カディスの緑の風

スペイン、アンダルシアのカディス県在住です。

現在は日本の古い映画にはまっています。

『沈黙』と神の救い

2013-08-18 22:32:10 | 文学


先日の記事で、キリスト教の三原則「神・罪・救い」のことを

書いたが、その図式として、「神=救い→罪」ということを

わたしはある宗教哲学者のブログで教わった。


その図式でキリスト教文学や映画を見ると、

まるで、新しいメガネを得たように、ものが見えてくる。



遠藤周作の『沈黙』、この小説において遠藤のなげかけたテーマも

「神=救い→罪」という方程式をあてはめると、

すーっと納得できるような気がするのである。


篠田正浩監督の『沈黙』のDVDを見た。


小説よりずっと簡潔に要素のみを映像にしているので

遠藤の主旨が浮き彫りになってくる。


『踏絵』という拷問、なぜキリストや聖母マリアの銅版画を

踏むことを、なにゆえにそれほど拒むのであろうか、

自分の命はさておき、家族や村全体の存否に

かかわることになるのに、と、

非キリスト教徒のわたしは

思ってしまうのだ。



そこにはもちろん己が信じ敬愛する主の像を踏みつけたり

唾を吐きかけたりすることへの罪悪感が働いていることは否めない。



だから『沈黙』という小説には「偶像崇拝」に対しての問題意識も

提示されているように思う。



しかしそれより小説の中の貧しきキリシタンたちの深層心理として

働いていたのは、共同体への背徳、つまり村八分、という

仕打ちではなかったか。

「転ぶ」ことで一生つまはじきにされる、その恐ろしさが

あったのではなかったか、

そんな風に、わたしは不遜にも思ってしまったのである。




しかしやはり最大のテーマは、「踏絵」に応じ、

「転ぶ」という背徳を選ぶことは生きている限り

その罪の意識を背負っていかなければ

ならない、ということである。






遠藤周作はその問いに対して、答えを出しているように思える。

それは、「踏絵」をすることは、「転ぶ」ことを拒否して

「殉教」するより、ずっと辛い、自己犠牲なのであり、

その罪の重さにより、神の恩恵はさらに大きい、と。



宣教師ロドリゴは、「教会」のために殉教する、という。

しかし自ら「転んだ」恩師フェレイラの言葉にロドリゴの

心は乱れ苦しむ。





「お前は彼等より自分が大事なのだろう。

少なくとも自分の救いが大切なのだろう。

お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き上げられる。

苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。

お前は彼等のために教会を裏切ることが恐ろしいからだ」



「わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。

司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら」


「たしかに基督は、人々のために、たしかに転んだだろう」

「愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」



(『沈黙』遠藤周作著 新潮文庫 P.264, 265)





キリスト教信者としては冒涜ともいえる疑問を持ち続ける

遠藤周作は、殉教者を奉り背教者(転向者)を

拒絶するキリスト教の歴史に一石を投じ、

神の恩寵の意味を問い続けた。



遠藤の描く神の恩寵は、倉田百三の「出家とその弟子」における

「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という

その言葉に通じるものがある、とわたしは思う。

















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