カディスの緑の風

スペイン、アンダルシアのカディス県在住です。

現在は日本の古い映画にはまっています。

逆さまの真実 ― 罪が先か、赦しが先か

2013-08-12 18:03:10 | 文学


日本のわらべ歌、「かごめかごめ」の歌詞。


かごめかごめ

かごの中の鳥は、いついつでやる

夜明けの晩に、鶴と亀がすべった

後ろの正面、だあれ



夜明け、と、晩

鶴、と、亀

後ろ、と、正面、



これは逆さまの世界を唄っている、と

むかしむかし、どこかで読んだ。


逆さまの世界、逆さまの真実…。



最近、イコンの絵は、逆遠近法で書かれている、と知った。

(「書く」のであって、「描く」のではない、ということも。)


それはこちらから見ているのではなく、

あちらから見られている世界なのである。



また、あるブログで、キリスト教のエッセンスである

「神・罪・救い」という三原則について

このように解説していた。簡潔に要約すると、


神がわからなければ、罪はわからない。

この場合の罪、とは、いわゆる罪悪感ではなく、

神がわからないという罪である。


しかし罪がわからなければ救いがわからない、

というのではなく、

「神のめぐみによる赦しの経験から、

我々はその赦しに値しない自らの罪深さを

てらしだされるのである」

と説いている。


なるほど!と思った。

このブログでは、喜田川信の

『現代ヨーロッパ神学の根本問題』(教文館)から

引用して、説いているが、その引用文の

一節を、孫引きになるがここに載せておこう。

『人が神を捨てようとしても神は人を捨てないのである。

故に罪意識(律法)から罪の赦し(福音)ではなく、

逆に罪の赦し(福音)から罪の意識(律法)なのである。」




「テレーズ・デスケルゥ」を読んで以来、ずっと

わたしの頭のなかでくすぶっていた疑問が、

少しずつ解けていくような気がする。



同様に、この世は「無」から生まれたものではなく、

「無」に帰結していくにすぎない、と思った。



旧約聖書の神が、天地創造したのは、「無」から

突然つくったわけではない。

なぜなら、神はすでに存在していたのだから。

それも、人間の形をしていたのだから。






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