女たちは自分の中にほんとうの野蛮さをもっている。
男たちは思想的大家の犠牲者である。
彼らは盗作の、あとから学んだ態度の、性的、知的、
社会的態度の中にはまりこんでいる。
女たちが森に行くようになった今、
彼女たちは男たちよりも無限に自由である。
男たちは、1910年に女たちがそうであったように女性的である。
それに対して、われわれ女たちは1981年にふさわしいあり方で女性的である。
男たちは従い、女たちは新しく始める。
男たちがあやつるあらゆる論議は、後から学んだ論議である。
それに対して女たちは彼女らが発明する論議をもっている。
男と女の間で議論することは不可能である。
男たちは疲れていて、ほとんど病気であり、
少しばかり、自殺志向である。
彼らはほんとうの好奇心をもっていず、有罪感をもっている。
未来は女性のものだ。わたしは少し悲しみながらそれを言う。
なぜなら未来に二つの性がある方が好きだからだ。だが、
未来は女性のものだと思う。男たちはこうした病を病んでいる。
男らしさを病んでいる、まだまだある。
わたしは男たちが好きだ。それしか好きでない。
マルグリット・デュラス『外部の世界 アウトサイドⅡ』
クリスティアーヌ・ブロ=ラバレール編
谷口正子訳
「わたしはしばしば考えた……」 P.247 から抜粋
1981年のインタビューから
これを読んだとき、それまで胸の内でくすぶっていた思いが
スッと晴れていくのを感じた。
たしかに日本にも思想大家の犠牲者になっているのに、それに気が付いていない
男性が多い、と思う。
フランスやドイツの哲学者、思想家の書籍は、日本語の翻訳で読むのが普通だが、
語彙とその意味が非常にわかりづらく、難解である。
そういう難解な語彙を駆使するのが大好き人間を、わたしは知っている。
そしてそういう他人のたてた方程式をそのまま、盗作、して、文学を理解したつもりに
なっている自己満足な男たち。
でもわたしはもっと人間のDNAに近いところにせまって物事を解釈し、咀嚼し、
自分で感じ、考えて、それを自分の言葉で表現しなければ気が済まない。
やはり男と女の間には議論は成り立たない、デュラスはそれに気づいていた。
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