いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(96)「救いの目的」

2013年12月26日 | 聖書からのメッセージ
イザヤ書41章8節から16節までを朗読。

10節「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」。

神様は尊いひとり子、イエス様の命を代価として、私たちを買い取ってくださいました。「あなたがたは、もはや自分自身のものではない」。気がつかないうちに、これは私のものだ、私が何とかしなければ、あるいはこれは私の責任だから、親だから、家の主人だから、夫だから、ということに心がとらわれてしまいます。そうすると、ああしようか、こうしようか、こうでなければ嫌だと言って、できない自分にぶつかります。知恵がない、力がない、健康がない、お金もない、また時間もない、残りの命もない。そうなると、いらいらして周囲に当たる。「あなたがしっかりせんからよ」と言って、息子や娘をしかり飛ばす。孫まで蹴飛ばすようになる。その原因は、自分のものだと思ってそこにしがみついているからです。神様は私たちがそのような者であることをご存じだから、買い取ってくださった。「代価を払って買いとられ」、自分のものではないのです。痛いとか、きついとか、病気であっても、それも主のものです。だから「ローマ人への手紙」14章に、パウロが「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」と語っています。私たちが神様のもの、キリストのものとなりきっていく。これが信仰生活の大切なあり方です。

私どもはいろいろなことで依固地になったり、頑固になります。それは自分を握っているからです。主のものとなりきったら、何が起こっても、私ではないのですから……。だから、他人から「あなたがこんなことをしたから、こうなったのよ」と言われたら、「いいえ、私じゃありません。神様がそうなさったのです」と言えばいい。主のものだったら、何をどのように言われようと、それは神様に対していっているのです。私の父が言っていましたが、もし誰かが私たちを非難するならば、それは神様を非難しているのだから、その人に対して神様は必ず報われる。だから心配することはいらないと。確かにそうでしょう。「あなた、どうしてこんなことをするの? そんなことをするから大迷惑」と言われる。それは取りも直さず、「神様、あなたがそんなことをするから迷惑です」と言っていることです。非難されるとき、すぐに自分を神様とものとしてささげてしまう。ささげると言うと、取られるような気がしてしがみつこうとしますが、主のものとなりきるにはささげることです。神様のものとなりきっていくとき、全責任を神様が負ってくださいます。だから、私たちに求められていることはただ一つだけです。所有者である神様の御心にだけ従うことです。世間の仕来たりや習慣、あの人が、この人がどうであるか、そんなことはどうでもいい。神様は私に何を求めているのか、主が私に何をせよと言われるか、このことだけを追い求めていきさえすれば、神様が全責任を持ってくださる。これが「あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」ということです。

神様は、ひとり子の命を代価として私たちを買ったのですから、全財産をはたいたようなものです。だから、粗末にするわけにはいかない。皆さんでも、トラの子を全部費やして買い取ったものは、そこらに放り出しておきません。台所の隅っこにポンと置いておくようなことはしません。金庫の一つでも買ってきて、大切にし、自分を自慢するために人に見せます。神様が私たちを買い取ったのは、 私たちを通して神様の栄光をあらわすためです。「コリント人への第一の手紙」6章20節後半に「それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」とあります。私たちによって神様の素晴らしさをあらわしてくださる。

私たちは自分自身が良くて、取り柄があって、値打ちがあって買い取られたのではありません。超一流の画家が書いた絵であるとか、柿右衛門とか今右衛門という有田の名陶工が造ったつぼであったら、それ自身に価値がありますから、それは置いておくだけでも、素晴らしいと賞賛されます。しかし、あなたを床の間に置いてご覧なさい、誰が寄ってきますか。これは素晴らしいと言う人は誰もいない。そのような存在です。だから、「コリント人への第一の手紙」1章で言われているように、「この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」。神様が栄光をあらわすためには、いろんな問題や事柄の中に入って、具体的に事柄に当たらなければなりません。神様の力、神様の恵み、神様の御愛は、じっと黙想して、達磨(だるま)さんのように壁に向かって座禅を組んでいたらわかるようなものではない。私たちが現実の事柄の中で絶えず神様を信頼し、自分が神様のものとなりきってこそ、神様の業を体験するということです。使わなければ値打ちがない。

昔大学に勤めていたころ、同僚と夜遅く同じ方向に一緒に帰る人と電車で帰っていました。そのとき彼は「榎本君、君はまだ就職して間がないから、ちょっといい忠告をしておく。結婚して家庭を持ったら(ちょうど私が結婚したころなのです)、お金が自分の自由にならん。そういうとき、必ず一万円を財布のここに入れとくのだよ。使わない、使わなくてそれを持っとけば、いざというときに必ず役に立つから」と忠告をしてくれました。実際に財布を見せて、「これは妻に内緒でここに入れている。男っていうのは外に出たときに友達から誘われたら、お金が無いから行けないというわけにはいかん。そういうときにはここからグッと出すんだ」「使ったことはあるのですか? 」「いや、まだ使ったことはないけれども入れとる」と言う。「でもお金って使わないと役に立たないでしょう。一万円の値打ちは持っていれば一万円の値打ちがあるのではなくて、使ってはじめて値打ちがわかる」と言ったのです。いつ使うかわからないものをお守りのごとくに財布の中に入れておくのは嫌ですから、有ったら使う。

神様もそうです。神様を信じていますと言って、後生大事に財布の中に置いといても駄目です。それを使って、神様の素晴らしさがわかるのです。だから、生活の中で神様を体験していく。神様はあなたはわたしのものだと言ってくださると同時に、もう一つ素晴らしい約束をしてくださいました。それがこの10節「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる」。神様が私たちと共にいると。私たちをただ買い取って、主のものとして、床の間の置物にしたのではなくて、どんなときにも共にいてくださる。だから、イエス様は「マタイによる福音書」の最後のところで「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」とおっしゃったのです。イエス様が天にお帰りになったのは何のためか? イエス様がよみがえったのなら、ズーッとこの地上にいて、あちらこちらとジェット機ででも飛び回ってくれたらよかったものをと思いますが、それでは間に合わない。イエス様は父の御許に帰って、そこから聖霊を送る。神の霊を私たちの所に送る。それはキリストの霊とも言われます。イエス様がそこにいると同じように、「時間空間を超えていつでも私があなた方と共におることができるように、わたしは父の御許に帰っていく」と言う。だから、イエス様が父なる神様の御許に帰って行かれた御目的は、私たちといつでも共にいてくださるためなのです。

10節「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」。しかも、共にいてくださる方は私たちと同じような力のない、知恵のない人間ではなくて、「わたしはあなたの神である」とおっしゃいます。私たち一人一人の神となってくださる方。その御方が絶えず私たちと共にいてくださる。

イザヤ書の43章1,2節を朗読。

1節にはっきりと「わたしはあなたをあがなった」と、しかも「わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」と宣言してくださっています。それでおしまいではなくて、2節「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる」と。主が共にいてくださる。神様が私たちをあがなって、神様のものとしてくださった。それでおしまいではなく、神様の栄光をあらわすために、どんなときにでも共にいてくださる。ここに「水の中」「川の中」「火の中を行く」というのです。波乱万丈の生涯、問題、事柄の中に置かれます。私はこれを読んだとき、神様が一緒にいらっしゃるのになぜ水の中を通すのだろうか。神様だったら、そんな中を通らなくていいようにしてくれたらよさそうなものをと思いました。お祈りするとき、悩みを与えないでください、苦しい中を通さないでください、神様守ってくださいと祈ります。神様はわたしはあなたを水の中に放り込んで、川の中に入れて、火の中にまで入れると言われる。大変なことです。何とか早く逃げ出さなければと思いますが、神様は何とおっしゃるか。「わたしはあなたと共にいる」。私たちが火の中、水の中、川の中を行くとき、主はわたしたちと共にいてくださる。どんな所にでも私がいるではないか。そしてわたしたちを助け支え守ってくださる。そのことを通して、神様の力があらわれる。神様の御業があらわされる。

ダニエル書3章16節から18節までを朗読。

これはご存じのように、バビロンに捕囚として引かれていったイスラエルの民の中に、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴという素晴らしい青年、有能な青年がいました。時のネブカデネザル王様は、彼らは捕虜ではあるけれども、非常に素晴らしい人物だったから自分の部下として、側近として扱ったのです。彼らは王様の信頼に応えて力を尽くしました。また素晴らしい人物でありました。彼らは真(まこと)の神様、この天地万物の創造者である神様を敬虔に敬い、信仰に立って歩んでいました。ところが、その国の人たちは彼らをねたんだのです。捕虜の身分で王様から寵愛を受けて、目を掛けられてどんどん出世していく。それをねたんだ人たちが、なんとか彼らをおとしめようと計画しました。そのために大きな金の王様の像を造って、国中どこからでも見えるような高い大きなものを造って、平野の中に立てて、王様に進言したのです。国中の楽器が時を定めて合図をしたら、国中の人々がその金の像を拝む。もし拝まなければ燃える炉の中に投げ込んで焼き殺すという法律を作った。王様はうれしいですよ。自分が褒め称えられるのですから。「おお、よかろう」と判を押した。ところが、その金の像を拝まなかったのが、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴでした。今お読みいたしたように、ねたんでいた人たちが訴えてきました。「王様、あなたの像を拝んでいません。だから約束どおり死刑にしてください」と。王様は仕方がない、自分がそうとは知らずに判を押してしまったものですから、今更取り消すわけにもいかない。それで彼らを呼びまして、なんとかいろいろと言い訳の口実を与えようとする。音が聞こえなかったから拝まなかった、そう言いなさいというように王様は水を向けます。なんとか助けたいと思っていましたが、彼らは「いいえ、聞こえていたけれども拝みませんでした」と。そうなったら王様の立場がない。「それじゃ、お前たちを火の燃える炉に投げ込むから」と言われたとき、今お読みました16節以下「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます」と。これはシャデラク、メシャクおよびアベデネゴが、自分たちは神のものだ、神の民だと強い信仰があるからです。「わたしたちの仕えている神は」眠っているわけではない。力がないわけではない。必ずどんなことの中からでも、私たちを救い出すことができる。「また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます」。いくらあなたがバビロン大国の王であっても、専制君主であっても、その手からだって神様は救い出すことができます。シャデラク、メシャクおよびアベデネゴが強いから、どんな火の中にあっても燃えない体をしているから、大丈夫と言ったのではなく、共にいてくださる神様には出来ないことが無い。神様の栄光を称えているのです。

私たちもいろいろな問題に当たるとき、事柄に当たるとき、私が独りではないのです。そんなことになったら私には力がない。あのお金を取られるかも知らない、これが無くなるかも知れない、どうしようかとうろたえ、いろいろなことで心が騒ぎます。しかし、そのようなときに、この三人のように「わたしたちの仕えている神は」と言えるように、普段からしっかりと「私は主のものです」となりきっていなければ言えません。泥縄では駄目です。問題が起こったときに大慌てで、今から頑張って、礼拝も木曜会も何でも出かけて、一生懸命に信仰をと思っても、間に合いません。そんなことをしているうちにサタンにさらわれてしまう。普段から、シャデラク、メシャク、アベデネゴは王様から寵愛を受けて、事柄が順調にいっているときも、神様を離れなかった。ましてや、問題が起こったときには、なおさら彼らは神様に自分をささげているのです。だから18節「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」と。「たといそうでなくても」と彼らは言う。つまり、「私たちは、主のものだから、神様のものだから、生かすも殺すも主のものです。たとえ燃える炉の中から神様が私たちを救い出さない、そのまま人生が終わるのだったら、それだって神様のものですから……」と。私たちはそこまで神様の手に自分を委ねない。神様が私の願いを聞いてくれたら、褒めてやるけれども、そうでなかったら、蹴飛ばしてやろうと思っている間は駄目です。生きるも死ぬも主のものである。神様が私と一緒にいらっしゃるから、神様の手に自分を置く。しっかりと委ねきっていきたいと思います。とうとう王様は怒ってしまって、普通の火よりも「七倍熱くせよ」と命じます。19節から23節までを朗読。

王様はカンカンに怒って、19節「顔色を変え」とありますから、人の怒ったときの様子が具体的に出ています。とうとう屈強な兵士を連れてきて、彼らを縛って、七倍も熱くした炉の中に投げ込んだ。ところが連れて行った人のほうが、その輻射熱があまりに熱いので死んでしまったというのです。シャデラク、メシャクアベデネゴはその火の中に投げ込まれた。24節以下に「その時、ネブカデネザル王は驚いて急ぎ立ちあがり、大臣たちに言った、『われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか』。彼らは王に答えて言った、『王よ、そのとおりです』。25 王は答えて言った、『しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ』」。王様は焼け死ぬだろうと眺めておったが、なんと燃える炉の中に四つの人影が動いているという。よく見ると四人目は「神の子のようだ」と。神様の使い。びっくりして王様は、その火の燃える炉の入り口に近寄って、26節「いと高き神のしもべシャデラク、メシャク、アベデネゴよ、出てきなさい」。このとき王様は「いと高き神のしもべ」と言ったのです。あ然としたのです。こんなことがあるだろうかと、驚きと恐れの念で、彼らに「いと高き神のしもべ、出てきなさい」と。そうしたら三人の者は火の中から出てきた。28節以下に「ネブカデネザルは言った、『シャデラク、メシャク、アベデネゴの神はほむべきかな。神はその使者をつかわして、自分に寄り頼むしもべらを救った。また彼らは自分の神以外の神に仕え、拝むよりも、むしろ王の命令を無視し、自分の身をも捨てようとしたのだ。29 それでわたしはいま命令を下す。諸民、諸族、諸国語の者のうちだれでも、シャデラク、メシャク、アベデネゴの神をののしる者があるならば、その身は切り裂かれ、その家は滅ぼされなければならない。このように救を施すことのできる神は、ほかにないからだ』」。ネブカデネザル王様は180度方向を変えた。それは何故か? それはシャデラク、メシャク、アベデネゴがあの火の中を通ることによって、神のしもべ、神の使いが共にいることを明らかにしてくださった。その神の栄光に出会った王様は、この神こそ真の神だ。この神をののしるものは切り裂かれて滅びてしまえと言うほどになったのです。シャデラク、メシャク、アベデネゴが、神様の栄光のためにと何か働いたのではない。置かれる所に、投げ込まれたその火の中に、水の中に、川の中に自分を置くときに、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」。神様がいらっしゃることを明らかにしてくださいます。

イザヤ書41章9節「わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、『あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった』」と。神様は、私たちを「地の果から、地のすみずみから」と言われる。「地のすみずみ」というのは、言い換えると名もない目立たない小さな取るに足らない者を選んだということです。そればかりでなく9節に「あなたを選んで捨てなかった」。私たちを選んで、私たちのために命を捨ててくださった神様は、私たち一人一人を捨てていないのです。それどころか、御自分のものとして握ってくださって、私たちがどんな問題、事柄の中に置かれていても「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」と言われます。10節の終わりに「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」と。私たちが置かれた問題、事柄の中で私たちを強くしてくださる。弱い者を強くしてくださる。ですからパウロはそう言っている、「わたしは自分の弱さを誇ろう」と。なぜならば「弱いところにキリストの力が完全にあらわれる」と。いろいろな問題にぶつかって、こんなのは大変だ、私には力がない、知恵がない、できない!と思ったとき、そこで私には力も知恵もないけれど、「神様、ここで私を通してあなたが力を現してくださいますから、信じて感謝します」と信頼する。それが信仰です。

年をとって「私はもう何もできん。私はこんな年寄りになった。孫たちからやさしくしてもらわなければ!」と、そんなことを言っているから、信仰が駄目になります。私はできない、弱い、小さい、だから「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」。神様は勝利の手で握っているから、何も心配しなくていい、先を望んで大胆に信頼して行こうではありませんか。「できないから、私は駄目、できない」と言うのではない。主よ、あなたの御心ならばこれをさせてください。主よ、あなたが導かれるならば、どうぞこのことをするために、私に力を与えてください。このような言い方はおかしいけれども、神様を使うのです。いいですね。神様に信頼して、自分を委ねて、そして神様に持ち運ばれるとき、シャデラク、メシャク、アベデネゴのように火の中を通るときにも燃えつくことがない。水の中、川の中を行くとも、あなたをおぼれさせることはない。「わたしはあなたと共にいる」。私たちは今神様の素晴らしい栄光の御業の中にある。

先日も大阪集会にまいりまして、皆さんといろいろなお話をしまして「先生、人生はいつまで続くのでしょうか。次から次へと事が多いですね」と言われる。「それはもう生きている間、神様は私たちを楽にはしませんから覚悟してください」と言いましたら、「まぁ、そう言われるといよいよ重くなる」と言う。「重くなるのは自分が抱えるからでしょう。早く神様に手放しなさい」「そう言えば利三郎先生がよく言っていました。『ひも付きでささげたと思ったら、引っ張り出して、またささげたと思ったらまた引っ張り出して』と、私は全くそのとおりです」と、皆さんが笑って言われました。まだ笑える間はいいです。笑えなくなりますからね。そのとき「わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」。神様の命の力を体験しようではありませんか。

そのために10節「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる」と。いつも私は独りではないのだ。主が共にいらっしゃる。この御方に祈り、自分を委ね、主のものとなりきって、持ち運ばれていきたい。主が置いてくださる所、遣わしてくださる所、どんな所でも。私たちに負わせ給う重荷があるならば、喜んで負いましょう。その中で主の力と御業を体験していきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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