モナの続報
1月18日(日本時間)、再びモナと話した。16日、ペチョンヴィルのイタリア大使館で野宿していたモナは翌日、友人の紹介で、そこからケンスコフ方面に徒歩で1時間ほど登った家に移動していた。家の主人は、着の身着のままで現われたモナと娘に着替えと簡単な食事をくれたそうだ。やっと、野宿から解放された。水も近くにあるらしい。
翌日(17日)、モナは早朝から、避難先の家からポルトープランスの自宅へと歩いた。食料を手に入れるためである。昨日、食事をくれたが、今日からは自分たちの努力で確保しなければならない。モナの自宅があるパコ地区(日本大使館もある)までは、下り道を徒歩で約2~3時間の距離だ。そこで何とか食料(援助物資は届いていない)を手に入れたモナは、また歩いて避難先の家に帰った。おそらく往復で6時間以上、歩いただろう。
電話のモナの声は、先日とは違い、ひどく疲れた様子だった。
「ポルトープランスはひどいありさまよ。建物がみんな壊れて、死臭とゴミと糞尿の匂いがひどい!あんなの見たことない。鼻を何度洗っても、匂いがとれない」
そう話したモナは動揺していた。
私もポルトープランスの匂いを覚えている。ゴミが燃える匂いだ。街中で一日中くすぶっているゴミの匂いは、いつのまにか私の記憶の中に埋め込まれていた。今でも、日本で同じ匂いをかぐと、ポルトープランスの街中へとフラッシュバックすることがある。だが、慣れ親しんだその風景は、もはや存在しない。モナは、その匂いを一生、忘れることはできないだろう。今後も、同じ匂いを嗅ぐたびに、被災時の記憶がよみがえるに違いない。
「また電話して。みんな電話をしてくれるように言ってね」
モナは何度も何度もこう言った。
残念ながら、このような大災害では個人ができることは、限られている。私と同じように、日本でハイチの友人を思い、何もできない自分に苛立ちを感じている人たちは多い。私が今できるのは、電話で励ますことしかない。
写真は、モナ
1月18日(日本時間)、再びモナと話した。16日、ペチョンヴィルのイタリア大使館で野宿していたモナは翌日、友人の紹介で、そこからケンスコフ方面に徒歩で1時間ほど登った家に移動していた。家の主人は、着の身着のままで現われたモナと娘に着替えと簡単な食事をくれたそうだ。やっと、野宿から解放された。水も近くにあるらしい。
翌日(17日)、モナは早朝から、避難先の家からポルトープランスの自宅へと歩いた。食料を手に入れるためである。昨日、食事をくれたが、今日からは自分たちの努力で確保しなければならない。モナの自宅があるパコ地区(日本大使館もある)までは、下り道を徒歩で約2~3時間の距離だ。そこで何とか食料(援助物資は届いていない)を手に入れたモナは、また歩いて避難先の家に帰った。おそらく往復で6時間以上、歩いただろう。
電話のモナの声は、先日とは違い、ひどく疲れた様子だった。
「ポルトープランスはひどいありさまよ。建物がみんな壊れて、死臭とゴミと糞尿の匂いがひどい!あんなの見たことない。鼻を何度洗っても、匂いがとれない」
そう話したモナは動揺していた。
私もポルトープランスの匂いを覚えている。ゴミが燃える匂いだ。街中で一日中くすぶっているゴミの匂いは、いつのまにか私の記憶の中に埋め込まれていた。今でも、日本で同じ匂いをかぐと、ポルトープランスの街中へとフラッシュバックすることがある。だが、慣れ親しんだその風景は、もはや存在しない。モナは、その匂いを一生、忘れることはできないだろう。今後も、同じ匂いを嗅ぐたびに、被災時の記憶がよみがえるに違いない。
「また電話して。みんな電話をしてくれるように言ってね」
モナは何度も何度もこう言った。
残念ながら、このような大災害では個人ができることは、限られている。私と同じように、日本でハイチの友人を思い、何もできない自分に苛立ちを感じている人たちは多い。私が今できるのは、電話で励ますことしかない。
写真は、モナ
私も報道を見ていて自分の無力を感じているところです・・。(ハイチ支援に限りませんが)早く援助機関で活躍できるようになるためにもがんばらなくてはと思っています。