「入会」「退会」、無言で「再入会」「再退会」でも構いません。(このサークルは「自由主義」で、強制的と感じる規則はありません。)

【参加メンバーの皆さんへ、お願いがあります】
このサークルに参加してほしい方がおられましたら、その方にも、このサークルを紹介して下さりますよう、お願い致します。(参加メンバーのご紹介の場合、年齢制限はありません。)

【ご注意】
誹謗中傷など「ネットいじめ」のような書き込みは、アップされた方のご承諾を得ずに、削除させて頂きます。(ただし、削除された方の「ご抗議」はお受け致します。)

【管理人のご紹介】
哲学、精神医学、心理学、生物学、理論物理学、風俗など、人に関するあらゆることを、日々、哲学的に考えています。基本的には、文筆家、故、池田晶子さんと同じ考えを持っています。

宮台真司をぶっとばせ!

2014年01月21日 | 哲学・心の病
「生きることに意味もクソもないし、まして、生きなきゃいけない理由なんてない。」
それを聞いた青年や女子大生は自殺した。

ニーチェは『ツァラトゥストラ』で、「人間は、生を見ることが深ければ深いほど、苦悩を見ることが深くなる」と言っている。
人生に、本当に求めるに値するものがあるのか、考えれば考えるほど、一切は無意味に思えてくるからだろう。
「無意味な生をそのまま愛し、受け入れよ」と説く人も、皆無ではない。

たとえば、宮台真司は、「なんのために生きるのか」という人生相談で、「生きることに意味もクソもないし、まして、生きなきゃいけない理由なんてない」と断言している。
その宮台真司の本を愛読した青年や、受講した女子大生が自殺した。
宮台真司は、「誤解を恐れずに言えば、S君は僕の鈍感さによって『殺されて』しまったと言えるかもしれません」と自著でふり返り、自分の話が「結果的に、彼女の無意味感を高める方向に機能してしまった」ようだとも書いている。
生きる気力を喪失させる不真実な言説に、猛然と怒りを覚えた人たちが、『宮台真司をぶっとばせ!』と批判書を編集したのも、もっともだろう。

宮台真司の言うように、「なぜ生きるか」「何をなすべきか」などに悩まず、ただフワフワと外界の事象に流されるだけなら、八十年生きるのも今死ぬのも、変わらないのではないだろうか。
当の本人もそれに気づいてか、そこまで流される生き方はとてもできないとも、告白している。
「僕は『まったりと生きよう』っていったり書いたりしているけど、でも僕自身は女子高生たちみたいに“まったり”できない。ああは刹那的には生きられないよ。」

人間の奥底には、生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が、激しく鳴り響いている、とカミュは言っている。
どうしても生きる目的を知りたいのが人間の性(さが)のようだ。
「目的なんて、考えなくても生きられるよ」と強弁する人は、幸福なのでも不幸なのでもなく、おそらく多忙なのだろう。

「結局、死について考えても、生きる目的を探そうとしても、どうせ答えはない、人それぞれの問題だし」と考えてしまうと、そこで思考がストップしてしまう。
また、自分の生きる目的が「分からない」ことと、目的が「ない」ことは、同じではないはずなのに、問題をすり替えているかのごとく、目的なんてない、人生は無意味だと言う人が、意外に多い気がする。

「無知の知」とソクラテスは言い残したが、自分が、自分の人生の意味に「無知」であることを自覚すること自体が、大事なんだと思う。
その自覚があって初めて、探求の第一歩を踏み出すことができる。
「無知」であることを認めたくないがゆえに、そもそも、生きることに意味なんてない、と根拠もなしに決めつけてしまうのは、あまりに無責任だ。

医療の現場では、もちろん、そんなことは言ってはいけないことだ。

小説とは?

2014年01月17日 | 哲学・心の病
「作家が大切にしなければならないことは、読者ではなく、登場人物である。」 by ニコタ・ノベル

「素晴らしい小説とは、小説とは何か、が書かれている小説である。」 by ニコタ・ノベル

以上のことは、小説以外のことにも当てはまるのかもしれない。
たとえば、絵画や映画とか。

『ハンナ・アーレント』-考えることで人間は強くなる-

2014年01月16日 | 哲学・心の病
ユダヤ人女性哲学者、ハンナ・アーレントを描いた映画作品が日本でちょっとしたブームとなっている。
12月14日まで上映されていた岩波ホールでは連日満員、数時間前にチケットが売り切れることもしばしばあったようだ。
現在は全国8カ所、来年より全国30カ所以上の映画館で上映される。

舞台は1960年初頭。
ハンナ・アーレントは、数百万人と言われるユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯、アドルフ・アイヒマンの歴史的裁判に立ち会うこととなった。
アーレントは、戦犯アイヒマンの話を聴き、観察していくうちに「アイヒマンはヒトラーに命令されて任務を遂行しただけの、どこにでもいる平凡な人間ではないか」と考えるようになる。
ここからアーレントは、「私たち人間の誰しもがアイヒマンのような残虐な行為を行いうるのではないか」と思考し始める。
そして、「人間は自分自身の頭で考えることを放棄した場合、社会の状況によっては、悪に手を染めうるのではないか」「人間が思考するのをやめるということは悪に結び付くのでは」という考えに至る。(悪の凡庸さ)

この考えを含め、「ユダヤ人指導者がナチスに協力していた」というホロコーストの新事実を記した衝撃的なレポートを、ザ・ニューヨーカー誌で発表したことによって、世界中で大批判が巻き起こる。
親しかった友人からも、激しい非難を浴びせられることとなった。

しかしアーレントは思い悩みながらも自身の考えを信じ、“考えることで人間は強くなる”という信念の下、自身の考えを主張し続けた。

岩波ホールの企画担当者も驚いたというこの映画の盛況ぶりは、アーレントが伝えている、“考えること”の大切さ、素晴らしさ、重要性が、”今の時代を生きる日本人”に響いてのことだろう。

『哲学とは』開高健

2014年01月08日 | 哲学・心の病
哲学は、理性で書かれた詩である。
あれは詩なんだ。
論理と思ってはいけない。
詩なんだよ。
もう一歩つっこんでいうと、詩の文体で書かれた心の数学である。

もちろん、その理性の詩は感性で裏付けられている。
したがって、一度その詩から君が外れてしまうと、いっさいは屁理屈のかたまりにすぎなくなる。
その哲学者の感性および理性の周波数と、君の周波数とが一致したとき、それはみごとなボキャブラリーの殿堂になり、宮殿になり、大伽藍になることもある―――というこっちゃ。

by 開高健


私は、哲学は理性と感情で書かれた論理だと思っているが、開高健氏はそうは思っていなかったらしい。
彼の小説を読めば、そのことがよくわかる。

じつは、彼の小説の所々に、彼の哲学が散りばめられていたのだ。
それも、詩のような表現で。

詩は往々にして、読み手によって解釈が異なる。
曖昧な表現だからだ。

『様々な問題について、一切の思い込みを抜きに感じたことを考えて、本当のことはわからないとわかった上で感じたことを考える。』
を私は信条にし、曖昧な表現にならないよう努めている。

しかし、開高健氏の言うような哲学も、試みてみたい気がする。
何か新たなことが、見えてくるかもしれないからだ。

首都直下地震について

2014年01月07日 | 哲学・心の病
中央防災会議の作業部会は2013年12月19日、発生が懸念されるM7級の首都直下地震の新たな被害想定を公表した。
死者は最悪2万3千人で、関東大震災タイプのM8級の地震については死者7万人と想定。
直下型が発生する確率は30年以内に70%と予測されているが、いづれは起こるであろう首都直下地震を、不安に思っている人もいるだろう。

しかし、そのような災難に対して、池田晶子さんは次のことを書いている。

『生のあるところに死はあるのだから、生きているということは、常に必ず危険なことのはずなのである。何が起こるかわからない、何が起きてもおかしくない。あり得ない、ということは、ないのである。
こう思って生きていると、他人の災害がとても他人事とは思えなくなる。私があの人の災害に遭わなかったのは、たまたま私があの人ではなかったからだ。あの人は私でもあり得たのだ。他人に起こり得た災難は、すべて自分にも起こり得ることだ。自分にだけはあり得ないということは、ないのだ。
私はそういう心構えで生きているから、だから逆に危機意識というものがないのである。何が起こるか、いつ死ぬか、ビクビクしながら、恐くてとても生きてゆかれないではないか。しかし、生きている者は必ず死ぬ、こうわかっているなら、何を恐れることがあるだろう。』

池田晶子さんが書いていることを読んでも、彼女と同じ心境になれない人もいるだろう。
とくに、死ぬことを自分のこととして考えたことのない若い方は。

私も少年期には、自分に死が訪れるとは思っていないときもあったし、いずれは死ぬかもしれないが、それは遥(はる)か遠くの将来だろうと思っていたときもあった。

ところが、年齢を重ねるにつれて、そして、死について考えるにつれて、死はますます身近なこととなり、彼女と同じ心境になったのである。
私も彼女と同じように死ぬことを恐いと思っていないのである。

ただし、地震が起きたときに隣人に迷惑をかけぬよう、我が家の耐震性を強度にしており、延焼しないよう隣家と離れたところに家を建てている。

お正月について

2014年01月06日 | 哲学・心の病
きょうびのお正月について池田晶子さんが書かれている次のことは、誰もが同じように感じていることだろう。

『おせち料理の賑々しい品々は、食べる時には冷たいものだし、日持ちがするよう、やたら甘かったりしょっぱかったりで、おしいと思った記憶が私にはない。べつにお正月だからって、海老や鯛を食べなくたって、そんなのいつでも食べてるし。
どうしてもそういう感じになってしまう。これはたぶん不幸なことだろう。お正月はお正月らしく、晴れがましい気分でいる方がいいのだ。
しかし、きょうびは、多かれ少なかれ誰もがそうだろう。晴れ着を着るといっても、おしゃれだって、とくに今さら。お正月は、現代人にとっては、特別の日ではなくなったのである。
(中略)
しかしきょうびの労働は、年間通してベタに同じである。季節感も感謝もない。そのかわり、各種の息抜きと娯楽とは昼夜を通して提供されているから、毎日がお祭り騒ぎ(いつでもお正月 by ?)のようでもある。何が日常で何が非日常なのか、判然としない。』

そこで、池田晶子さんは次のことを提案している。

『去年のお正月、おめでとうございますと皆で挨拶をしたその食卓に、今年、父の顔はない。あるいは逆に、去年はいなかった新しい顔が、今年は加わっていることもある。入れ替わり、立ち替わり、生まれては、死んでいる。繰り返している。その繰り返しの中に、この私もいる。来年は私がいないのかもしれない。何が存在していたのだろうか。永遠的循環の中の、一回的人生。いま生きているということ自体が、奇跡的なことである。ああ今年も無事に皆の顔を見ることができた。
じっさい私は、年々歳々この感じが強くなる。生きているのだから、いつ死んでも当たり前なのに、よくまあ一年間も、何事もなく、ご無事で。そういう眼で、人を眺めていることがある。存在の奇跡性に気がつくと、人生の風景は明らかに改まるのである。
お正月くらい、生きて在ることのおめでたさを自覚してみたい。
よい年でありますように。』

私は、池田晶子さんの提案に同感はできない。
なぜならば、私は、生きていることの奇跡性を実感したことがないからである。

では、なぜ彼女は、生きていることは奇跡的なことだいうのだろうか?
そして、なぜ私は、彼女のように感じないのだろうか?

それについての私の意見は、今回は書かずに置いといて、後日、記事にしたいと思っている。

遺伝子改良人間(ジーンリッチ)

2013年12月31日 | 哲学・心の病
プリンストン大学のリー・シルバー教授は著書『複製されるヒト』のなかで、遺伝子的強化の処置を施されて生まれる人々(遺伝子改良人間)のことを「ジーンリッチ」と呼び、この優れた人間集団がいずれ普通の人々である「ジーンプア」を置き去りにし、その結果、人類がふたつの種へと分岐していくことを懸念している。
そして、「ジーンリッチ」と「ジーンプア」の分岐は、最初は社会的なレベルではじまり、しだいに生物学的レベルにおよんで、ついにはホモ・サピエンスとは異なる新たな種を生み出すというのだ。
シルバー教授によると、このような分岐が人類に起こることは避けがたいという。

しかし、現時点では、子どもが特定の性質を持つように事前に遺伝子を設計することは、技術的にも倫理的にも強く問題視されている。

池田晶子「靖国神社参拝について」

2013年12月30日 | 哲学・心の病
靖国神社参拝について、池田晶子さんは次のことを書いている。

霊を慰め、霊を弔うとは誰でも言うが、その霊の何であるかを人は理解しているものだろうか。
いやそもそも、そんなものが存在すると思って、人はそう言っているのだろうか。
「あなた、霊は存在すると思うか」。
真正面から尋ねてみるなら、誰もが一瞬は答えに窮するに決まっている。
誰か総理に質問してみればよい。
総理、霊を弔うとおっしゃるけれども、霊は存在するとお考えなのですか。
もし存在しないとお考えなら、靖国参拝とはナンセンスな行為なのではないですか。
(『41歳からの哲学』「弔うとおっしゃるけれど-霊」より)


靖国参拝がナンセンスかどうかは別にして、靖国参拝をする全ての総理に、「霊は存在すると思っているのかどうか」、そして「その根拠」を、私は聞いてみたいが、どうだろう?

感動とは?

2013年12月29日 | 哲学・心の病
ネット上の記事を紹介させて頂きます。


〉加藤樹里(一橋大学)

星空を見たとき。映画や小説、漫画、ドラマに接したとき、スポーツの素晴らしいプレーを見たとき。美しい音楽、絵画に出会ったとき。
私たちは色々な場面で「感動した」と言うように、感動は私たちにとって身近な感情だと思います。
しかし感動に関する研究はごくわずかであり、「感動とは一体何なのか?」「私たちはなぜ感動するのか?」という謎は謎のままです。

私は主に実験、そして調査により、感動の正体に近づこうと一連の研究を行っています。
今日「感動」という言葉は軽くなるばかりですが、感動は私たちに素晴らしいものを与えてくれるという信念のもと、感動について日々考えています。


〉大平英樹(名古屋大学教授)

内村航平選手の美しい跳躍の映像がテレビから流れる。
体操男子団体での苦悩を超えて手にした個人総合の金メダルに鳥肌が立ち、目頭が潤む。
一橋大の加藤樹里氏(心理学)によれば、感動とは制約がある中での価値の再発見に伴う感情である。
つまり失敗、苦難、別離、死といった制約が大きいほど、大事なものを得たときの感動も大きいというわけだ。

脳内の「報酬系」と呼ばれる神経回路の線条体に、神経伝達物質のドーパミンが放出されると震えるような快感が経験され、同時に扁桃体が交感神経系を刺激して身体も興奮する。
自分の成功ではないのに日本人選手の活躍に感動するのは、内側前頭前野や上部側頭溝などの「心を読む神経回路」の活動で「日本人」という同じ集団に属する他者を同一視するからだ。

感動は、刹那的な個人の利益から、長期的な他者や社会の利益に意識を切り替えることが重要だ。
内村選手の活躍に感動した人は、周囲の大事な人や日本のために何かをしたくなるに違いない。
しかし、偏狭なナショナリズムにつながる危険もはらむ。
バドミントン女子ダブルス決勝で日本ペアがみせたような、全力を尽くし敗れ去った選手に感動できる大人の能力を我々は涵養(かんよう)すべきではないか。

※【涵養(かんよう)】水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること。

感動体験の効果とは?

2013年12月27日 | 哲学・心の病
感動して「泣く」ことにはストレスを解消する効用がある、ということを以前ブログに書きましたが、感動することには、もっと重要な効果もあるのではないだろうかと思いネットで調べたら、次の説がありました。

(たとえば、原作が藤沢周平氏の映画に感動することは、何かしら人格形成に影響を与えるのではないかと疑問に思って調べました。)


感動体験の効果として、動機づけに関連した効果、認知的枠組みの更新に関連した効果、他者志向・対人受容に関連した効果の三つがあげられている。

細かく見ると、

動機づけに関連した効果では、やる気・肯定的思考・自立性や自主性・自己効力感に、

認知的枠組みの更新では、思考転換・視野拡大・興味拡大に、

他者志向・対人受容では、人間愛・関係改善・寛容さ・信頼・利他意識に、

それぞれ影響があったとされている。


とのことでした。

「他人の目」は犯罪を抑止する?

2013年12月24日 | 哲学・心の病
ファーストフード店や学校のカフェテリアの多くではセルフサービス方式を取っているため、食べ終わった後に食器を自分で片付けなければいけない。
お店の人にとって、食器類を片付けてくれないのは困る。
それではどうしたら、利用者に食器類を片付けてもらえるのだろうか?

レジでの会計の際に片付けてもらうようにお願いする?
それとも時々店内を見回って、片付けない人がいたら注意する?
どちらも、効果が見込めない、あるいはお店の人の負担が増えてしまうため、あまり良い案ではなさそうだ。

イギリスのニューキャッスル大学のマックス・E・ジョーンズ氏たちは、「他人の目」に注目してこの問題を考えた。
言うまでも無く、人は他人の目を気にする存在。
ごみをポイ捨てする回数は、人に見られている時より見らてれいない時の方が圧倒的に多いだろう。
そこでジョーンズ氏たちの研究グループは、人の目があればカフェテリアの食器置き去り率は低くなるだろうと考えた。
しかも、本当の生身の人間の目でなく、単に目の写真をポスターにして壁に貼るだけでも効果があるという仮説を立てた。
これまでの実験室の中での研究で、目の形状をしたものが視界に入ると、人は他人に対して協力的に振舞うようになることが明らかにされていたからだ。

また、ジョーンズ氏たちは目の効果だけでなく、「食べ終わったら食器を片付けてください」という片付けについての注意文の効果や、一緒に食事やお茶をする人数の影響についても同時に検証した。

実験会場は大学のカフェテリアで、ポスターは以下の4種類。

(1)目有り・注意文有り
(2)目無し(代わりに花)・注意文有り
(3)目有り・注意文無し
(4)目無し(代わりに花)・注意文無し

その結果はどうなったのだろうか?

まず、目の効果は、やはり目がないよりもあるほうが、食器の置き去り率は低くなった。
目がないと35%位の人が食器を置き去りにしたのに対し、目があるとその比率が20%程度と大幅に減少した。
一方で、注意文があってもなくても、置き去りにされる比率は変わらなかった。
また、グループのサイズが大きくなるほど、置き去り率は高まるという結果になった。

これらの結果は、

①人はたとえ本物でなくても、他人の目があることで、食器を片付けるようになる
②片付けの注意文は食器の片付け率向上にほとんど効果を持たない
③グループの人数が大きくなると、気が大きくなるのか、はたまた個人が特定されにくくなるためか、片付け率が低下する

ということを示し、注意文より目の写真の方が効果があるという結果だった。

「恋は盲目」の理由とは?

2013年12月24日 | 哲学・心の病
恋愛の最中は、強い幸福感を起こすドーパミンの分泌は多く、コカインやヘロインへの反応に似ているのだとか。

また、判断の中枢の前頭前皮質と社会的認知に関わる脳の部位は活性化しにくくなるのだそうです。
いわゆる「恋は盲目」の状態。

ヘレン・フィッシャーによると、それは、子孫を残すための合理的なシステムだとか。

強い幸福感がなかったらば、その相手との子孫を残そうとするだろうか?

また、恋人に対する判断の歪み(良い点を大きく、悪い点を小さく見る)でなかったならば、その相手との子孫を残そうとするだろうか?

哲学しよう

2013年12月22日 | 哲学・心の病
どんな哲学者にしても、私たちと同じ人間だ。
だから、紀元前から現代までの哲学者たちが考えてきたことは、結局は誰もが一度は考えようとしてきたことと同じだ。
ビビることはない。
ただ、彼らと私たちのどこが違うかというと、彼らはとにかく最後まで考えて、『とりあえずの(←ここ重要)』答えを出しているということだ。

分かるということは自己満足ではない。
まさに、この世界を積極的に理解していくということだ。
この世界を理解して生きるのと、理解しないまま手当たり次第に生きるのとでは、雲泥の差(←ここは私は疑問)なのだよ。

by ある著作者

「SVR理論」とは?

2013年12月17日 | 哲学・心の病
「SVR理論」とは、社会心理学者・マースタイン氏によって提唱された、パートナーシップの考え方。
ふたりの出会いから恋愛、結婚へ向かうプロセスを3段階に分け、 その時期に必要な要素を示唆しています。

・第1ステージ「刺激(Stimulus)」
相手の外見的魅力や、人柄、言動、社会評価などに「刺激」を受け、好意を抱くステージ。
一目ぼれ、片想いから、交際が始まって間もない時期。
相手の悪い部分がまだ見えていない、ハッピーなときです。

・第2ステージ「価値(Value)」
相手との「価値観」を見定める時期です。
多くの時間を一緒に過ごす中で、考え方や行動が自分と似ているか、を重要視します。
価値観が似ている相手ならば、穏やかに過ごせるでしょう。
でも、お互いの価値観に違いがあると、喧嘩が増えてきたり相手に対する不満も表に出たりしやすい時期。
このステージで脱落するカップルは、多いそう。

・第3ステージ「役割(Role)」
恋愛の最終ステージ。
お互いに必要としながら、自分とは違う価値観も受け入れることができる。
そして、パートナーと理解しあって、お互いの足りない部分を補いあう関係です。
相手にできないことを自分が負担する、自分にできないことは、相手にお願いする。
そうやって、「役割分担」がしっかりとできる関係になると、ふたりの関係はより強いものに。
ここまでくると、カップルとしても長続きしやすいですし、夫婦だとしたら円満な家庭を築けるでしょう。


とのことでした。