カディスの緑の風

スペイン、アンダルシアのカディス県在住です。

現在は日本の古い映画にはまっています。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

小津安二郎監督『東京暮色』(1957年)

2013-09-14 18:01:05 | 映画









小津映画はすでに何本も見ていて、どの作品もそれなりに楽しんでみていたのだが、

この『東京暮色』を観た後の後味の悪さは格別だった。


その前に『早春』をみて、小津が女の行動は描けても、深い内面の葛藤や苦悩は

描けない監督だな、と思ったのであるが、『東京暮色』はもっとひどい。


まるで和食の板前さんが、何を勘違いしたか、濃厚な中華料理をてがけ

化学調味料たっぷり使って仕上げた料理の数々を、

無理やりくらわされたような気持ちだった。

最後の踏切事故のあとの場面など、まさに「胸突き八丁」である。




こんな映画を一人で深夜みたのであるから、そのあと眠っていても

悪い夢を見続け、気分悪く明け方を迎えたのだった。

しかし、胸のむかつきが、しだいに虚しさに変わっていき、最初に映画を

観た晩には、もう二度とこの作品はみたくない、と思ったのだが、思い直して

再度見てみると、やはりこの『東京暮色』はそれなりに小津の映画なのである。




あらすじを知らずに見た一回目は、映画の最初のころの場面で

日本家屋の茶の間の光景や、笠智衆の父親が帰宅して丹前に着替えるのを

長女の原節子がかいがいしく世話を焼くところでは、『晩春』の続編のように

思えて、懐かしい気持ちだった。


しかし父と娘の会話から、娘の結婚がうまくいっておらず、二歳の女の子を

連れて実家にもどってきてしまったことがわかる。

二女が出現してからは映画の雰囲気が一変してしまう。


家族構成は、杉山周吉という父親(笠智衆)、嫁いだ長女の沼田孝子(原節子)、

二女の杉山明子(有馬稲子)の三人である。周吉の妹には『晩春』と

同じく、杉村春子が、せかせかしたおせっかいなオバサン、として

登場する。


しかし『晩春』の続きではありえない、暗い話の展開、となっていくのだ。







この二女を演じる有馬稲子の雰囲気が実に暗い。笑い顔が一切ない。

大学をでて今では英文速記を習っている学生、ということなのだが、

恋人の大学生、木村は、明子を避けて姿を見せない。それで明子は木村を

追いかけて探し回っている。


木村と同じアパートの一室に住む、バーテンの富田や、彼のギャンブル仲間たちの

たまり場である五反田の雀荘のおかみさん、喜久子(山田五十鈴)が実は

孝子と明子の実の母親で、二人が幼かった頃、父親が京城(今のソウル)に

単身赴任中、母娘の世話を見てくれた男と親しくなって駆け落ちし、

満州へ流れて行ったが、

その男はソ連のアムール抑留所で死に、その後ナホトカで知り合った

別の男(中村伸郎)と夫婦になって、東京に戻ってきていた、

ということが次第にわかってくる。



そしてまた、孝子と明子には兄がいたが、昭和26年(1951年)の夏、

谷川岳で遭難死している、ということも…。



つまりこの杉山周吉、という定年退職後も監査役として大手銀行に勤めている

真面目でパチンコ好きで、淡々とした風貌の人のよさそうな初老の男は

一見幸せそうに見えても、実は、妻に逃げられ、三人の子供たちを男手ひとつで

育てあげるも、長男は山で遭難死するし、嫁に出した長女の結婚生活は不幸だし、

二女は悪い仲間たちとつきあうようになり、若い恋人に妊娠させられ、その恋人を

追いかけまわして、深夜喫茶で警察に補導されたりするような堕落した生活を

送っている、という実に気の毒な家庭環境におかれているのである。



警察には父に黙って姉の孝子が迎えに行くが、父親はすでにその事実を知っていた。

憤った父親は、そんな警察の世話になるような子は自分の子じゃない、と明子を叱る。



明子は恋人に妊娠を告げるが、その恋人は、本当にぼくの子かなあ、

などというようなだらしのない男なのである。


自分が三歳の時、母親が男とかけおちしたことを知って、

明子は自分は父親の子ではなく、母の不義の子で、

その母の汚い血が自分に流れていると思い込んでしまう。







最初にこの映画を見た時、なんという人物の集まりだろう、と思った。

父親は二女には長女がひがむほど優しくしてきた、というが、

実はかなり頑固で厳格、娘の気持ちをわかってやろう、としないし、

母親不在の家庭で父を助けて、母親がわりに二女の面倒も

見てきたはずの長女は、

妹の様子がおかしいのに、なにが原因か疑いもせず、

父や姉には一切秘密で堕胎してきたあとの顔面蒼白で具合の悪い

傷心の妹が横になって休んでいる傍らで

叔母が持ってきた縁談のことをうれしそうに話したりするのである。



いくら長女は結婚して家を出ており、何年かは一緒に暮らしていない、といっても、

妹のことは長年よく知っているはずであり、女であるなら、妹の

体調不振の原因をもっと疑ってもいいはずである。



父親も父親である。明子が叔母のところに5000円もの大金を無心にいって断られ、

自分の親友のところへ行って5000円、親友の妻から借りてきていることを

知らされても、

友人で困っている人がいる、という明子のみえすいた言い訳を信じてしまっている。



登場人物にリアリティがなく、薄っぺらな印象しかない、

というのが最初に観た感想である。


それにセリフがひどい。「おい」という呼びかけが一体何度この長い映画の中で

聞こえてくることか!

「どうして」「どうしたんだ」「なぜ」「なんで」といった短い言葉が

繰り返されるが、肝心の答えがない。



麻雀仲間の男が、明子が帰ったあと、麻雀を楽しみながら、

明子と木村の仲がどう発展したかを、おもしろおかしくみんなにばらす場面。



『まあ、なんと申しましょうか、ラッキーセブンで、ラージ・ポンポン!』

などと茶化し、ポン!で上がる場面を見てわたしはいくら小津監督でも

ここまで若い女の深刻な悩みを貶め、嗤うのは赦せない!と思ったのである。



それから、やはり事故のあとの病院の場面が気味悪い。

深夜の踏切で電車にはねられた明子が病院の一室に横たわっている。

到着した父と姉に、目撃者のラーメン屋のオヤジが、

踏切番がちょうど小便に出ようとしたとき、電車がきて、

小便と電車が一緒にきちゃって、あわてて踏切おろしたけれど、

もうはねられていた、などと説明する。


小用を足しにでた踏切番の不注意のせいで電車にはねられた、なんて!

ここまで明子という女性の人生を馬鹿にするのか!


病室には点滴のボトルが吊るしてあるが、

そのチューブは明子の腕につながっていないし、

受付には眠そうな看護婦が一人いるだけで、医師の姿もない。


死にいたるような重体なのに、明子は父と姉に泣きながら訴える、

「死にたくない、生きてもう一度はじめからやり直したいの」。


重体でそのあとすぐに死んでしまうような怪我人が、

そんなことを言えるほど、

意識がしっかりしているものだろうか?




明ちゃんは、母親がいなくて寂しかったから、というセリフが

何度も姉の口から繰り返されるのだが、寂しかったから、という一言で

片づけてしまうのは腑に落ちない。

自分の経験から言えば、女は母親より女の姉妹のほうがずっと信頼できて、

相談しやすいものなのだ。

明子がこんなになったのは、母親不在よりも、父親と姉の孝子のせいでは

なかったのか。




そして明子の死後、孝子は、父親に言う。自分の娘には明子のような思いを

させたくない、

子供は両親そろっていなければ幸せになれない、だから沼田の元に戻って、

沼田とうまくやって行かなきゃいけない、今度こそ一生懸命がんばります、

わたしも我儘だったし…、と。

父親は、いやあ誰にだって我儘なところはあるさ、やってできないことはない、

と笑顔になる。




しかし映画のはじめのころ、孝子が子供をつれて実家に戻ってきてしまったとき、

夫の沼田は気に入らないことがあると、子供がおとなしくしているのに

いじめたりする、と父に告げる場面があった。

そこで父が沼田に会いに行くと

別に孝子や子供のことを心配している様子もない。

子供がうるさいでしょう、

などと父親に言うのである。



妻子を実家に迎えにも行かないし、連絡もよこさない、

そんな男のもとで子供が幸せになるだろうか。

いくら両親がそろっていても、母親が不幸であるなら、

子供も不幸になるのではないか。



と、まだまだほかにもたくさん、納得がいかないことばかりだった。

しかし、それはわたしが明子に感情移入して映画をみていることが

一つの原因だったのだろう。



有馬稲子の表情があまりに険しく暗くて、父親や姉の存在が希薄に

なってしまっているし。



それに加えて、母親の喜久子を演じた山田五十鈴の存在感の重さが

ずっしりと心に迫ってきてしまったことも大きな原因だろう。



明子が死んだ、お母さんのせいです、と喪服姿の孝子が麻雀荘を訪ねて、

喜久子に言う。

そのあと喜久子はなじみの飲み屋に行き、お銚子を頼む。盃に酒をつぎ、

それを飲む山田五十鈴の手の表情の美しさ!



亭主がやってきて、二人で北海道へ移住する話をする。

山田が亭主に自分の盃を渡す、

その仕草は普通のおばさんの手つきではない。



そしていよいよ最後の汽車のシーン。

混雑している上野駅で汽車の座席に夫婦がすわっている。

喜久子が、もしかして孝子が見送りにこないか、と待っているその仕草、

表情が実に切ない。



音楽も最初は気に入らなかった。


麻雀荘の場面や、喜久子と明子が対面する場面では、テーマ音楽の軽快な調べが

ずっと聞こえている。耳障りなほど…。


悪仲間のバーテンのいるバーで失意の明子が酒を飲む場面でかかる軽快な音楽。


暗い場面と明るい音楽のミスマッチが、わたしをいらだたせたのであるが、

再度見てみると、これが小津流なのだ、と思った。





小津はけっして明子の悲劇を強調したいのではないのだ。人生はこんなことも

あるさ、という客観的な見方をしている。

だから暗い場面で暗い音楽をかけたりしない。

軽快な音楽で、相殺して、客観性を高めているに過ぎない。


明子が堕胎のために訪れる産婦人科医院の待合室で外から聞こえてくる

不思議な旋律の唄は「安里屋(アサトヤ)ユンタ」という

沖縄民謡であるらしい。

この唄は大崎広小路のラーメン屋で明子が木村を待つ間にも低く聞こえてくる。



母の喜久子が白い菊の束をかかえて、杉山家を訪ねる場面。

孝子は一言も話さず、喜久子を家にあげもせず玄関払いする。

今夜北海道へ発ちます、もう会えないかもしれないけれど、

ずっと元気でいてね、とだけ言いおいて、

喜久子が玄関を出て、通りの坂道を下っていく後ろ姿。

そのあと菊の花束を抱えてじっと無表情のまま玄関にすわっていた孝子が

わっ、と号泣する場面では、さすがに軽快な音楽ではなく、

どこかで聞いたような、クラシックの交響曲風の静かな音楽が流れている。



上野駅では大学生たちが歌う歌声が高く低く響く。

その歌は明治大学校歌であるらしい。

小津の映画には軍歌がよく出てくるが、

『東京暮色』では明治大學校歌、である。

「明治生まれの男」への賛歌のつもりなのだろうか。





それにしても小津映画ファンにはなじみの小物類、

五反田や大崎広小路あたりの町の風景、

暗い夜の場面が多いが、映像の素晴らしさは、さすがに小津監督である。



ほかの小津の作品にはないじっとりとした暗さではあるが、

さまざまなエピソードを次から次へと重ねていく作風、

お涙頂戴のメロドラマ風定型パターンを一切排除した

せりふや役者の演技、間のとり方、やはりさすが、

と思える映画作りをしているのだ。



ただ、この映画は小津本来のものではない、という違和感は

何度見ても払しょくできない。

それは小津が描き続け、また小津映画のファンが慣れ親しんできた

テーマとは異質の世界を小津が手掛けたことにある。

小津が自分の知っている世界から足を踏み出し、

知らない世界を描こうとしたとき、そこにはやはり想像力しか働かない。

想像力に頼るしかない。

しかし想像力は想像にしか過ぎないから、リアリティに欠けるのである。



小津が描いてきたテーマ、それは子供の世界であったり、

親子や家族の関係の変化、であり、

娘を結婚させる父親、である。

そして娘の幸せを願い、結婚して努力して幸せになるんだよ、いろいろあって

夫婦になっていくんだ、という小津の一貫した

結婚観である。逆を言えば、女は我慢しろ!ということか…。



『東京暮色』の父親は、実家に帰ってきてしまった娘の結婚が

不幸であることを嘆き、

こんなことだったらすすめるんじゃなかった、佐藤のほうがよかった、

お前も佐藤のことを気に入っていたんだろう、無理にすすめて悪かった、

すまない、と謝る。


『晩春』の父親も、娘の結婚はいろいろと苦労もあろうが、

幸せになってほしい、と思うから、結婚をすすめたのである。

決して娘が不幸になることを予感しながら

むりやり嫁がせたのではない。しかし将来のことは誰にもわからないのだ。




この映画では、子供のガラガラがよく登場する。長女が戻ってきて、子供の

ガラガラがこたつの上に置いてある。それを父が無表情に手に取ってみる場面、

孝子が立ち上がった時、足がふれてガラガラが転がるシーン、

訪ねてきた母の喜久子が玄関に落ちていたガラガラを拾い上げる場面、

そして最後、一人暮らしになった父親は、朝、出かける支度をしていて、

洋服ダンスの上にあるガラガラを手に取り、それをながめて微笑むのである。








それは夫のもとに戻った長女と孫の将来が、いかに厳しいものであっても、それは

自分とは関係なく、自分はただ見守るしかない、という、あきらめとも悟り、とも

言える静かな気持ちを表しているのだろうか。



最後、通りの坂道を下っていく父親の後ろ姿が、数日前の喜久子の後ろ姿にも似て、

どこか寂しげである。

所詮親とはこんなものだ、と小津が言っているようである。


最後は娘を再度送り出した父親が、一人になって年老いていく哀愁を

映画を見ているものは感じる。

これぞ小津の世界なのである。

結局最後、小津は自分の世界に戻る。



それが小津ファンにはたまらなく居心地がよいのだろう。

だからこんな暗い映画でもいつもの小津とは異なる新たな一面を

発見したような気がして、

新鮮な思いで評価する人は高く評価する所以なのだろう、

とわたしは思った。


まあ、わたし自身は、それほど小津崇拝しているわけではないから

この映画は「異色の試みにすぎない」としか評価できないのであるが…。










































コメント (4)   この記事についてブログを書く
« 小津安二郎監督『早春』(1956... | トップ | やはりどうしても好きになれ... »
最近の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
暮色・・・ (AB)
2018-10-12 14:45:12
失礼いたします。
たいへん微細に、感性豊かに観ていられるのに感服です。ライトな小津映画のファンですがこの映画は好きになれません。救いようのない映画で気が滅入ります。登場人物のバーテンダーが他人を不幸に導き喜んでいるようでゾッとしますが、世間のそういった残酷さや意地悪さを、あえてあの人物で描いたと思えば納得できます。
家族のすれ違い、取り返しのつかない悲劇をリアルに描いた点は評価できると思いますが、暗すぎます。
失礼いたしました。
Unknown (Unknown)
2018-10-12 23:59:52
コメント、ありがとうございました。
古い記事で、再度読み直してみたら、かなり支離滅裂なことを書いていたようですが、ていねいに読んでくださって感謝です。

この後味の悪い暗い映画は、それだけに脳裏に印象が残るようです。好き嫌いが分かれる映画でしょうね。

東京暮色 (小寒が過ぎた)
2019-01-09 11:26:48
はじめまして、私もこの作品の暗さが何だと思いました、大学を出て英文速記を習っている次女の暗さも異常だが、長女の娘をきちんと見ていない場面が多く、まさか 事故でもおきたらどうするのか と ひやひや 山田五十鈴さんってわずか3歳違いの原節子の母親をやるのか 本物の女優だろう。 一人でお酒を飲む姿が すこし印象的 麻雀仲間の女性が山本和子だわ。
Unknown (Unknown)
2019-01-11 05:16:54
コメント、ありがとうございました。
やはりこの映画の暗さは半端ではありませんね。
でも山田五十鈴さんの存在が特に大きく感じられました。

コメントを投稿

映画」カテゴリの最新記事