いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(241)「主に何を期待するか」

2014年06月26日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書5章1節から9節までを朗読。

 

 8節「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」。

 エルサレムにベテスダという池がありました。その池の周囲には「五つの廊があった」とあります。「廊」と言いますのは、長屋のようなものでしょうか、屋根が付いている長い廊下のような場所だと思いますが、そこには「病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者など」がいました。体が不自由であるとか、病気だとか、やせ衰えて生きる力がない、元気がない、そのような人たちが「大ぜいからだを横たえていた」とあります。身動きならずじっとしていました。

 

 私は時々老人病院に行きますけれども、「このような状態だ」と思います。そこは300床ぐらいある大きな病院ですけれども、どの部屋もシーンとしている。テレビを見ないのです。見たくても見られない、見る気力がない。一部屋に6人なのですが、お互いしゃべらないから物音がしない。眠ったような、起きたような状態で物音がしない。このベテスダ池の周囲は、まさにそのような状況ではなかったのかなと思います。「病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者」、身動きならない、コミュニケーションができない、話しもしない、テレビも見ない。だから昼間に行っても、病院がシーンと静かです。まさにこのベテスダの池というのはそのような所です。

 

彼らに希望がないわけではないのです。3節の終わりに、「彼らは水の動くのを待っていた」とあります。ベテスダの池の水が動く時がある。どの様な状況か分かりませんが、波立つのか、あるいは渦巻くのか、さざ波が立つのか、音がするのかしないのか、分かりませんが、いずれにしてもこういう現象が現れる。普段と違う現象が現れる。それは主の御使が水を動かす瞬間だというのです。そのときに、いちばん最初に入った人の病気は癒される。二番目、三番目は駄目です。一番目でないと。4節、「水が動いた時まっ先にはいる者」とあります。いちばん最初に入る者が「どんな病気にかかっていても、いやされたからである」と。これは宝くじに当たる以上に難しい。やせ衰えて動けない人です。そういう人たちがどうやって入りますか。しかも、水が動くのをはっきり意識することができなければ役に立ちません。身動きできない状況ですから、まず癒されることがない。ところが、5節「さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった」。一つの病気で38年間とは、記録的な長い病気だと思います。そうなると、いい加減あきらめるでしょう。私たちでも、大体1年ぐらい同じ症状が続いたら「これは仕方がない、これは持病だ」と、自分の病気になってしまいます。しかしこの人は38年、あきらめないのです。そこに「悩んでいる」とあるように、病気で悩んでいたのです。病気をしたとき、「どうしてこうなったのだろうか」と悩みます。「いつ治るだろうか」と悩みます。「癒す方法はないだろうか」と悩む。大体三つの悩みが多い。「治療法はこれでいいのだろうか、もっとほかにないだろうか」と悩む。そして「どのくらいかかるだろうか。あと何ヶ月、何週間だろうか」と悩む。そのような悩みがある間は、まだ元気です。ところが、悩むこともできなくなる。「もう仕方がない」とあきらめる状態は、私たちがよく経験することです。この人は「病気に悩んでいる」とありますから、彼は意識がはっきりしていたのです。「自分は治りたい」という気持ちがあった。

 

6節に「イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『なおりたいのか』と言われた」というのです。イエス様も意地悪だなと思います。38年も長いこと病気をしている人に向かって「なおりたいのか」と。「お前、いいかげんあきらめたらどうだ」と言わんばかりです。「え!今でもなおりたいのか」とびっくりしたような問い掛けなのか、その辺のニュアンスはよく分かりませんが「なおりたいのか」とは非常に微妙な問い掛けだろうと思います。それに対して、この人は、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません」と、自分には身内がない、あるいは世話をしてくれる人がいないので、水が動くときに「私を入れてくれる人がいない」。最初に入った人は癒されると思って、そこにジーッとしている。自分が入ろうとするとほかの人が先に入って行ってしまう。これが彼の悩みです。

 

その時にイエス様は、8節に「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」と。このベテスダの記事は異様で特別な状況のように思いますが、決してそうではないと思います。いや、それどころか、いま私たちの住んでいる社会の一つの縮図であります。すべての人々はこのようにいろいろな悩みの中に生きています。もちろん直接病気であるとか、ここに記されているように「目が見えないとか、足が利かない、あるいは弱って動けない」という、そのような具体的な事があるかもしれませんが、それ以外にも、たとえ五体満足でピンピンしていても常に私たちは悩んでいて、「何か救いはないだろうか」と思う。まさにこのベテスダの池の光景は、いま私たちの住んでいる社会の縮図です。多くの人々が病人です。心が病んでいますか、もちろん肉体の病もあるでしょう。「目が見えない」、目が不自由な人、物事がよく分かっていない。私たちの社会を見ていると、まさにそうですね。病んだ社会でしょう。そして物事の善し悪しがよく分からなくなっている。盲目的な社会です。また「足の不自由な人」、きちんと正しい道を歩けない世の中です。「やせ衰えた者」とあるように、いのちを失って死んだような顔をして生きていると言いますか、存在しているだけでしょう。生きるエネルギーや喜び、力が感じられない。そして「何か救ってくれるものがないだろうか」と思いながらも、求める救いがなんであるか、あやふやではっきりしない。それでいて「こうでなければ」という、かたくなな思いがあります。これはこうあるべきだとか、こうでなければ嫌だという頑固な思いがある。もっとそれから離れて、そういうことにこだわらないでほかに道があるはずなのにそれが分からない。それを見ようともしない、求めようとしない、動かない。これが世間の姿です。このベテスダの記事に語られているイエス様が出会った光景は、まさに私たちの今の世の中なのです。その中にイエス様は私たちの救いのために来てくださった。私たちを救ってくださる御方です。ところがそのイエス様に誰も求めようとしない。それどころか、イエス様が与えてくださる救いではない、ほかのものを求める。

 

7節に「この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』」。目の前に立っているイエス様は神様から遣わされた救い主です。私たちを救ってくださることができる御方ですが、そのイエス様にすがるよりは自分の考え、「こうしてくれたらいいんだけれども」「ああしてくれたらいい」と思っている。私たちはこれを読むと、「イエス様を目の前にして、こんな馬鹿な、つまらないことを頼んで」と思います。しかし私たちがイエス様に求めるものは、この人と全く同じことです。「神様、私の病気はこうしたら治りますから、こういういい医者を与えてください、こういう病院に、あるいはこういう方法で、早くこの日までに何とか」と。そのように自分の考え、自分の固定観念、あるいは自分の経験則から離れられない。この病気の人もイエス様を目の前にしながら自分の考えに固執するのです。これがいちばんの厄介な問題です。特に人はそうです。年を取るとだんだん物事の視野が狭くなりますし、自分の過去の経験に寄り掛かっているほうが安心な面がありますから、新しいことを受け入れられない。心の硬化、動脈硬化ならず心の思いが固まってしまう。これは非常に厄介です。本人も苦しいと同時に周囲の人も大迷惑をします。

 

私の家内の父のことを去年はよく皆さんにお証詞をさせていただきましたが、あの時お話したように、本当にかたくななのです。自分の考えにしがみついて、「こうでなければ」と。私たちが「いや、もっとこういう新しい方法がある。こういう生活の仕方がある。こういうものを利用したらどうです」と言うと、それを全部、「駄目」「駄目」と受け入れない。それでいて、本人は楽かというと、そうではない。本人は苦しんでいるのです。「何とかどうかならないだろうか」「何とかならないだろうか」と、そのようにつぶやき、愚痴りますから、家族としては、「じゃ、こうしたら」「ああしたら」といろいろなことを提案する。どれもこれも「駄目」「駄目」「駄目」と。心がそうやって硬化するのです。そしてそれに凝(こ)り固まってしまう。

 

これは警戒しなければならないことです。殊に信仰の面で、これは妨げです。この時も、イエス様に対してこの人は「水が動くときに私を入れてくれる者がいないから、私の病気は治らない」と考える。イエス様は病を癒してくださる御方だと信じられない。それよりも自分の考えた方法や手段、何かそのような自分の考えに乗り掛かって、事が進んでほしいと思う。しかし、信仰生活はそうではないのです。自分がこう思うという事でも、神様はどうなさるかを考える。神様はオールマイティーな御方です。マルコによる福音書にあるように「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(10:27)。私たちが神様を信じるとは、神様はできないことのない御方ですと信じる。だから、アブラハムに対して、神様はご自身をあらわしてくださった。「我は全能のなり汝わが前に行(あゆ)みて完全(まった)かれよ」(創世17:1)と言われる。その神様に自分を全面的に明け渡す、委ねきっていく。そのとき、「こうでなければ」とか、「あのようにありたい」、「これが正しいこと」、「これが私の求めることだ」という、固執していた心が変ります。自分の考え方にこだわるかぎり、私たちは神様のなさるわざを体験することができません。だから、どんなことでも、「いや、こうでなければ」という思いを持っていると、不信仰に陥(おちい)るのです。神様を信じられなくなるのです。

 

このときも、病気だった人は「誰かが私を助けてくれれば」と、そのことに固執している。それに対してイエス様は「起きて、あなたの床を取りあげ」と言われる。イエス様はここで「起きなさい」と。この人はこれまでこんな事を聞いたことはない。「起きて、あなたの床を取りあげ」と言われた時、当惑したでしょう。イエス様はここで「あなたのその凝り固まった」思いから離れて、「起きあがって」というのです。彼は38年間もベテスダの池のそばで、何か床に敷いて、布団があったかどうか知りませんが、そこに横たわって寝たり起きたり、水を眺めて終日ジーッとして、一日が過ぎる。ただこれだけです。自分はここにしかおられないと思い込んでいる。私たちもそうです。神様の前に立っても「神様、私はこれしかできませんから」と。できませんと、自分で決めて掛かっている。「私はもうこういう年になりまして、目もしょぼくれましたからあれもできません、これもできませんから、神様、よろしくやってください。私の代わりに」と言う。ところが、神様は「あなたがしなさい」と言われるのです。今まで自分が固執していた、べったりと張り付いて動かない場所から立ちあがりなさいと言われます。そして「床を取りあげ」と。今まで「自分がこれしかない」「私はこうだ」と思いあきらめている、自分には「ここが、これがいちばん良いことだ」と思い込んでいる、その床を、その場所を御破算にして、取りあげて、そして「歩きなさい。あなたの力で歩きなさい」と。

 

士師記6章11節から16節までを朗読。

 

これは、ギデオンという勇士、士師の一人の記事であります。ミデアン人がイスラエルを襲って来ます。ちょうど収穫の時期に当たると、ミデアン人がやって来て、彼らの収穫を取って行ってしまう。これは大変なことです。日本でもよく米泥棒だとか、いろいろな収穫物を盗むという事件が起こったりしますが、この犯罪は非常に重罪犯なのです。ただ単にどこかの家のものを盗んだという以上の重い刑罰が科せられます。それは農家の人にとって、収穫は年に一回きりです。その収穫物を全部取られると、一年間の生活がストップする。サラリーマンが一ヶ月の給料を空き巣に取られたというのでしたら、次の月まで待てば済むでしょう。でも農家の人にとっては一年ですよ。だから、これは大変重い犯罪なのです。イスラエルの人々は自分たちが収穫をして、「さぁ、これであと1年の食料が出来た」と言ったら、ミデアン人がやって来てそれを取っていく。といって、彼らに対抗するだけの力がない。ここにあるように人目を避けて、「酒ぶねの中で麦を打っていた」と。収穫感謝祭とかやっていたら、すぐに知れて彼らがやって来ますから、ソッと音がしないように、麦を収穫して脱穀をする。そうやってひっそりと息を殺すようにして生活していた。

 

その時、ギデオンに神様が使いを送った。12節に「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。「大勇士よ」と、大勇士がどうして酒ぶねの中で麦を打つかと、考えたら矛盾している話です。ギデオンはびっくりしたと思います。誰のことを言っているのだろうと。しかし神様が彼と共におられるから、「大勇士」なのです。これを読みますと、すぐに思い出すでしょう。マリヤさんが「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(ルカ 1:28)と言われた。全く同じです。この時、ギデオンに対して神様が「大勇士よ、恵まれた人よ」と、「主はあなたと共におられます」。その時、ギデオンはちょっとムカッとしたのです。「主はあなたと共におられます」と言われるが、「その証し、証拠はどこにありますか」と。「自分たちの先祖はあなたが共にいて、あの荒野の生涯を導かれて、不思議を、驚くべきことを体験したと聞いてはいるが、いまの私たちを見てご覧なさい。どこにあなたが共にいるという証拠がありますか。私たちはこのような惨めで心配と不安と恐れの中にいるじゃないですか」と言ったのです。そのとき、14節、「主はふり向いて彼に言われた、『あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい』」。これは分かりにくい言葉です。神様は「主はふり向いて彼に言われた、『あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとを救え』」と。自分の力で救えるくらいだったら、もうとっくにやっている。彼には力がないから、戦う人、軍隊がいないから、ミデアン人には到底太刀打ちできないという固定観念があるのです。もうこれでは駄目と思い込む。私には力がない、でも神様がおっしゃるには「このあなたの力」と。ないかもしれない、ないならない力で行きなさいと。有りのままになって、「そのあなたの力をもって行けば良いじゃないですか」。「いや、でもこれでは足りません。この程度では役に立ちません」と、ギデオンは神様に言っている。それに対して、神様が「わたしがあなたをつかわすのではありませんか」。「わたしが後ろ盾になるのだから、わたしがあなたと共にいるのだから、あなたの今の力で行きなさい」「え!こんなわずかな力、こんな無い無いづくしの者でいいのでしょうか。私のような者でいいのでしょうか」。「いいから」とおっしゃる。私たちもよくそういうことを感じます。神様が「お前がこれをしなさい」と。「え!こんな年になってこんな新しいこと、こんな厄介なこと、ややこしいことを、うちの先生がよく『この与えられる問題は神様からのものとして、感謝して受けなさい』と言うけれども、こんなのは感謝できんわ」と。「もう少し10年若かったら、私だってやったろうかという気になるけれども、この年になってこんな問題を起こされて、どうするね」と、引っ込んでしまう。その時ですよ、神様は「あなたはこのあなたの力をもって行きなさい。わたしが遣わすのだから」。神様が「わたしがあなたを遣わすのだから、ただ黙ってわたしの言葉を信じて出て行け」と言われるのです。これはなかなか難しい。

 

その時、ギデオンはまた文句を言うのです。15節に「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか」。考えてみたら、自分はマナセの一族であると。マナセ族とは、イスラエルの12部族の中でもちょっと員数外なのです。本筋、本流ではない。外側なのです。ヨセフの長子だったのをヤコブが自分の子供にしてくれたといういきさつがありますから、彼らとしてはちょっと肩身が狭い。そういう出身ですから、自分の話なんか誰も聞いてくれない、誰も私に付いてくれる人はいない。軍隊を募ったって、誰も来るはずがない。そういう後ろ盾がない。氏素性は駄目。こんなどこの馬の骨か分からないような私に、どんな力があるか。お金もない、身分もない、学歴もない、家族もない、あれもない、これもない、無い無いばかり。だから「神様、こんな私では駄目ですから、神様、あなたがやってください、あなたがやってください」と言うでしょう。神様は「いや、お前がせよ」と。「お前がやれよ」とおっしゃる。ところが「いいえ、神様、神様がしてください。私はジッとしておきます」と。そこが私たちの信仰の戦いです。「そうですか。神様、あなたが私と共に行ってくださる、わたしを遣わしてくださるならば、私には力がないけれども、どうぞ、神様、私を用いてください」と、神様の手に委ねる。これが信仰です。

 

神様は16節、「主は言われた、『しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう』」。たとえミデアン人が何万人とたくさんやって来ても、まるで相手がたった一人であるかのごとくに、いともたやすくあなたは戦いに勝つことができる。なぜなら、私があなたと一緒に行くのだからと、そう言っているのです。ここなのです、信仰というのは。

できないと思う床にドカッと横になって、「神様、助けてください。あなたが何とかしてください」と言いながら、「わしゃ、できん」と寝ているから、神様が手を出せないでいる。そうか、神様が私と共にいてくださるのであれば、私はできないけれども、「この力をもって行け」とおっしゃるから、今あるだけの力をもって踏み出す。私に与えられた老後の蓄えだが、これを出しましょうと、一歩踏み出すのです。「はい、これは主が求められることですから、神様、あなたがせよとおっしゃるなら、させていただきます」と、私の力のすべてを尽くして立ち向かってご覧なさい。神様は決して放っておく御方ではない。

 

やがてギデオンは、神様の確信を得て戦いに出かけます。ミデアン人と戦う。そのとき義勇兵を呼び集めました。イスラエルの民みんなに呼び掛けて、「戦う人はいないか」と、すると3万人ぐらいのたくさんの人が集まった。彼はうれしかったのです。「これだけも来たか」と喜んで、「神様、これだけの者が集まりました」と言った時、神様は「多すぎる」とおっしゃった。彼はこれでも足らないくらいに思ったでしょう。それなのに「多すぎる。減らせ」と言われる。それで「心変わりがして弱気を出した人たちは帰りなさい。家族の心配な人は帰りなさい」と言ったら、とうとう1万人になってしまった。「神様、これだけになりました。これでいいでしょうか」と言ったら、「それは多すぎる」とおっしゃった。彼はいよいよ心細くなったと思います。それで「水飲み場に連れて行って、その水の飲み方で分けなさい」と。とうとう最後に残ったのは300人ですよ。3万人から300人になった。「これでどうして戦える?」と思います。そこなのです。そこで彼は神様を信じた。ギデオンは神様を揺るぎなく信頼していましたから、神様が作戦を与えた。空つぼとたいまつを持ってミデアン人の陣営に夜襲を掛ける。つぼを、激しい音を立てて割る。そして持っているたいまつの火を輝かす。それを見たミデアン人はびっくり仰天して、後ろも見ずに逃げ出して行った。まさに、神様が彼らに恐怖の心、恐れを起こさせていらっしゃる。人の力ではないのです。大砲があったら、ミサイルがあったら、戦車があったら相手に勝つかというと、そうではなくて、神様が人の心に一瞬にして恐れを起こさせた時、何万人であろうと、その兵隊たちは一挙になだれを打って崩れていく。私たちはその神様の力を信じようとしない。ギデオンは「私には力がない」と思った。しかし、14節に「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手から、イスラエルを救い出しなさい」。「イスラエルを救い出しなさい」と、「主があなたをつかわされるのだから」。いつもそこに立ち返ること、これが信仰です。

 

ヨハネによる福音書5章8節に、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。私たちが「もうこれは駄目だよ」と「これはもう無理だよ」「こうだから……」「ああだから……」「あれさえ有れば」「これがないんだから」と、思いあきらめてジーッと座っている場所から「起きあがって」と、主はおっしゃる。「さぁ、立ちなさい」と。この主の御声に従う。そして「床を取りあげ」と。過去の自分の考えや思いを全部御破算にして歩きなさい。信じて一歩を踏み出して行きなさいと。「踏み出したあと、どうなるかしら」「そんな事は心配いらない、わたしがついているのだから」。イエス様はここでこの人にはっきりと「歩きなさい」と命じたのです。すると、何のことはない、その人はスーッと立ち上がった。恐らく彼はびっくりしたでしょう。こうなるとは思わなかったでしょう。イエス様の御言葉を聞いて、彼は立ち上がって、今までこうしかならない、ああしかならないと思っていたそれらを一切取り除けて、「それでは従います。では、あのことをさせていただこう」と。心を定めて踏み出した瞬間に、その病は癒された。私たちの問題は解決済みです。私たちは何を恐れているのでしょうか。何が私たちの足を動かなくして縛り付けているのでしょうか。「年だから」とか、あるいは「お金がない」とか、あるいは「家族が顧(かえり)みてくれない」とか、「私は独りだから」とか、いろいろなことで神様の求めるところに従えないでいるならば、誠に残念。そうではなくて、「はい、主よ、信じます。あなたが遣わしてくださるのでしたら、私にできないことはありません」。「立ちて歩め」ですね。「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。歩こうではありませんか。主が「せよ」とおっしゃる、主が求めていらっしゃるところに大胆に従っていく時、神様が私たちの後ろ盾となり、力となって、私たちを押し出して、経験し得ないような驚くことをさせてくださるのです。まさに私たちをして「これは、神様、あなたのわざとしか言いようがありません」と言わしめるのです。だから、周囲の人は「やっぱりね。あなたが努力したかいがあって、こうなったのね」と言われる程度では駄目です。自分が周囲から認められるようなやり方を神様はさせなさらない。ギデオンに300にまで人の数を減らさせたのは、このわざが神様以外にどうにも有りようがないという状況を作り出すためです。「私にはお金もない、知恵もない、力もない、健康もない」というのでしたら、これは神様にとって最適な人です。神様は喜ばれます。自分の有りのままに、「主よ、力がありません。しかし、あなたはできないことのない御方、私に力を与えてください」。パウロは「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ 4:13)と言ったのです。私どももこの神様の力を信じて踏み出していきたいと思います。

 

状況を見て、「これは無理であろう」、「これは駄目だよ」、「これはもう……」とあきらめの箱に幾つも入れているものがあるでしょう。「これは墓場まで持っていかなければならない」というものを持っているでしょう。それをもう一度、見直してご覧なさい。神様の前に持ち出してご覧なさい。「私のすべきことはなんでしょうか」。そうすると神様が「これは道なりこれを歩むべし」(イザヤ30:21文語訳)と示してくださる。そのときに「はい」と、起きて床を取りあげ、歩き出して行く時、神様はその問題も事柄も一瞬にして造り変えてくださる。8節「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」。信仰に堅く立って、自分の不信仰の床を取り上げて、「主よ、従います」と踏み出して行きたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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