いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(538)「忍耐する喜び」

2015年10月05日 | 聖書からのメッセージ

 へブル人への手紙」10章32節から39節までを朗読。

 

 36節「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。

 

 4月に入り、世間はいろいろな意味で新年度といいますか、新しい生活が始まり、またそれぞれの使命、与えられた身分・役割も変わって、新しい希望に満ちた時であります。残念ながら高齢化した私たちはそういうものと縁がなくなって、千日が一日のごとく、日々を過ごしています。しかし、そう言っても、僅かずつ変わってきています。しかし、若い人たちのいろいろな変化を見ていますと、時が確かに確実に進んでいるとつくづく思わされます。子供の成長を見ているとそう思わされます。幼稚園に入園したと思った子がもう小学生になる。また幼いと見えた子供たちが小学校を卒業し、中学生になり、驚かされます。時は確実にすすみ、あらゆるものが変って行きますが、その時の流れを待てない思いがあります。「もう少しはやくこうなってほしい」、「もっと早く」と焦る思いにせかされます。人は大体そうですね。「早く」という。子供たちの成長を私たちは「もうこんなになったのか、早いな」と思いますが、恐らく親にとっては「やっと来たか」、「もっと早く成長して、手を離れてくれれば」と思うでしょう。そばから見ている私たちは、「早い。そんなにも年月が過ぎてしまったのか」と思いますが、親にとってはそれこそ“這(は)えば立て、立てば歩めの親心”というように、「少しでも一日でも早くこうなってほしい」という期待と願いが常に先行します。そのために焦(あせ)る思いが恐らく抜けない。「まだ、こんなこともできない」というように失望したり嘆いたりするに違いないと思います。そもそも人は、大体せっかちです。何か事をしようとすると、それがトントントンと順調に行って、早く結論が出てほしい、結果がほしいと期待します。ところが、現実の生活はなかなか自分が思ったように、願ったように事が進まない。時間ばかりたって一向にらちがあかない。なかなか結論が出ない。いつまでたっても宙ぶらりんの状態が続いていると、私たちはイライラしてみたり、焦って不安になったりしているわけです。

 

 信仰生活は、まさに“忍耐”です。36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」とあります。「神の御旨を行って約束のもの」、これは何のことか? 聖書の御言葉を信じて、神様のなさるわざ、神様が備えてくださる恵みを頂くには「忍耐である」と。いうならば、相手様に任せることです。信仰とはそういうものです。私たちが信じて委ねるとは、委ねた御方のご都合に合わせなければいけない。任せていながら「何時までにしてくれ」、「早くこうしてくれ、まだできんか」と、横やりをしょっちゅう入れ続けたら、成るものも成らないのであります。ここが信仰の試される大切なところです。だから、御言葉を信じて、いろいろな具体的な事柄の中であれをし、これをし、御言葉に従って神様の御旨だと信じて、「主に仕えてこれをさせていただこう」と。ところがそうしながらも、「早く何とかしてくれないか、もうこんなことは早く御免になりたい」「早く結果が見たい」というのは人の人情なのです。そこで神様の備えてくださる時と、人が求めている時間といいますか、それがうまく合わなくなってイライラする。「神様はいつまで黙っているのだろう、何もしてくれない」と、そのような思いをする。ところが、信仰生活は神様にすべてを委ねること。神様の時の中に自分を明け渡してしまうことに他なりません。だから、「神様、どうぞ、このことを御心にかなうように取り計らってください」と祈り、委ねて待ち望んで行きます。しかし、「お祈りしたら、もうそろそろ仕上がる頃ではないか」と思っている。そのうち催促をして、「神様、まだでしょうか、まだでしょうか」と、「どうか、どうか……」と言い続けるわけでしょう。ところが、引き受けてくださった主はきちんと全うしてくださる時を定めて、事を導いてくださいます。いま私たちは神様のわざ、御業の中に生きている者であります。それは、神様がなさるわざに徹底していくことです。だから、私たちに求められることは、36節にありますように「忍耐である」というのです。待つということです。耐え忍んでいく。耐え忍ぶ、忍耐といわれると、ものすごく悲壮な感じがしますが、ここでいう「忍耐」とは、神様に期待することなのです。だから、望みを持ちなさい、ということでもあります。望みがないけれども、我慢していればそのうち何とかいい便りが来るに違いないから、来ないかもしれない、そのまま終わるかもしれないけれども……、という意味での「忍耐」ではなくて、「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め」(27:14)と「詩篇」 にありますが、まさに神様に期待する。神様のわざの中に自分を委ねる。そのためには、いま自分が受けている問題や悩み、あるいは与えられた重荷といいますか、負わせられた事柄、「これは神様のわざだ」と認める。神様の力によって今この事が始まり、そして神様はそれを導かれる御方なのだと信じていなければできません。自分がやっている、あるいは、人がこれをしているのだと思うから、その人をせっついて、「あんた、何をしているのよ、もっと早くやってよ」と焦る。自分が何とかしようと思って、徹夜してみたり、あちらに走りこちらに走り、あの人この人を動かして事を進めようとしますが、そのようにいくらやってみても、主の許し、神様がよし、とおっしゃらなければ事は進まないのです。だから、私たちに求められていることは、「待て」、ということです。主を待ち望むことです。

 

 「イザや書」30章15節から17節までを朗読。

 

 15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」。ここに「立ち返って」とあるように、まず神様に心と思いを向けること、神様を認めること。その後「落ち着いて、穏やかにして」とありますが、これは「忍耐」であります。神様を信頼して、神様がわざを進めてくださると委ねる。全ての時を導いてくださることを信じていく。そして、神様の時が来るのを待つのです。神様がわざを始めなさる時を待つ。これが私たちの信仰です。だからここにありますように「落ち着いて、穏やかにして信頼していく」。神様に寄り頼む。落ち着かなければ駄目です、忍耐しなければ。焦っては駄目ですよ。“早く芽を出せ柿の種”という言葉がありますが、「早く芽を出さなければ、ちょん切るぞ」と、神様に向かってそのくらいの意気込みで「神様、早くやってくれ、やってくれなきゃ、あんたの首をちょん切るぞ」と言わんばかり。時に私たちはそのように思う。そうではない。「落ち着いて、穏やかにして信頼していく」。どうでしょうか? いま落ち着いていらっしゃいますか? 座っていながらも、「あれはどうだろうか」、「今日は時間がないな、困ったな」と、心は常に運動会のようにぐるぐる走り回っている。それでは神様を信頼したとは言えない。言えないどころか、私たちはその約束のものを受けることができない。恵みにあずかることができないのです。

 

15節の後半に「しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」とあります。まことにそのとおりです。私たちは忍耐がいちばん苦手です。ここがいつも問われます。忍耐、耐え忍んでいく。忍ぶというのは、まさにここにあるように「落ち着いて、穏やかにして信頼する」ことです。世間で言う、忍耐とか我慢というのはそうではありません。とにかくどうなるか分からないが、ジーッとしておけということでしょう。そこには望みがありません。ひょっとしたら何か事があるかもしないと。ベテスダの池の水が動くのを待つような忍耐であります。万が一動くかもしれない、そのとき最初に入った人は病気が癒されると信じて、待ち続ける。36年も待ち続けた人の話があります(ヨハネ5:2)。待つことにははっきりした望みがなく、受けるべき結果が分からないままに待ち続けなければならない。ところが、神様が私たちに待てといわれるのは、信仰による忍耐といいますか、信仰を持って神様に期待して待つことで、そこには望みがあります。決して失望することではありません。必ず神様はそれに対して答えてくださる。だから15節に「落ち着いて、穏やかにして信頼する」と言うのです。私たちの信仰は「忍耐」、しかもその忍耐は、神様に対して泰然自若といいますか、全幅の信頼をすることに他なりません。神様がご存じで、この事を導いてくださる。ところが、私たちはそれができないでいつも失敗するのです。

 

 16節に「われわれは馬に乗って、とんで行こう」と言われます。馬といいますのは、その当時としては早い乗り物であり、力のあるものであったでしょう。今は馬なんて使いませんが、昔はそうだった。だから、馬に乗っていこうと。いい道がある、あるいは誰か助けてくれる人がいる、という話に乗っかって走りだす。これは分からないではありません。また私たちは皆経験済みです。私もそういう経験があります。殊に病気などするとそうです。「こういう病気になったら、どうすれば早く治るだろう。どこへ行けばいいだろう」とあれこれ思う。あそこにここにといろいろな情報を求めます。また、名医といわれる人に当たったら生き延びるのではないか、と考えるでしょう。しかし、それこそが馬に乗っていくことです。16節に「それゆえ、あなたがたはとんで帰る」と、そして「また言った、『われらは速い馬に乗ろう』と」。もっといい方法があるに違いない、もっと早い解決方法があるに違いない。ところが、どんな方法をしてみても追うものは早い。不安と恐れ、私たちを追いかけて来る恐怖といいますか、恐れはもっと早く私たちを捕えてきます。そしてついには17節にありますように、孤立無援といいますか、お手上げの状態に陥ってしまう。これは私たちがいつも経験する事態であります。幸いに私たちはたとえそうなっても最後に拾ってくださる御方がいらっしゃる。救ってくださる御方がおられますから、18節に「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される」と。神様のほうが私たちのために忍耐してくださる、待っていてくださるのです。これは逆であります。私たちは神様のわざを、恵みを待つ者であって、決して神様を待たせてはいけないのです。神様は恵もうとされているのに、私たちがあちらに走り、こちらに走り、神様の前から消えてしまうものだから、神様は恵みをジーッと持ったまま私たちが帰ってくるのを待っているのです。だから、私たちが早く主に立ち返る。15節に「立ち返って」とあります。まず神様の前に立ち返ることです。まず神様を前に置くこと、神様のいますことを信じて自分をそこで委ねる。そして忍耐する。主が結論を出してくださる時を待つ。

 

 私は最近しみじみそう思いますが、いろんなことの結論といいますか、人生の結論はいますぐに出ません。私たちはまだ途中であります。やがて最後、生涯が終わったときが最終的な結論であります。だから、よく家族の問題だとか、いろいろなことで悩んで、「もうこれでうちはおしまいです」と言われる。そうではないのです。まだ途中なのです。「いや、こうなったらあの子は変わりようがない」とか、そう言って失望されます。しかし、人は神様の手に握られてこの地上に置かれている。神様のわざの中にあるのです。だから、一つ一つ神様の時を備えて導いてくださることがありますから、人が勝手に早まって結論を出してはいけないのです。「これは駄目です」とか「こうなったらおしまい。この人は救われません」と決めてかかる。これは私たちがいちばん犯しやすいことです。すぐ私たちはそうやって焦(あせ)るのです。この事を忘れたい、手を引きたいと密かに思っているから、「もうこれは駄目」とやってしまいます。そうではなくて、横へ置かないで、常に主に望みを置く。「神様がこの事を進めてくださる」と。

 

 「詩篇」104篇19節から24節までを朗読。

 

 104篇は1節からズーッと続いていることですが、ここに歌われていることは何か? 神様が全てのものを創造し、今も力ある御手をもって運行しておられる。全てをみ心のままに導いておられるのだ、と歌われています。その一部分が今お読みいたしました19節以下に、「あなたは月を造って季節を定められた」。春夏秋冬、私たちはこの一年を通じて自然の移り変わりの中に生きています。それを運行しているのは誰かと? それは神様なのです。神様がそれぞれの月を造って、日を……、そして「日はその入る時を知っている」とあります。一日の営み、朝、日の出とともにすべてのものが活動を始め、そして一日が終わるとき、日が沈んでいく。その出るとき、入るときの全てのことをきちんと神様が定めてくださる。そして、20節に「あなたは暗やみを造って夜とされた」と。神様は地球が太陽の周りを回ることによって、昼があり、夜がある。夕暮れになれば日が沈んで、そして夜の闇が来る。これが私たちには必要なことです。いくら人が……、24時間体制で世の中が動いているように思いますが、しかし、神様の定められた昼と夜という区別、昼の活動、夜の休息のリズムというのは、これは神様が定められた恵みの時でしょう。

 

 20節に「その時、林の獣は皆忍び出る」と。夜行性の動物、夜になると活動を始める動物、これも神様の定められた生き方です。そして21節に「若きししはほえてえさを求め、神に食物を求める」。ライオンや猛獣といわれるものたちも、神様がそれらに食物を与えてくださる。そして22節に「日が出ると退いて、その穴に寝る」。夜忍び出て、餌(えさ)を求める夜行性の動物、そういうものも日が昇るにつれ、ねぐらに帰っていく。その営みの全てを神様が一つ一つ備えておられる。そして23節に「人は出てわざにつき、その勤労は夕べに及ぶ」。日の出とともに人が起き出てきて、それぞれの勤労の業、働きに就くことになる。夕暮れになるまで労働が与えられる。これはすべて神様のわざ、ですから24節に「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう」と詠嘆しています。神様のわざは数えることができない。それどころか「あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている」とあります。神様が全てのものを知恵をもって造ってくださった。それは自分を含めてです。「私は私が造った。私の知恵で頑張った」というのではない。私もまたこの神様の創造の知恵の中にあって造られ、そして生きる者とされている。そればかりか、食べるものことごとくを、日を照らし、雨を降らせ、春夏秋冬、時を導いて生かしてくださる主、いつまでも若くないようにちゃんと年を取るように造ってくださった。それはそうでしょう。我々がいつまでも若かったら若い人が困ります。だから、神様はちょうどいいように全ての御業を……、24節に「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう」。私たちはそれを測り知る、知り尽くすことはできません。「地はあなたの造られたもので満ちている」。神様の造られた一つ一つの事柄で満ちている。そして、神様の造られたものが今も神様の御心にかなって一つ一つ事が進められている。神様の力の中に私たちは生かされているのです。だから、私たちがそのことを信じて、神様の約束のものを頂く、神様からの祝福と恵みにあずかるのは「忍耐」です。神様の約束の時を信じて待つことです。だから、私たちの日々の生活、家庭の問題、周囲のご主人や奥さん、いろいろな人のいろいろな問題の中に私たちは置かれていますが、しかし、どれ一つとっても神様によらないものはありません。人が不幸だといわれる事柄や事態も、病気だといわれる事も、それもまた神様のなさるわざです。大切なのは私たちがそこで主に立ち返って「穏やかに寄り頼む」こと、それが大切なのです。忍耐して主の時を待つ、主を待ち望んでいくこと、これが私たちに求められていることです。そうするとき、神様はその一つ一つの事の中を通して私たちを楽しませ、喜ばせ、慰めも与えてくださる。そればかりか、神様ご自身を賛美し、誉めたたえ、感謝する者と変えてくださる。だから、最後まで諦(あきら)めないで、徹底して神様を信じて待ち望んでいく。今も神様のわざの中に生かされ、用いられている者であることを信じていく。そして、神様のわざが完成する時が必ず来るのであって、これは決して遅くなることはない。

 

 「へブル人への手紙」10章36節に、「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。私たちが受ける、与えられる問題や事柄、その一つ一つ、どれ一つとっても神様の御旨によらないものはない。御心によって今この問題が与えられ、私に求められている事があるに違いない。そのことを信じて、忍耐して、たとえ見える状態がどうであれ、こうであれ、絶えず信じ続けていく。何を信じるのか? 神様を信じ続けるのです。事態や事柄、人を信じては裏切られますから、そうではなくて、主を信じて御言葉にしっかりと寄り頼んでいく。37節に「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」。これは小預言書といわれる預言者ハバククの預言の一節であります。「遅くなることはない、必ず臨む」(ハバクク2:3)と。神様は必ずご自分の時にしたがって一つ一つの事を定めなさる御方、そこで私たちが身を低くして、謙遜になって神様を待ち望んでいく、神様に期待していく。これが私たちの信仰に生きる基本であります。ともすると、私たちはそこを忘れているのです。つい目の前の問題や事柄に思いが捉(とら)われて「いつまでこんな状態が続くのだろうか」、「どうしてこんなことを私がしなければならない」とつぶやくのです。不平不満をつぶやいていると、かえって私たちは焦る、気持ちが疲れます。そうすると、神様を信じる信仰が薄らいでといいますか、サタンの働くところに変わってしまいます。そうならないために、いつも御言葉に立ち返って、心を主に委ねていくことを努めるのです。「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。まことに主を待ち望んで、神様のなさるわざが必ずそこにあることを信じていく。そうしますと神様は時を定め、いろいろな事を起こして、最も善いことといいますか、神様の御心にかなうことを具体化させてくださいます。何よりも私たちすべての者を救いにあずからせて、主をともに喜ぶ者へと造り替えてくださるのです。これを待ち望んでいく。

 

 先日もある兄弟が、自分のかかわりのある人のことで大変悩んでおられた。いくら自分がその人を説得しても言う事を聞いてくれない。見ているとハラハラドキドキ、こんなことをしていたら将来が危うくなる。「自分は居ても立ってもおられない。先生、お祈りをしていてください」と。「お祈りをしていてください」と頼みながら、「先生、ああしましょうか。こうしましょうか」と悩む。「先生、お祈りをしていてください」と言うから、「お祈りをしているから、神様の時を待ちましょう」と言うと、また電話をしてきて、「先生、どうなんでしょうか……」、「焦りなさんな、そんなに焦らなくてもいい」、「いや、今これをしなければどうなるか分からない」、「大丈夫、神様を信じなさい」と、彼は一応クリスチャンですけれども。信じないから……。家内が電話をとって聞いた後、「あの人は暗い、どうなっているの」と言うから、「こういう状態で、本人が落ち込んでしまっているから……」と。本人が落ち込んでしまっているから、向こうの世界から掛ってくるような電話です。「焦りなさんな、落ち着いて穏やかに信頼して、待ちなさい!」と。「彼女が言う事を聞いてくれない。あの人に頼もうか。この人に……」「しなくていい。人の心を動かすのは神様だから、神様が必ず働かれる時があるから、祈りなさい、待ちなさい」と。とうとう私もそこまできつく言ったのです。すると、彼は「分かりました」と言って、それから数日、一週間ぐらいでしたかね。電話がなかったのですが、昨日電話がありまして、えらく調子がいいのです。「どうしたの?」と「いや、先生、先生の言われたとおりです。人の心を変えてくださるのは神様」。「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる」(21:1)と「箴言」にありますが、神様が彼女の心を動かしてくださった。

 

 私は彼ばかりでなく、それを自分自身に置き換えてみて、本当にこんなことってあるのだなと思うのです。つい焦るのです。「ああなったらどうしょうか」と、信じながら、お祈りしながら、「神様、どうか、どうか」と。神様はご存じだから、信じて、今、しなければならないことがあったら忠実にそれを果たしてさえおれば、そのことの結果は神様が出してくださる。だから、人が勝手にこうなったらと決めても、これは一切役に立ちません。神様の御業の中に生かされ、そして神様の定められた道を歩んでいる自分であることをしっかり信じて、そして「今与えられたこの事も、この問題もどれ一つ主によらないものはありません。どうぞ、主よ、あなたの時を導いてください」と委ねていこうではありませんか。まさに36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」と。この主を待ち望んで、神様の出してくださる結論を期待しましょう。必ず道を備えてくださる御方でありますから、この御言葉に信頼して、主を待ち望む。「強く、また雄々しくあれ」とありますから(ヨシュア記)、主を信じて待ち望み、主を喜ぶ者とされたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


最新の画像もっと見る