哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

お正月について

2014年01月06日 | 哲学・心の病
きょうびのお正月について池田晶子さんが書かれている次のことは、誰もが同じように感じていることだろう。

『おせち料理の賑々しい品々は、食べる時には冷たいものだし、日持ちがするよう、やたら甘かったりしょっぱかったりで、おしいと思った記憶が私にはない。べつにお正月だからって、海老や鯛を食べなくたって、そんなのいつでも食べてるし。
どうしてもそういう感じになってしまう。これはたぶん不幸なことだろう。お正月はお正月らしく、晴れがましい気分でいる方がいいのだ。
しかし、きょうびは、多かれ少なかれ誰もがそうだろう。晴れ着を着るといっても、おしゃれだって、とくに今さら。お正月は、現代人にとっては、特別の日ではなくなったのである。
(中略)
しかしきょうびの労働は、年間通してベタに同じである。季節感も感謝もない。そのかわり、各種の息抜きと娯楽とは昼夜を通して提供されているから、毎日がお祭り騒ぎ(いつでもお正月 by ?)のようでもある。何が日常で何が非日常なのか、判然としない。』

そこで、池田晶子さんは次のことを提案している。

『去年のお正月、おめでとうございますと皆で挨拶をしたその食卓に、今年、父の顔はない。あるいは逆に、去年はいなかった新しい顔が、今年は加わっていることもある。入れ替わり、立ち替わり、生まれては、死んでいる。繰り返している。その繰り返しの中に、この私もいる。来年は私がいないのかもしれない。何が存在していたのだろうか。永遠的循環の中の、一回的人生。いま生きているということ自体が、奇跡的なことである。ああ今年も無事に皆の顔を見ることができた。
じっさい私は、年々歳々この感じが強くなる。生きているのだから、いつ死んでも当たり前なのに、よくまあ一年間も、何事もなく、ご無事で。そういう眼で、人を眺めていることがある。存在の奇跡性に気がつくと、人生の風景は明らかに改まるのである。
お正月くらい、生きて在ることのおめでたさを自覚してみたい。
よい年でありますように。』

私は、池田晶子さんの提案に同感はできない。
なぜならば、私は、生きていることの奇跡性を実感したことがないからである。

では、なぜ彼女は、生きていることは奇跡的なことだいうのだろうか?
そして、なぜ私は、彼女のように感じないのだろうか?

それについての私の意見は、今回は書かずに置いといて、後日、記事にしたいと思っている。

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