いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(328)「隔てなき交わり」

2014年09月21日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネの第一の手紙」1章5節から10節までを朗読。

 7節「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」。

 聖書を通して私たちに明らかにされているイエス様の救いとは何かと問われれば、いろいろな答え方があるとは思いますが、その一つは、これが中心だと思いますけれども、今読みました箇所にあるように「交わり」ということです。宗教的救いは、健康であるとか、経済的な悩みや受験戦争にうまく勝つことができるようにとか、そういうことが救いだと、多くの人は思っています。またそういうものを求めます。事実、心配や不安や恐れ、そういうものがなくなるのはうれしいことです。だからといって、それが救いかというと、実はそうではない。

 先だっても、ニュースで話題になっていましたが、ある宗教団体の信者が医者に掛からない。病気をしたら手をかざして癒すという。私はよく知りませんが、新興宗教のなかの一つの流れで「手かざし」をやる系統があります。私どもがアメリカにおりましたときに、ひとりの若い女の子が、同じ大学に来ていました。その子が私どもの生活に興味を持って、クリスチャンであると知って、彼女も何とか信仰を持ちたいと、アメリカから帰った後に教会に行き、求道しました。やがてイエス様の救いにあずかって大変喜んでいました。やがて、クリスチャンの人と結婚しまして、幸せな家庭であろうと思っていたら、あるとき手紙がきまして、「実は、私はキリスト教を捨てました。信仰を捨てました」とありました。よく聞いてみると、結婚するまでは幸いな生活だったのですが、結婚した後に大病をして、そのために結婚生活が続けられない事態に陥(おちい)った。そのときに何とかそこから救われたいと、教会に行って一生懸命にお祈りをしていたけれども少しもよくならない。すると、ある方が一つの信仰を勧めてくれた。「手をかざしてお祈りすれば病気が治る」と言われた。それで彼女はそのほうに誘われたのです。うまい具合に、その病気が手かざしで治った。彼女は大変喜びまして、その信仰に今度は専心するから、クリスチャンをやめるということになった。世の中の人々が求めるのはそういうご利益です。

 イエス様の所にも12年も長血をわずらった女の人が来て、癒された記事があります。私どもも「神癒」、神様の癒しを信じています。これは当然のことでありますが、それと「手かざし」とどこが違うかといわれるかもしれません。しかしこれは大違いです。というのは、このことはまた機会を改めてお話ししたいと思うのですが、モーセがパロ王様の所へ行きましたときに、幾つかの不思議な業をいたしました。エジプトの魔術師もやってきて、同じことをする。あるところまでは同じことができますが、それから先ができなくなる。神様が成し得ることと人が成し得ることとはある程度は重なり合う部分はありますが、必ずしもすべてではない。いや、それどころか、別次元の話です。世の多くの人々が宗教に期待する、信仰を求めてくるいちばんの理由はそういうところにあると思います。聖書にははっきりと病を癒すことができ、その病すらも神様の支配の中にあると、はっきり語られています。だから、病気を与えることもできる神様は、それを取り去ることだっておできになります。私どもの信じている神癒は、そこなのです。日曜日の礼拝後に神癒会をいたしますが、この神癒とは、神様がすべてのものをご支配くださる御方であることを認めることです。そのことを告白する。だから「病気を癒してください」と願いますが、同時にそれは「神様、あなたがこのことの主です」と告白することでもあります。また神様は私たちをあわれんでくださって、その祈りに答えて必ず癒してくださると信じる者に、具体的な結果を現してくださることも事実です。ですから、医者に掛かるとか、薬を飲む、飲まないとか、そんなことの話ではなくて、医者も薬もこれは神様の手のなかにある事でありますから、神様を信じることが私たちにとって最も大切なことです。これは根本の事です。それは揺るがない大切な信仰の土台です。ですから、この世の多くの人々が宗教に求めるご利益を与えるのも、悩みを解決することができるのも神様であります。同時に具体的な結果を与えてくださる。だからイエス様がおっしゃるように「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ 6:33)。神様を第一にすることによって生活のすべても添えて与えられる。付録として与えてくださるという。だから、私たちの地上の命、生活は付録です。いうならば、これがメインではない。中心ではありません。私たちの信仰の中心は、目の前の問題や事柄が解決することが目的ではなくて、もう一つすべてのことの背後にいらっしゃる神様を信じること、ここに尽きるのです。神様を信じるとは、もっと別の言い方をすると、神様と人とが隔てのない交わりのなかにおかれること、これが私たちの救いです。

 3節「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」。3節に繰り返して「交わり」と語られています。「交わり」、いうならば、神様と人とが隔てなく語り合うことができ、信頼しあう関係になることです。交わりですから、当然その間に何かわだかまりや、差し障(さわ)るものがありますと、本当の交わりにはなりません。表面だけの、形だけの交わりでしかありません。しかし、ここでいう交わりは、心からの信頼、お互いの間に何一つ隔てるもの、障害がない関係。これが交わりです。誰との交わりかというと、3節の後半に「それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」と。「交わり」とは「神様、御子、主なるキリストとの隔てのない交わり」。この「ヨハネの第一の手紙」を書いたイエス様の弟子であったヨハネが、3節で「わたしたちの交わり」と語っていますが、既(すで)にヨハネは父なる神様と御子イエス・キリストとの交わりのなかに入っている。その素晴らしい恵みのなかにあなた方も入れてあげたい。わたしと父なる神様、御子キリストとの交わりのなかにあなた方も入れてあげたい、あるいは入ってほしい、と言っているのです。4節に「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」。この交わりは喜びが不可欠であります。

 お正月になると、遠くにいる家族や孫たちがそれぞれ家に帰ってきます。教会では新年聖会がありますから、正月の一日から三日間、一日に3回、全部で9回ぐらい集会がありますから、聖会に出ようと思うと、遠くの子供たちが孫を連れて帰ってくるのに接待もできないで困るから「悩みます、先生」と。「聖会にも出たいけれども、やはり子供たちがせっかく帰ってくるし、年に一度のことやし、先生、ごめんなさい!」と言われる。なかなか悩ましいところです。じゃ、久しぶりで、何ヶ月ぶりで会う子供や孫たちとの交わりは、苦痛でたまらないかいうと、そうではないようです。聖会には出たいが、出られない。孫たちが来て世話をしなければならない。苦しいから逃れたいのだけれども……、と聞けばそのように聞こえますが、どうも本心はそうではない。私の手前、これは嫌なのだが仕方がない。親として……という言い訳だろうと思う。むしろ子供や孫が帰ってくることはうれしい。喜びです。その気持ちはよく分かります。だから、あえて「そんな、やめときなさい、聖会第一にしなさい」と、私の父のようなことまでは言いきれない。ついつい「それはどうぞ」という話になりますが、聖会は逆に言うと実は神様との交わりなのです。どちらの交わりを取るか。

 4節に、「わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」とあるように、喜びです。忙しくはあるし、疲れもするし、帰られるとホッとしてヤレヤレと思うこともありますが、しかし、来てくれたということはうれしい。交わりとは本来そういうものです。ところが、そうでない交わりももちろんあります。苦痛でたまらない、その時間が過ぎ去ったら、早く何とか過ぎ去ってくれないかと思うような交わり、それはお互いが気まずい。何か交渉ごとで交わるとか、あるいは問題があってそれを解決するために会わなければいけないような、そういう交わりは嫌です。

しかし、ここで言っている交わりとは「父なる神様と御子イエス・キリストとの喜びの交わり」、そういう関係に私たちを入れたい。あるいはそういう関係を作り出すことが神様の願いであり、目的であります。人との交わりも幸いですが、もっと幸せなのは、造り主であり、全てのものを力ある御手をもって導いてくださる神様を知ることです。その神様と隔てのない交わり、信頼、そういう関係に私たちが置かれること、これが実は神様が私たちに得させたい、与えたいと願っていること、神様が私たちに実現したいと思っている事です。それは取りも直さず、人が造られたときの初めの姿でもあります。聖書のいちばん最初の創世記に語られているように、人が最初に創(つく)られたとき、そこでは神様と人とは隔てのない関係、裸で恥じない関係がありました。何一つ神様の前に隠すものがない。全部ツーカーという、そういう交わりがあった。しかし、それだって考えてみたら実に驚くべきことだと思います。なぜなら、私たちは神様によって造られた被造物であり、片や神様は創造者・造り主でいらっしゃる。造り主でいらっしゃる御方と造られたものとが交わりを持つとは、対等とは言いませんが、同じ平面に立たないと交われません。主従関係は交わりとは言わない。縦の関係、彼は上司、私は部下という関係では交わりではなくて、それはある種の義務といいますか、拘束(こうそく)された関係です。しかし、本当の意味の交わりは、自由な交わりです。しかも同じ平面、神と同等ということはないと思います。いや、それはおこがましいことであります。しかし、できるかぎり神様に近い存在として私たちを神様は造ってくださった。それは造られた目的が神様と交わる者として造ってくださったのです。だから、聖書にダビデが歌った詩篇の8篇に「神様は私たちをご自身よりも少し低いものとしてお造りになって」(5節)と記されています。そして、私たちを顧(かえり)みてくださるとは、何という驚きだろうかと、驚きと感嘆、喜びを歌った詩篇です。人をほかのすべての被造物、造られたもののなかでいちばん神様に近いものとして造ってくださった。その証拠として、人を神のかたちにかたどって、神に似るものとして造った。そこで初めて交わりを得る基礎的な土台ができたのです。だから、そもそも神様と交わることができる者として、神様のかたちにかたどられ、神様の霊の命の息をもって私たちを生かしてくださった。私たちの内に神様の霊の分け前をいただいている。私たちの内に神の霊が宿っている。神様と交わる私たちの心、魂に神様と感じ合うといいますか、交わることができる力を私たちの内に置かれました。    

テレビを見るとき、テレビは放送局と線でつながっているわけではなく、電波が発信されて、テレビやラジオの受信装置、どんな仕組みか詳しくは知りませんが、そういう機械を通してつながる。発信された信号と同じ周波数、何キロサイクルという決まった波長の電波をきちんと受け止めることができる受信機がテレビやラジオに組み込まれている。それが組み込まれているから、放送局から発信された電波をキャッチして映像が映し出される。私たちすべてに神様からの電波を受け止める受信機が備えられているのです。時にそれが故障している人もいます。大抵が故障してしまって、あるいは使われないままでほこりをかぶって、電池切れになっていたりする。それをもう一度きちんと修復して神様からの信号を100パーセント 受けることができるようにしてくださる。最近デジタル放送に変わってきました。以前はアナログのときはそうではありませんでしたが、デジタルテレビを見ますと、アンテナの受信状態を表す場所があります。スイッチを押しますとピーッと信号が入ってくる。今このテレビはテレビ局から出された電波を何割ぐらい受けているか、5割ぐらいか7割ぐらいか、グラフで現れてくる。そして5割を切ると画面がちらついたり、見えなくなったりする。うまく受信するにはアンテナの向きと高さなどを調節する。アンテナを動かしながら、受信状態のグラフを見ていると受信状態の数字が変わります。90、95ぐらいまで来ると画面が非常にきれいになる。ところが、アンテナがずれて60ぐらいになると、時々チラチラッとノイズがあらわれ、画面が乱れます。私たちと神様との間は今どのくらいの交わりでしょうか。私たちは、神様からの信号、シグナルをちゃんと受け止めることができる受信装置を皆持っているのです。長年使わないままに来たかもしれませんが、どうぞ、今日から使っていただきたい。神様との交わりに入ることができるように、私たちの内なるものを整えるためにイエス様が来て下さったのです。イエス様はいうならば、電気の工事をする人のようです。神様との受信装置が壊れている所をきちんと直すために、神様からのシグナルをちゃんと100パーセント 受け止められるように、きちんと整備するためにイエス様が来てくださった。

そのことが5節以下に語られています。5節に「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない」と。ヨハネは弟子でありましたから、イエス様から聞いていたことをあなた方に伝えると。その一つは「神は光である」ということです。神様は光のような御方だと。光には影がない。何一つ曇りがない。これが光の性質です。だから「神には少しの暗いところもない」。6節に「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない」。だから、神様と交わるためには、私たちも光のように何一つ暗いところのない者でなければならない。先ほどのたとえで言うならば、神様からの信号を100パーセント 受けられるようにする。そのためには私たちが神様の方に100パーセント ピシッと向いていることです。これがチョッとずれると、90パーセント、 80パーセント になるでしょう。その欠けた所は影です。暗い所です。100パーセント 神様からのシグナルを、神様の御心をしっかりと受け止めるには、私たちが光のようにならなければいけない。ところが、受信機が壊れて影ばかりなっていました。その影を取り除くためにイエス様が来てくださった。私たちが完全に神様に向くことができるように、イエス様は私たちの心を修復してくださる、造り替えてくださる。私たちの持っていた受信機が機能しなくなっていたから、イエス様が新しい最新型の受信機を私たちに持ってきてくださった。そして古いものを全部取り外したのです。では、いま私たちの新しい受信機とは何か。それは私たちの内に宿ってくださるキリストです。イエス様は私たちの内に住んでくださるために来てくださった。私たちの古いものを修理しようとしたのですが、修理できず、全然役立たないから、それを全部打ち壊して、「古いものは過ぎ去った」と、古いものを全部取り除いて、今度はご自分が私たちの内に宿ってくださる。神様と私たちとを結びつける大きな力になってくださった。これがイエス様の救いです。神様との交わりとは、イエス様を私たちの内に頂いて、私たちが神様の前に汚れのない者となること。6節に「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら」と言われます。それはそうです。神様は光であって、こちらが闇の中では、完全に交わりがあり得ません。私たちが神様と同じその光の中に入らなければならない。

水族館に行きますと、いろいろなきれいな珍しい魚や水生生物が泳いでいます。最近の水族館はとても素晴らしい。新しくなって展示の仕方が昔とは変わり、とても大きな水槽です。まるで自分がその中にいるように思える。先だってもいつでしたか、金生家の子供たちと一緒に下関の水族館に行きました。するとアザラシでしたか、水槽を動いている。雄ちゃんがそれを見て、自分もそれと一緒に遊んでいるかのように、ガラスにペタッとくっついて一生懸命にその動きに自分を合わせて体をくねらせていましたが、いくらそれをやっても相手は水の中で、こちらは空気の中です。これは交わりを持とうと思っても、どんなに透明なガラスであっても交われない。水の中に私たちが入らなければいけない。入ると言ったって、こちらは生きている所が空気の中ですから、酸素ボンベでも着けて入って行ったとしても、それでは交わりにならない。偽物です。だからスキューバダイビングと言って海中にもぐるスポーツがあります。ウエットスーツを着て、酸素マスクをして、眼鏡などを全部付けて、そして「私はあなたと同じ魚になったのよ」と言っても、それは偽者です。そのうち酸素が切れたら上がるのです。魚と人とは交われない。見ることはできてもそこで交われない。神様と私たちとの間にも何かそのような目に見えない影、隔てがあると、実にもどかしい。あるいは悲しいことです。その隔てを取り除くにはどうするか。これは私たちにはできないのです。私たちは造られたものです。皆さんのテレビだってそうでしょう。壊れたら「おい、テレビ、お前どうして壊れたんだ?」「いや、どうもここが……」「じゃ、明日まで、夜の間に自分でちゃんと直しておけ」と言われて、テレビが自分で「ハイ、分かりました」と夜中にガチャガチャやって、朝になったらちゃんと元に戻っていたという話は聞いたことはない。造られたものは自分では直せないのです。造り主でいらっしゃる神様が私たちのところへ来てそれを造り替えてくださる、これがイエス様の救いです。

7節に「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち」と、ここにありますように、光の中に神様がいらっしゃるように、私たちも光の中を歩く。まず神様の前に心を清めていただくこと。人の世の中の正しい、間違いではなくて、自分自身の良心といいますか、心の中にこれは神様の前には良くないことだ、これは神様の前に間違っていることだ、と感じるものがあるならば、それが神様と私たちを隔てている影です。だから、まず私たちがそこを認めること。私は自分を振り返ると、光どころか心は闇だ、と思っている。その闇はどこからきているかをよく自分自身が点検をする。よく考えてみると、自分の心が喜べない、感謝できない、苛立(いらだ)っている、あるいは望みがない、ぶつぶつつぶやいているような自分。「どうして私が光なんかに成り得ようか」と思うかもしれない。しかし、大切なのは「どうして自分は今こうやってつぶやいているのだろうか」「何が私の心を暗くしているのだろうか」、そのことをよく探っていただきたい。そうしますと、初めのうちは「あの人が……」とか「この問題があるから」「このことがあるから」「こういうことが私の思いどおりでない、願いどおりでないから、今私はこういう暗い思いをしている」と、初めはそういうレベルです。しかし、もっと探っていくと、いちばん底には神様と私、造られた者である私が「どうしてこうなったの!」と、神様に対する憤り、神様のわざを受け入れられない。いうならば、神様を認めていない自分がある。それに取って代わって自分が神様になっている。だから、何か苛立つことや憤ること、あるいは心配なことや不安なことや望みがなくなっているとき、そこで自分自身を振り返っていただきたい。そういう時でないと振り返る暇(ひま)もなくて、ただ目の前の「あいつが悪い」「こいつが悪い」「これが何とかだ」「ああだ…こうだ…」とそちらのほうに思いが行きますが、よくよく振り返ると諸悪の根源はあなたです、私です、自分にある。自分が造られた者でありながら、その造り主でいらっしゃる神様を信じていない。神様を認めようとしない。ここに必ず行き着く。「わたしは神である、今より後もわたしは主である」(イザヤ 43:13)とおっしゃる神様が、すべてのものをご自分の御心のままに握っているのだと、そこに徹底していきますと、今まで影であったもの、神様の信号が入ってこなかった真っ暗な画面であった心にスーッと窓が開いて光が差してくる。そして霧が消えていく。思いが消えていく。心が光に戻っていきます。

 マリヤさんもそうでした。「恵まれた女よ、おめでとう」と、御使ガブリエルから言われて、彼女は「どうして、そんな事があり得ましょうか」、そうやって失望落胆した中で「神には、なんでもできないことはありません」というお言葉を聞いたとき、自分が何者であるかを知った。そのとき彼女は「わたしは主のはしためです」とひれ伏した。「ああ、そうだった。私は神様に造られた者であって、私が自分の思いどおりに生きようとか、自分の願いがかなうべきだとか、憤っている自分はいったい何者か」。そこでもう一度へりくだって「神様、あなたの御心のままに……」。これは私たちの救いの原点であり、ここを外(はず)したら駄目です。私たちは何があってもその所へ立ち返っていきたい。

 イエス様がそうでしょう。十字架におかかりになる前、ゲツセマネの園でまるで血が滴(したた)るがごとく汗を流して祈られた。そのとき「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と。「しかし、みこころのままになさってください」と、最後はついにその祈りに勝利して、イエス様は自分を「わたしをあなたの手に委ねます」と言い切ってしまう。そのときイエス様は新しい力を与えられて「立て、さあ行こう」(マタイ26:46、マルコ14:42)と十字架に向かって進むことができるように変えられて、行った先は確かに十字架のみ苦しみでありましたが、死の中から神様は新しい命に主をよみがえらせてくださって、私たちに望みを与えてくださった。

私たちも、いま受けている問題のなかで、「これを、神様に任せたらどうなるか分からん。私の思うように願うようにしてもらわなきゃ!」と突っ張るのではなくて、へりくだって光の中へ立ち返っていきたい。7節に「わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」。そうやって神様との交わりに立ち返りますならば、神様は私たちの罪を赦し、清め、受けいれてくださる。まず、私たちが罪を認めること。そして光の中へ帰ってくると、御子イエスの血が、キリストの十字架の血が、私たちを文字どおり清めて新しい者と変えてくださる。どんな所からでも、私どもは常に光の中に、神様との交わりの中に立ち返っていきたい。また、交わりの恵みを味わい、喜び、感謝していきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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