カディスの緑の風

スペイン、アンダルシアのカディス県在住です。

現在は日本の古い映画にはまっています。

やはりどうしても好きになれない『東京暮色』…。

2013-09-16 23:41:04 | 映画










女の情念、情欲の世界を描いて秀逸なのは成瀬巳喜男監督である。

結婚も離婚も、再婚も経験した成瀬はまた、

林芙美子の熱烈なファンであった。

脚本も女性に手がけさせて、

女の気持ちに近づこうとした。

成瀬の映画には成瀬自身の影は見えない。

まあわたしはそれほど多くの成瀬映画を見ていないから、

一概には言えないのだろうけれど、

少なくとも成瀬巳喜男の女の描き方は

そのようにみえるのだ。



小津は成瀬とは全く違う。

自分の世界が確立されていて、迷いがない。

自分が思い描く人物像に、脚本も、俳優も近づけてしまう。



生身の女の気持ちに自分を近づけることはしない。


だから小津には女の情欲、情念の世界は描けない、というのが

わたしの今のところの結論である。

それはまあ大いなる仮定に

すぎないのであるけれど。

もしかしたら、小津にはそういう世界を

描こうと思う気持ちがなかったのかもしれない。




小津は女の心の複雑なあやを描くことなく、

妻たちをふがいない夫のもとに戻し、

恋に身をやつす若い女は不道徳、とばかり、

さっさとあの世へ送ってしまう。


小津が生きていた時代はそういう時代で

あったのかもしれない

しかしそこにわたしは小津が

男の視点しかもてなかった監督、

という姿をみてしまうのだ。




『東京暮色』は一般的には失敗作、と言われているが、

この作品を良い、と評価する人たちが

少なからずいるのは、おもしろい現象である。


わたしも失敗作だ、とは思わない。

ただ本来の小津の小津たる良さ、

それがあまり輝いていない、とでも言っておこう。


この映画を救っているのは、

山田五十鈴である、と思う。


自らも娘を捨てた母親である山田の演技は

とても男が考え出した演技とは思えない。

小津とは撮影中に意見の違いがあったのでは、と思う。



小津映画には最初で最後の出演であったが、

おもしろい、と思ったのは、二女の明子が

山田扮する母親の喜久子に会いに行く場面である。


明子が二人だけで話がしたい、というので、

近所の飲み屋へ連れて行き、そこの主人に、

部屋を貸して、とたのむ。

年老いた主人が快く、奥の部屋の布団などをかたして、

どうぞお使いください、と開けてくれた部屋で、

喜久子が座布団を持ち上げると、

その下にいろんなゴミが入っている。

それを手でかき集めてまた座布団の下に入れて隠し、

座布団を持ち上げずに

畳の上を引きずって動かすシーンがある。


小津が指示した演技なのだろうが、

その通りにやっている山田五十鈴の

顔が、ちょっとゆるんで、

笑いをこらえているようなのだ。


その顔のまま、山田は明子のほうをむいて、

さあ、おあがりなさい、とにこやかに招く。


このカットは明子が自分が誰の子なのか母親に

問いただしにきた場面なわけで、

真剣なピリピリした空気が流れているのだろうが、

山田のこのにこやかな顔が、

母親が娘に会えてうれしい気持ちを

あらわしているようにも思えてくるから不思議だ。



山田は小津監督と仕事をして、

「映画は監督さんのものだ、と知りました」と

言ったそうである。

小津にとっては往年の名女優を使うのは

原節子を使うのとは違った感触で

あったことであろう。


また有馬稲子の役は最初は岸恵子を想定していたが、

岸の都合がつかず、

有馬起用となった、ということである。

岸恵子の明子だったら、どんなふうになっただろう。

有馬稲子より存在感があるし、もっとずっと

芯のある女性にも見えるから、

せりふもそれなりに違ったものになったかもしれない。




しかし大きな白いマスクをした原節子、やはりおかしい!

それに紀子三部作のような輝きがない。

もちろん、年齢を重ねてきて

顔の輪郭がだいぶ崩れてきてしまっているし、

役柄とはいえ、どこか寂しげな表情になっている。


髪型や着物のせいかもしれないが、

山田の存在感、有馬の熱演のはざまで、

そういう容色の衰えばかりが

目についてしまって、残念である。

喪服姿などを見せたのは小津の意向であろうが、

二歳の娘に対しても、抱上げたりするシーンはないし、

子供に話しかける姿も、よそのおばさんみたいだ。


それと、映画の筋とは関係なさそうな登場人物の数々。

まず深夜喫茶にでてくる不可解な男。

紅茶に砂糖を入れてスプーンでかき回しておもむろに

カップを持ち上げて紅茶をすする。終始無口。


もう一人はバーのカウンターに座っているベレー帽の男。

明子が出ていってから、バーテンに、明子のことを聞く。

バーテンが「あいつはズべ公ですよ」と言うと、

「女はズべ公のほうがいいんだ」と

いやらしい顔つきで言う男。


それから深夜の警察で女の腰巻をぬすんだ咎で

取り調べを受けている

痩せた貧相な男が出てくる。

「いいえ」と二回声を発するが

その声が女のような高い声なのだ。


こういう胡散臭い人物が出てくるのはなぜか。



踏切の向うに見える鳳凰眼鏡店の大きな目玉の不気味な看板。

踏切はまるでギロチンのようにみえるし、

また雑司ヶ谷の坂道の向うに、暗い街灯にボーっと

浮かび上がる背の高い電柱はまるで十字架のようだし、

そのまた向うの木立か何かが墓場のように不気味である。


明子の結末を暗示させているのだろうけれど、

あまりに意図的で、小津らしくない、と思った。





だが、小津のすごいところは、

映画にリアリティはあまりなくても、

それがリアルに見えてしまうところだろう。

『東京暮色』にでてくるような家族が、

実際に現在でもいるような

そういう錯覚に陥らせる。


なぜか、はわからない。

「小津の魔法使い」のなせるイリュージョンの世界である!


ただやはり、わたしとしては『早春』はともかく

『東京暮色』はどうしても好きになれない映画である。






























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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-05-20 03:34:37
男/女で区切って、小津は男だから女の気持ちが分からない、私は女だから分かる、というのはちょっと乱暴に感じました。
ほんらい、男だろうが女だろうが人の気持ちなんて分からないと思います。
明子(をはじめとした女性の登場人物)を現実の人物のように考えて視聴者側が人格を宿らせること自体、小津にとっては成功かもしれません(意図的かは置いておいて)。
とはいえ、私もこの作品のプロットはずいぶん不可解に思えますが、、
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Unknown (カディスの緑の風)
2019-05-20 03:45:44
ずいぶんと古い記事を読んでくださってコメントくださり、ありがとうございました。

ただ、私は男と女で区切って人の気持ちはわからない、と言っているのではないので、よく記事を読んでいただきたく思います。監督によって男であろうと女であろうと人の気持ちの解釈がずいぶん違う、ということを言いたかったのですね。成瀬監督の描く女のほうが、私にはずっと親近感をもって感情移入できるのです。人の気持ちはわからない、と結論付けてしまったら、なぜ映画をみたり文学作品を読んだりするのでしょう?
あなたはきっとまだお若いのだと思います。これからいろいろと経験なさって嬉しさに心躍らせ、そして苦しさを乗り越えていくことで人の気持ちもわかるようになるといいですね。
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