いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(487)「立って歩め」

2015年03月03日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネによる福音書」5章1節から9節までを朗読。

8節、「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」。

エルサレムにベテスダという池があり、そこに「五つの廊があった」と語られています。「廊」とは、恐らく長い渡り廊下のようなもので、日をよけたり雨風をしのぐ程度の簡単なものであろうと思います。そこに多くの人々が集まっていました。「病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが」と3節にあります。いろいろな病気を抱えて悩みの中にある人たちがその池の周囲に身体を横たえて待っていた。ここは病院ではありません。池の周囲であります。なぜそうしていたかというと、3節の後半に「彼らは水の動くのを待っていた」という。「水が動く」というのです。4節に「時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがある」と。これは具体的にどんなことであるのか分かりません。水が動くといっても、渦巻が起こるのか、さざ波が立つのか、どのような具体的な現象が現れるのか分からないのです。いずれにしても、そこに普段とは違う異変が起こる。それは神の使いが来てその水を動かすと言われる。そのときに真っ先に池へ入る、4節に「水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」と信じられていた。まず一番最初に入らなければならない。これが条件です。二番目では駄目です、一番でないと。皆、その時を待っていたのです。実に頼りない話です。いうならば、宝くじに当たるのを待つようなものであります。水が動くのをジーッと待って、動いたとなるとすぐに入る。というのは、彼らは自分の病気を癒(いや)す方法がなかったのです。医者に掛って治るという状況ではもはやなかった。足のなえた者であるとか、盲人、やせ衰えてどうにも生きる気力がないとか、そういう意味で医者から見放された状況。そういう人たちが一縷(る)の望みを持つ、僅(わず)かな、「これで何とかなるのではないか」という思いがあって、ベテスダの池のほとりにいたのです。水が動く、それがいつであるかは予測がつかない。海であれば、満潮干潮など毎日予測ができます。しかし、池ではそれができない。何も分からないが、こうなるに違いないと待ち続けている。

これは彼らだけの話ではなくて、実は私たちもそうです。日々の生活の中でもいろいろなことで、「これは仕方がない。これはもう無理だ」「どうにも方法がない。でもひょっとしたらあの話が上手くいくかもしれない」「この人の言うことを聞いていたらいいかもしれない」と、この世の様々な仕組みや、人の言葉や経験、そういうものを聞きかじって、それに僅かな望みを託して生活している。ベテスダにいる人たちはある種の特殊な人たちというわけではなくて、実は私たちも「病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者」です。「いや、私はそんなやせ衰えておりません。体重が増えすぎて困っております」と、確かにそうかもしれませんが、生きる望みがない、喜びがない状況はまさにこの人たちと同じです。私たちも目が見えない、足が悪くて歩けない。いうならば、物事の判断がつかない、正しい道を歩めない。そのように私たちは生きる力がなくなる。では、生きられないかというと、そうではなく、「あれがあるから大丈夫」「これがありさえすれば」と、どこかで何か握っているものがある。私たちは何もかも希望を失ってしまったら生きることができません。絶望は、人を死に追いやってしまいますから、どんな人でもどこかで希望を持つのです。

いま世界は経済的な問題からヨーロッパや各国がいろいろな不安から落ち込んでいます。あるいは環境破壊が進んだり、日本は政治家がけんかばかりして一向に物事は進まない。全てのものが混とんとして、正しい歩み、物事を正しく判断するということができない。まさに3節にいわれている人たちの姿であります。その中で、では完全に絶望しているかと言われると、絶望しているわけではない。じゃ、何か希望があるかというと、まさに「ひょっとしたら水が動くかもしれない」、「そのときいちばん最初に入ればきっとよくなるに違いない」という、何ともしれない望みを持って待つ。これがベテスダの池の周囲に集まっていた人たちの姿であります。これはまた私たちの生活です。

5節に「三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった」とあります。38年という長い間、一つの病気で苦しんできた、その病気がこの人の性格というか、その人の持って生まれた特質になっています。病気が身に付いたものになります。この人はそこにいて「何とか治りたい」と思っていた。イエス様はその人に出会うのです。6節に「イエスはその人が横になっているのを見」と、横になって待っているのです。周囲の人からいろいろな情報を得たに違いありませんが、イエス様はその人が「長い間わずらっていたのを知って」とありますから、38年という長い間病気をして待っている人だと知りました。その人にイエス様は「なおりたいのか」と言われた。38年も経過していますから、これはここにいるのが自分の人生と思っていたかもしれない。慣れてくると「仕方がない。諦めよう」と。しかし、生活の惰性といいますか、これまでこうして来たからと、やめるわけにはいかない。だからイエス様はその人がまだ治りたいという意欲があるのかどうかを尋ねておられます。「なおりたいのか」と。それに対して病気の人は、7節に「この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』」と。
この人は治りたいのだが、自分が治らないのは、「水が動くときに真っ先に入れてくれる人がいない」と言うのです。水が動く時に一番最初に入れば癒される。そう信じているのです。ところが一番最初に入ろうとすると、他の人が入って来て自分が一番になれないから、今もって病気が治っていない。だから、それを解決する方法は、私を一番に入れてくれる人がいてくれたらいい。何かそれはまともな理屈らしい理屈ですね。聞いていると「ああ、そうか、それじゃ俺が一緒にいて助けてやろうか」という話になりそうですが、最初に入ると言っても、ここに「病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者」がたくさんいるわけですから、足のなえた人が一番に入れるわけがないのですから、一番に入れる人は、本来病気ではないと言えます。だから、最初に入って元気になって帰った人がいたなら、そもそも一番に入れるわけだから病気ではない。だから、元気になるというのはそういう意味だろうと思うのですが、彼らはそうは思わない。自分も最初に入れさえすれば癒される、と思っていたのです。このときイエス様は「そうか。それだったら、わたしが時々来て様子を見て動いたときすぐにお前を入れてやるから」と言われたのではありません。このときイエス様は何とおっしゃったか、8節に「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」と。彼は横になっているわけです。ですから、起きること、そんなことは自分ができるはずがない。水が最初に動くときに入れないぐらいの弱い自分が起きられるわけがない。だから、助けてくれる人がいればできる、というのが彼の話です。そこへイエス様は「起きよ」と言われる。「起きて、あなたの床を取りあげる」、「床を取りあげる」とは、それまで自分が慣れ親しんできた、こうであると決めていた、自分は病気だからここにおるべきだ、と思い込んでいた。そういう既成概念といいますか、固定観念に彼は捉(とら)われているのです。自分の病気が治らないのは水が動くときに入れてくれる人がいないから、入れてくれる人がいれば病気が治る。ところが、いないからここにいなければならないと、そういう循環思考にはまっている。同じ所をぐるぐるまわっている世界。それ以外に自分が癒される道はない。こうしかならないと思い、諦めている。そこでイエス様は「なおりたいのか」と問われたのです。彼には治りたい意欲はあるのですが、何が邪魔をしているのか? 自分の決まった考え方、こうあって、次はこうなって、だからこうなっている、という出口のない世界に入り込んでいる。

この人だけではなくて、実は私たちもそうなるのです。私たちはいろいろな問題の中に置かれるとき、「これも駄目」「あれも駄目」「あの人もこうした。だからこれは駄目に違いない」「これは無理だよ、となると、これはこの道しかない。この道は険しい道でなかなか結果が見えないけれども、しかし、今となってはこの道を待つしかない」と思い込んでいる。問題の中で失望する、希望が持てないでいる。よく考えてみると、そういう一つの固定枠、決まり切った堅い自分の考えの枠の中に入り込んでしまっている。38年間も同じ所をぐるぐる考えている。「水が動いた。さぁ、入ろう」と思ったら、他人が入って、がっくりして、「やっぱり私は癒されない。これは水が動くとき入れてくれる人がいさえすればいいのだ。ところがいないから病が治らない」と。そこから外へ、自分は立って歩こう。そんなことは無理だよ、自分は」と思い込んでいる。そこにイエス様が「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と。これは彼にとっては想像のつかない言葉であります。今まで誰ひとり自分に向かってそんなことを言った人はいなかった。「私を助けて池に入れてくれる人がいません」と言ったら「それは気の毒だね」と同情して離れて行くかもしれない。このときイエス様は「起きて、あなたの床を取りあげ、そこにとどまるな」。私たちに対してイエス様はいつもこのことを求めておられるのです。「起きて、あなたの床を取りあげ」、自分が長年慣れ親しんだ生き方、歩き方など、いろいろなものを私たちは握っています。「このことはこうしかならない」「これはあの人がいなければできない」「私はこういう状態だし、こんな弱い所があるし、だからこれは無理、できない」、いろいろなことに私どもは捉(とら)われるといいますか、思いが枠の中にはまり込んでしまう。そこから一歩も半歩も外へ出ようとしない。「出られない」と思い込んでいるのです。ところが、イエス様は、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言われる、主のお言葉に従うのです。

このときこの人はその言葉を信じて、9節に「すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」のです。イエス様の言われた言葉を信じて、そしてやってみたのです。立ち上がったのです。すると、何と起きられる、そして今まで長年そこに横たわっていた床を丸めて抱えて帰って行くのです。彼にとっては未経験の事柄です。こんなことが自分にあり得ただろうかと。恐らく想像すらしなかったことだと思います。神様が私たちに求めておられるのは、まさにそういう自分の慣れ親しんだ、自分がこうにしかならないと決めてかかっている思いや考えを離れる。そこから一歩踏み出して行く。そして神様が備えてくださる新しい世界といいますか、そこに踏み込んで行く。これがイエス様の与えてくださった大きな祝福と恵みであります。だから、8節に「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」と。どうぞ皆さん、「これはもう駄目」だとか、「あれはもう無理だ」、「これはこうしかならない」、「私はこうだからこれでおしまい。もうこのまま天国にまで持って行きたい」、そういうこの世の思い、考えに縛られてしまうのです。

「イザヤ書」43章14節から21節までを朗読。

18節以下に「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。 19 見よ、わたしは新しい事をなす」とおっしゃいます。神様は過去のこと、昔のこと、過去の経験や、この世の様々な習慣、仕来たり、物の考え方、そういうものから一切離れなさいとおっしゃるのです。「思い出してはならない、考えてはならない」と。私どもはすぐに人の言葉や世の中のことを聞くのです。何か心配なこと、問題があったり、事が起こると、「これはどうなるやろうかしら、ちょっと聞いてみよう」と、あの人を見、この人を見る。そうすると「ああだよ」「こうだよ」といろいろなことを、いいこともあるでしょうが、心配になることもある。脅かされる。もっとひどいことを言われる。「それはこうなるよ、ああなるよ」「そうか、それではやめておこうか」と、ついそういうものに捉われる。私たちは今、誰によって造られ、生かされ、持ち運ばれているか? そのことを忘れてしまうのです。神様が私たちの全てのことをつかさどっておられるのです。だから、神様はイスラエルの民に18節以下に「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。 19 見よ、わたしは新しい事をなす」と。神様は常に新しいことをなそうとしてくださる。常にチャレンジです。私たちは新しいものへ踏み出さざるを得ないのです。その後19節に「やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか」、もう間もなく、それはすぐに起こると、新しいことを神様はしようとしておられる。

14節に「あなたがたをあがなう者、イスラエルの聖者、主はこう言われる、『あなたがたのために、わたしは人をバビロンにつかわし、すべての貫の木をこわし、カルデヤびとの喜びの声を嘆きに変らせる』」といわれます。ご存じのようにイスラエルの民がバビロンに捕囚として連れて行かれました。神様は彼らに「70年の生涯をそこで過ごせ」とおっしゃったのです。でも自分の国は消滅してなくなりました。だから、70年と神様はおっしゃるけれども、果たしてそれがどうなるか分からない。現実はバビロンという大国がなお隆盛を誇っている。この国は到底つぶれるはずがない、と思われる現実がそこにあります。だから、彼らはこのままズーッと捕囚のままで、異様人の国で自分たちの生活を続けて行くのだと、考えが固定されてしまう。そのときイザヤを通して神様が語ってくださった。「そうではない」と。ここに「あなたがたのために、わたしは人をバビロンにつかわし、すべての貫の木をこわし」、わたしは人を起こしてバビロンという国を壊してしまう。その全ての扉を開いて、今までバビロンの人たちが自分たちの力を誇って喜び、歓声を上げていたその喜びの声を悲しみと嘆きに変えてしまう、とおっしゃるのです。でも、現実バビロンという国は大国でありましたから、到底つぶれそうにはない。でも神様は「必ず、そうする」とおっしゃる。事実その後ペルシャという国を興(おこ)されました。そのペルシャ帝国がついにバビロンを打ち壊してしまう。ペルシャ帝国のクロス王を神様は用いてバビロンに捕囚になっていたイスラエルの民をかつてのエルサレム、廃墟となった所へ彼らを送り返して、新しい神の国イスラエルを再創造してくださったのです。彼らはそんなこととはつゆ知らない。

ですから16節以下に「海のなかに大路を設け、大いなる水の中に道をつくり、17 戦車および馬、軍勢および兵士を出てこさせ、これを倒して起きることができないようにし、絶え滅ぼして、灯心の消えうせるようにされる。主はこう言われる」。この長い所は「主はかく言われる」という、主という御方がどういう御方でいらっしゃるのか、「主」を形容している部分であります。それを語っている。「海のなかに大路を設ける」とは、あのエジプトから救い出された時、紅海に道を開いてくださった神様。そしてエジプトの軍勢を引っ張り出して海の中に沈めてしまわれた神様。そのことが16,17節にいわている。そんなすごいこと、とてつもないことをなさった主が言われるというのです。18節に「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。 19 見よ、わたしは新しい事をなす」。神様は常に私たちにこのことを実行してくださるのです。

その「新しいこと」とはどんなことか? 「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」。「荒野」「さばく」、水無き所であります。そんな道があるはずがない、荒野に誰が好んで集まりますか。道があるとはそこに人がたくさん集まってくる場所です。魅力があるから、そこに多くの人々をひきつける物があればこそ道があるのであります。ところが、荒野に道は必要がない。ところが、その荒野をして人の集まる所に変える。あるいは砂漠、水のない干からびた乾燥しきった大地に川を流れさせてくださる。そんなことはあり得ない、到底不可能と思われることすらも「見よ、わたしは新しい事をなす」とおっしゃいます。しかも20節には「野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ」。「野の獣、山犬および、だちょうも」神様をあがめ、褒めたたえ、感謝賛美するものへと変えてくださる。「そんな馬鹿な、そんな動物が神様をあがめるはずがない」と、人はこうしかならない、こうあるはずだ、これ以外に有り様がない、と決めようとします。これを私たちは打ち壊さなければならない。私たちは常にそこに引っ張られる。家族の話やいろいろな人に「そうか、それじゃ仕方がない。こうしかならない。もう諦(あきら)めよう」、そうではない、神様が何とおっしゃるか? 「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」とおっしゃいます。まさにそういう捉われた思い、固定観念、私たちを縛りつけている思いを取り除いて、神様は「歩け」とおっしゃる。私たちの想像のつかない思いも掛けない新しいことをしてくださるのです。

何のためにそんなことをなさるかというと、21節に「この民は、わが誉を述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである」と。神様は「私たちを選んだ」とおっしゃる。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)。なぜ私たちを選ばれたのか? それはここにあるように「わが誉を述べさせるため」です。「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり」(ヨハネ15:16)とは、取りも直さず、神様の御業がそこを通して現わされる。そういう神様の道具として私たちを選んでくださった。私たちに常に新しいことにチャレンジして行くことを求めておられる。神様はそういう御方です。今までこうしていたから次もこうしよう。これからもそうであれ、という神様ではないのです。神様は千変万化です。様々な手段や方法を用いてどんなことでもなし得給う御方であります。その御方が私たちの人生、私たちの生活、私たちの一つ一つの出来事の中にも、これでおしまい、ほかに手はないということにならない。神様が「そのことに付いてわたしは手を尽くした。もう何も方法がない。もう諦めてくれよ」とおっしゃるのではない。いくらでも新しいことをする。神様が新しいことをなさる。「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」とおっしゃいます。

 「ヨハネによる福音書」5章8節に「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」。これが新しい業へ踏み出していく秘けつであります。「こうしかならない。これはもう駄目、これで諦めよう」と思い込んでいるそこから、もう一度立ち上がって、「いや、そうではない。神様が約束してくださって『歩け』とおっしゃいます。だから主よ、私は歩きます」と、確信を持っていま置かれている所、与えられている問題や事柄の中で神様が求められる所に従うのです。「そんなことに従えません。私の体は弱いし、もう年も年だし、経済的にも年金暮らしだし、これもできない、あれもできない、神様、そんなことを言われても私はできません」と、いつまでも床にしがみ付いて「この床から離れられません」と、そう言っている間は新しいことに出会えないのです。そうではなくて、たとえそうであっても、どんなときにでも、8節に「起きて、あなたの床を取りあげ」と主は私どもに迫っておられる。また私たちは期待されているのです。「見よ、わたしは新しい事をなす」とおっしゃいます。それはどんなことか、これは分かりません。しかし「荒野に道をもうけ、さばくに川を流れさせる」とおっしゃる破天荒な想像もつかない驚くことをしてくださる。これを信じて行こうではありませんか。だから、私どもは失望落胆しないで、望みを失わないで、それどころか、むしろ神様は私たちに更にもっと大きなことをしようとしてくださるのですから、信じて主に従って、踏み出して行く。これが私たちに神様が求めておられることであります。なぜならば、私たちを「わが誉を述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである」と言われます。神様の栄光を私たちが褒めたたえる者となるようにと。それはただ口でばかりでなくて私たちの生活や具体的なことをひっくり返して、神様が神業を現わしてくださる。「神様でなければなし得ない新しいことを私たちのうちになす」とおっしゃいます。ですから、私たちは失望しないで、常に神様のお言葉に信頼して、与えられた問題や事の中で主に従う。つい私たちは身を引くのです。守りに入っては駄目ですよ。そこでもう一度踏み出して、一歩前に、どうぞ、退(しりぞ)かないで一歩踏み出して行くとき、その次にさらにまた一歩、次々と神様が私どもの後ろから押してくださるのです。ですから、どうぞ、「こうしかならない」「これだから駄目だ」と思い諦めることはやめて、どのように神様が私たちを変えてくださるか、神様のわざがどのようになっていくか、大いに期待して行きたい。38年間も病の中に閉ざされていた彼は、初めてイエス様の力に触れて、イエス様のお言葉を信じて、言われるままに立ち上がったのです。「いや、立ったところで、私の生活はどうなるだろうか。歩いたところでその先がどうなるだろうか」と、つい私どもはその先まで考えますが、知恵がなく、浅はかでありますから、考えることが小さいので、思い煩いに閉ざされます。もっと大胆に大きく神様に期待して、神様は私たちを通して「わが誉を述べさせるために」と、「見よ、わたしは新しい事をなす」とおっしゃるのですから、主のお言葉を信じて、いま与えられている問題や事の中で諦めないで、自分の考えに縛られないで、そこを断ち切って起き上がって、床をたたんで主のお声に従って神様を信じて踏み出して行きたいと思う。そうするとき、この人のように新しい力に満たされる。大胆に主を褒めたたえる者と変えられる。

 このようなケースはこの人ばかりではありません。ペテロもそうです。「ルカによる福音書」5章に語られているように、イエス様が「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。彼が常識に捉(とら)われていたら、あるいは彼の経験に捉われていてそこから動かなければ、あの事態は起こらなかった。しかし、彼が「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と、信じて踏み出したときに、驚くべき新しいことが起こる。とうとう彼は人を漁(すなど)る者となり、漁師をやめてしまう。そんなところまで神様はひっくり返してくださるのです。

 また、ペテロとヨハネが宮に祈りのために出掛けて行ったときに、「使徒行伝」3章の記事もそうです。生まれながらに足のなえていた人がそこで物乞(ものご)いをしていました。二人が通りかかって立ち止まってジーッと見つめるから何かくれると思って期待したところが「金銀はわたしには無い」と言われ、がっかりしたのです。「しかし、わたしにあるものをあげよう」と、「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と、「立ちて歩め」と手を取って引き起こした。今まで歩いたことのない、生まれながらに足のなえていた人に、驚くべきことを、新しいことを神様はなさる。彼は喜んで躍り上がって神殿に入って行ったと。今まで一度も入ったことがない神殿、外にいて人の憐れみを乞(こ)うて生きていたのですが、ひっくり返るのです。

 私たちに対しても神様はそういう大いなるご期待を持っていらっしゃる。ですから5章8節に「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」。いつもどんなときにでも「こんなだから仕方がない。もう諦めよう」と、逃げないで、命のあるかぎり私たちは常に主が押し出してくださるところに大胆に答えて行きたい。応答して行きたいと思います。逃げないで「いや、主よ、そんなに言わないでください。私はおいぼれておりますから、もうろくしておりますから、そんな難しいことを言わないでください」と、逃げるから、神様は歯がゆい思いをなさっているのです。「わたしがする」とおっしゃる。神様のほうが知恵を与え、力を与えて下さる。常に主のチャレンジに大胆に応えて行く者となりましょう。それは信仰に立って歩むことに他なりません。「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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