いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(527)「全て良し」

2015年07月19日 | 聖書からのメッセージ

 テモテへの第一の手紙」4章1節から5節までを朗読。

 

 4節以下、「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。5 それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである」。

 

 1節以下に「惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去る」と記されていますが、「信仰」とは神を信じることであります。神様を信じ、神様と私たちが直接交わりをもって生きること、これが信仰生活です。私たちは、かつては神様のこともイエス様のことも聖書のことも知らない。ましてや教会の集会に集(つど)うことも知らなかったとき、どういう生き方をしていたか。世間一般の多くの人々のように人の世の知恵や知識や計画や、あるいは先祖伝来の様々な仕来たりや習慣、言い伝え、そういうものを守り、それに従うことを努(つと)めて生きていました。生活の中で養われた考え方、思いが私たちの中に根深くあります。人はこうあるべきだとか、これが幸せなのだとか、こうするのが良いことであるとか、日本の社会は特にそういうものが強い。“和を以(もっ)て貴(とうと)しとなす”と、人と違ってはいけないと。だから「あの人もこうしているし、この人もこうしているし、こうあるべきなのだ」と、「こういうことを皆がしているから、そうすることが幸せに違いない」と、そういう価値観に立っていました。

 

では、信仰によって生きる生活は、どこがどう違うのか? 確かに私たちはまだこの世に生きているわけで、イエス様を知らなかった時代、聖書も神様のことも知らなかったときの生活と今と、食べる物も同じだし、着る物も同じだし、している仕事も同じだし、何一つ変わらない。じゃ、何が変わるのか? それは私たちの価値観、いま申し上げた何が善くて何が悪い、あるいは何が幸せであり、何が不幸なことか、そういう区分けといいますか、切り分けが変わるのです。そんなものを誰もことさらに意識して生活をしているわけではありません。ところが、気がつかないうちに先祖伝来の多くの人々の生き方に倣(なら)うということが善いことであり、それが人の人たる生き方、幸いな生き方に違いないと思っている。ですから、普段の生活でも経済的な事情や問題や境遇、いろいろな事で、「これは幸せなこと」、「これは不幸なこと」、「これはラッキーだった」、「これは不運なことであった」と嘆いてみたり、喜んでみたり、そういうことを繰り返しています。ところが、イエス様の救いにあずかる、イエス様を信じて生きるとは、私たちが神様と共に生きることに他なりません。

 

聖書を読みますと、旧約の時代、イスラエルの民は神様と直接話をする、祈る、交わることは許されなかったのです。神様は聖なる御方、義なる御方、光のようなご性質を持ち給う汚れのない御方でいらっしゃる。それに対して人は神様の前に罪を犯した罪人であり、汚れた者であります。ですから、そういう者が直接神様の前に立つならば、たちまちに滅ぼされる呪われた者という、そういう立場に置かれています。そもそも人は神様から捨てられ、永遠の滅びに定められた者でした。ところが、神様は私たちの造り主で、ご自分のかたちにかたどり、尊い大切なものとして造ってくださった。それほどに私たちを愛してくださったのですが、造られた私たちは造り主を忘れて、勝手放題、自分中心で我がままな生き方をしてしまう。それに対して神様はどうするべきか? もちろん神様に従わない、離れて身勝手なことをする者を許しておくわけにはいかない。神様はそういう者を徹底してお嫌いになります。それを罰せざるを得ないのであります。そういう意味で神様の前に立つことができない、許されない。本来、神に造られていながら、神様の前から離れ去った者であったのです。しかし、神様は憐れんでくださって、ご自分に似た者として尊く造ってくださったゆえに、私たちを惜しんでくださった。といって、私たちの罪を放置するわけにはいかない。不問に付して、「それじゃ、チャラにしてあげましょう」と言うわけにはいかない。それは神の神たる権威といいますか、力を損なうこと、また正義と公正が失われることに他なりません。ですから、神様は徹底してご自分の義を通しなさる。神様の正義を貫くことが、神の神たる力です。どんなに小さな汚れも、それこそ髪の毛一筋ほどの汚れた思いが私たちにあるならば、神様は即座に滅ぼされる御方です。そのような神様の前に立つすべは何もありません。しかし、そういう私たちを憐み、惜しんでくださった神様は、ご自分の尊いひとり子、罪無きお方をこの世に送ってくださった。私たちと同じ人として、肉体をもった弱い人間としてイエス様を遣わしてくださった。それは、私たちに対する刑罰、呪いをこのひとり子イエス様に負わせることによって、その御方を信じる者を義としてくださる。神様の前に罪無き者としてくださる。誠に想像を絶するような道を神様は備えられたのです。十字架こそが神様の「義」と「愛」という二つの御思いが一つに溶け合う場所です。神たる正義を貫くこと、そして愛する者を許す御思いが一つになっている。これが十字架です。神様は私たちを滅ぼしてそれでおしまいにするのではなくて、罪人をあがなう御方としてご自分のひとり子をこの世に遣わしてくださった。そのことを信じる私たちの罪を赦してくださったのです。そして今は私たちを神と交わることができる、神と共に生きる者としてくださる。これがいま私たちが受けている恵みです。だから、救いにあずかった私たちが「神の子」と呼ばれたり、あるいは神の家族としてくださったと、いろいろな言い方をしますが、その中心にあることは、いつでも、どんな時でも神と共に生きる、神様と交わる者としてくださった。ですから、いま私たちが持っている大いなる特権、恵みは、いつもどんな時にでも、神様とお話ができる、語らうことができる。これは大きな恵みであります。

 

祈りというと何か特別なことのように思いますが、実は私たちの信仰によって生きる生活に祈りがなければ、命が失われます。祈りは、神様との交わり、そして、その交わりが許されているのは一重に十字架が立てられたからこそであります。イエス様が私の罪のゆえに神様の呪いを受けてくださった。信じる私たちはもはや罪をとがめられない義なる者として、神様の許しの中に生かされているのであります。ですから、いつもどんな時にも、「主よ……」「天のお父様……」と、万物の創造者、想像を絶する力を持ち給う創造主、神なる御方をまるで私たちの身近な親しい肉親であるかのように「天のお父様……」と、誰でもが呼び求めることができる。これは私たちの最高の武器といいますか、頂いている恵みですから、これを用いないのはもったいない話です。これほど素晴らしい恵みはないでしょう。だから、どんな時にも神様は私と共にいてくださる御方であることを信じて、祈ろうではありませんか。祈ったから一回幾らと請求書は来ませんから、毎日でも、一日に何回でも、「3回目で神様は少々聞き飽きていらっしゃるのではないかしら」と、そんなことはありません。神様はいくらでも聞いてくださいます。人を相手ではなかなかそうはいきません。

 

私は比較的忍耐強いほうで、人の話はよく聞きます。先だって、ある方が心配があるので、電話してこられた。私もその方のことは祈っております、心配になるとすぐに電話をしてくる。「先生、済みません、またですけれども、今こんなことでどうしましょうか」と、「心配しないで神様にまかせなさい」と。電話を置いて、1,2時間すると、また「先生、また度々申し訳ない」と電話してくる。人だったら “仏の顔も三度”といいますが、精々(せいぜい)5回ぐらいでしょうか。でも、神様は何度でも、絶えず祈ることを喜んでくださる。「あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい」(2:14)と「雅歌」に詠(うた)われています。神様は私たちを恋い慕ってくださるのです。それなのに、むっつりだんまりを決め込んで、どうしますか。どんな時にも神様を呼び求める、祈る。これは私たちの最高の恵みであります。不安なとき、うれしいときも、悲しいときも、楽しいときにも、どんなときにも「主よ、感謝します」「主よ、こんな心配があります。どうしましょうか」と、いつでも神様に祈るのです。声を出して祈ることもある、心で祈ることもある。それが信仰生活です。信仰によって生きるというと、何か難しそうに聞こえますが、実に簡単です。神様を信じて呼び求めて行くのです。普段の生活の中で、「これはどうしようか」「あれはどうしようか」「こうなったから困った」と思ったとき、何をしますか? 「ちょっと、娘に電話をしよう」としますか。それは駄目です。そんなことをしたら嫌われますから、それよりも祈る。「私のような者の祈りを聞いてくれるだろうか」と言われますが、聞いてくださるのです。私のようなしょうもない人間だからこそ、イエス様が執り成してくださるのです。私たちが立派だから、私たちに何か取り柄があるから、私たちにできた所があるから、神様が聞いてくださるのではなくて、ただ一重にイエス・キリストのいさおし、そのご犠牲のゆえに神様は私たちを赦し、祈りを聞いてくださる、語りあってくださる御方です。だから、そのように神様との交わり、神様と共に生きる者になること。これが人が人として生きる生き方です。

 

そうなりますと、神様と最も親しい関係に変わってくる。それは夫婦以上のものです。神様との関係が大切になるのです。「そうすると、夫婦別れしなければならないかしら」と、別に神様は「夫婦別れせよ」と言われるわけではありませんが、私たちの思いの中に神様が第一になってきます。神様をいちばん身近な御方、そして神様の喜ばれること、神様が願っていらっしゃることが何であるか、私たちがいちばん気になる。すると私たちの性格が変わる。毎日、神様と祈りつつ交わりを持つとき、人として自立した人間に成り得るのです。これが根本的に大切なことです。というのは、私たちはいくら“和を以て貴しとする”と言っても、いろいろな人々とお手々つないで仲良く天国に一緒に入るわけにはいかないのです。天国に入るのも神様の所へ行くのも一人ずつであります。独りになるすべはどうすればいいか? 神様と私がぴったり一つになる以外にない。日本の社会ではそういう神様との交わりの仕方を知りませんから、とにかく、人を見、その人と同じようにしておくことで安心を得る。少しでも人から外れると、「どうしようか」と不安になる。恐れが生じてくる。自立というのは、人が独りで、個人できちっと立って行けるかどうかです。それは経済的な面もそうですけれども、殊に精神的な意味においてです。人が自立していくというときに何が大切であるか。人が自立するときに何をもって自立と言うのか?というのは、そもそも生まれながら人は何かを頼らなければ生きられないのです。

 

よく父が朝顔の譬えの話をしていました。朝顔はどこでもいいから巻き付く所があれば、そこにまきついて成長していく。朝顔は巻き付くものがないと成長できない。とぐろを巻いたようにグジュグジュになって、花が咲きません。ところが、つるが枝であろうと、ひもであろうと、何であろうとそれに巻き付いて登って行くから、花も咲き、成長するのです。人もそうです。何かに頼らなければおられないのです。神様がそのように造っていらっしゃるからです。頼るべき御方、神様に私たちがピタッとくっ付いて生きることを努めますと、私たちは素晴らしい人生を生きることができる。ところが、頼るべきものを間違えると、家族であったり、人であったり、お金であったり、事情や境遇や物事であったり、自分の仕事であったり、何かを頼りとして、そこに巻き付いて、それによって自分が立って行こうとするから、足をすくわれ、行き詰る。それは必ず失敗に終ります。だから、私は若い人にお話をするとき、親からの自立、経済的な自立、そして何よりも心の自立が、何によって得られるか?をお話するのです。そうすると、高校生でも本当に真剣になります。

 

だから、大切なのは、神様に結び付いて神様としっかり一つになって生きる。そうしますと人を頼らない。事情や境遇、物事を恐れない。自分が頼りとするものが神様になると、目に見えないけれども神様を信頼して行くとき、一人で立つことができるのです。たとえ家族から離れようとです。いろいろな方々を見ていますが、何年もしないうちに、皆さん一人っきりになります。その時「うちの娘はちっとも私の所へ来てくれん」とつぶやく。家内の母はいつもそう言ってぼやきます。「私は捨てられました」と。そう言わないために、今から捨てられたほうが良い。そして誰に結び付くかと言えば、神様に結び付く。神様にしっかり結び付いて行きますと、独りぼっちでも寂しくない、怖くない。いつも神様が共にいてくださり、心が強くなるのです。これが信仰によって生きる生き方です。周囲のいろいろな物に惑わされません。

 

年を取るとだまされる方がいます。利殖の話だとか、オレオレ詐欺だとか、大切なお金を巻き上げられて後で泣いたりしますが、なぜか? それは人を頼るからです。神様を大切に、第一として行く。その御方に信頼するならば、人の言葉に振り回されない。常にはっきりと神様と共に生きる者となる。これが人としての生き方であります。神様と共に生きること、神様が私の全てとなってくださると、そこに立っているかぎり、神様は私たちを恵んで、助けてくださる。いろいろなことの中に持ち運んでくださるので、つい目の前の事柄に惑わされて、神様から離れる。殊に社会のいろいろな仕来たりや習慣、人の言葉、そういうものに惑わされる。また、神様を信じて祈って日々歩んでいますが、「さぁ、右にするか、左にするか」と、重大な決断を迫られるような事態に陥ると、私たちはうろたえる。神様と共に生きるのはしんどいといいますか、きつくなってくる。むしろ、こういうときはこうする、ああいうときはああすると、マニュアルといいますか、手引きにのっとって「今この時だからこうすればいい」とやっていけばいちばん楽です。しかし、それをやるかぎり神様による自立した人とはなり得ません。

 

そのことが今お読みいたしました1節以下に語られている。1節「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」。いうならば、神様を知らない、神様を信じようとしない世の中の様々な仕来たりや習慣、そういう力、目に見えない私たちに迫ってくる力によって「信仰から離れ去る」、言い換えると、神様から離れて行ってしまう。2節以下に「それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする」。この2節に「良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざ」と、殊に、この世の全く神様を知らない未信者といいますか、まだ神様を知らない人たちの言うことならまだしも、救いにあずかっている人たちの中からそういう意見が出てくる。「ガラテヤの手紙」でパウロが警告したのは、まさにそのことだったのです。私どもは一人一人が神様に結び付いて、信仰に立って自立して生きるのだと。そうしますと、同じ救いにあずかっていながら、あの人はあれをし、この人はこれをしている。どちらかが良くてどちらかが間違いに違いない。学校教育の悪い癖で正解、不正解という二者択一しかないのです。正解は二つも三つもあるはずがないと思うから、「この人がしているのが正しいのだったら、あの人がしていることは間違いに違いない」と。そうなると、「できるだけ、正解である一つの道に皆一緒になろうじゃないか」と。これが厄介(やっかい)なのです。「これが正しいことだから、このように守ろう」とか、「こういうことを一緒にしよう」とか、それを決めて掛るのが世の中です。私たちの心にもそういう思いが時にある。「右にしようか、左にしようか」と悩み、決めることができない。自分が責任を取らなければならないし、後になって人から何を言われるか分からないから、つい周囲を見る。「皆がしている、私もそうしよう」と。誰もがしていることだから、それがルールになり、決まりごとになる。そのような規則ができる。そういう約束事に従って進めるほうが、案外とスムーズに事が行く。これは楽なようで、実はそこから直接神様と触れ合う機会を失ってしまう。離れて行きます。神様にお祈りするよりも、人から「その時はこうしたほうが良いよ」と言われて、「そうですか」と従ったほうが楽です。「ちょっと待って、お祈りしますから」と言ったら、「何、お祈りしている暇があるか」と言われてしまうと、「そうか」と横にずれてしまう。つい私たちはルール化をするといいますか、規則を決める、習慣づける。そうやって神様と直接の親しい交わりが途絶えて行く。だんだんと薄らいで行くのが、「信仰から離れ去る」といわれているのです。

 

3節に、救いにあずかっている、イエス様を信じていると言われていながらも、つい自立して神様と交わりをもって生きることができなくて、「結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする」。殊に、テモテに警告を与えた時代は、旧約の時代、ユダヤ教からイエス様の救いにあずかった人たちでしたから、古いユダヤ教の伝統の中に生きて来ました。だから「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト 20:8)と言われて、安息日にしていいこと、悪いことを細かいルールをつくる。煮炊きをしてはいけないとか、たきぎを拾ってはいかんとか、家から何メートルは歩いてはいかんとか、細かい規則です。それから食べる物についても、これは清いもの、これは汚れたもの、うろこのある物とか無い物とか、ひづめの分かれている物、分かれていない物とか、反すうする、しないとか、いろいろな条件によって細かい規則がある。ユダヤ人は何百年以上という長い年月、それを守って来ていますから、それを守るのはいとも簡単なわけであります。それに乗っかっていればいいのです。しかし、イエス様は、そうじゃなくて、直接神様と交わり、神様からの声を聞く、神様の御心を知る。そしてそれに従うことを徹底しておられたのです。

 

私たちもそうです。決まった規則だからこれをするということではありません。礼拝を守ることもそうです。「日曜日は礼拝と決まっているじゃないか。救われた以上は、教会員になった以上、それは義務じゃないか」と。義務ではありません。恵みに感じて、イエス様の救いにあずかった私は主に礼拝をささげる。身も心も一切を、1週間のこの世にある日々生活の全てが神様の恵みであったことを感謝し、主のものであること、私たちが神様の所有であり、神様の民であることを、はっきりと確認し、新しい旅路に遣わしていただく神様の備えられた恵みの時、この1時間半か2時間足らずの時間に、神様にお会いするのだという思いで、喜んで感謝しつつ、私たちはここに集まっている。「休むと何を言われるか分からんから、とにかく礼拝に行かなければ」と思う人もいるかもしれません。それはそれでも構わないのですが、しかし、大切なのは一人一人が主の恵みに感じて、感謝をもって主に仕えることです。だから、教会では会堂のお掃除だってそうでしょう。別に当番を決めません。どなたでも参加していただいたらいい。心から感謝して「神様の御用のために会堂をきれいにしておきたい」と、そういう願いがあり、喜びをもって集まっていただいたら良いのであって……、何をするにもそうです。自由です。何をしても構いません。ただ、その思いの中にいつも、「主よ、このことをさせていただきます」、「神様、あなたがこのことを喜んでくださる」と、常に主との交わりを欠かさない、これが根本です。だから「神様がとどめなさるならば、どんな良いことでも私はしません」、「主が『よし』とおっしゃるならば、たとえ嫌なことでもつらいことでも喜んでそれに従います」と。これが全てです。

 

ところが、結婚を禁じたり、あるいは食べる物、これは食べていいとか悪いとか、いろいろな規則を決める。それを守ることを“よし”とする。それが信仰だと思っているのです。教会員になった以上、あれもすべきだ、これもすべきだ。よくそういうことで悩む方がいらっしゃいます。「教会にいたら大変……、次から次へと私はついて行けません」と言われる。それは根本が間違っているからです。信仰によって生きるとは一人一人が神様に連なって、祈りつつ、一つ一つ神様の導きであることを信じて、信仰に立って行くことです。

 

3節の後半に「しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである」。食物を禁じたりするのは、そもそもそれはおかしい。なぜならば「感謝して受けるようにと、神の造られたものである」。前半に「信仰があり真理を認める者が」とあります。これは「神様を信じる者たち」という意味です。神様を信じると言いながら、そういう規則を作って、これを食べてはいかんとか、これをしてはいかんとか、こうあるべきだとか、こうなるべきだとか、と言う人は、神様から離れて行く。信仰から離れて行きます。ところが、信仰がある人にとってはどんなことも、「これは神様が備えてくださった」として感謝して受ける。

 

続いて4節に「神の造られたものは、みな良いものであって」と、神様によって造られたものでないもの、「神様によらないものがあるか?」と言われたら、どこにもありません。サタンも神様の手に握られているものであります。どんなものも神様によらないものはありません。だから「神の造られたものは、みな良いもの」、神様の造ってくださったもので悪いものがあるわけがない。なぜなら、神様はパーフェクトな御方、完全な御方、欠ける所のない御方でいらっしゃいます。人がすることは大抵欠けていますから、どんなに「100パーセントだ」と言っても、決してそんなことにはなりません。欠けだらけであります。あちらもこちらも行き届きませんから、いろいろなことで欠けてしまいます。足らなく不足してしまいます。しかし、神様はどんなことも決して不足がない御方であります。

 

「創世記」の初めに天地創造の記事が語られていますが、神様は光を創り、天を創り、地を創り、海を創り、生けるもの、森羅万象のありとあらゆるものをお創りになられた。その創造の一日、一日を神様は見て「良し」とされた。神様は創られたものを見て、「これで良し」と、おっしゃっている。私たちもそうです。私たちを神様が造ってくださったのですが、そう信じていないから親を呪うのでしょう。「うちの親がこういう風に造ってくれたら」と、造るって、親が造るわけではないのですが……、神様が私たちをこの世に置いてくださった。ところが、この世の様々な価値観から言うと、自分は欠けた所ばかり、「どうして私のような者が生まれたのだろうか」と嘆いたりつぶやいたりしますが、それは神様が造られたことを認めないからです。誰一人として神様によらないで生まれた人はいません。詩篇139篇に詠(うた)われているように、私たち一人一人を母の胎内でかたち造り、内臓を造り、まだ生まれもしない時から、私たち人生の全てを神様がご計画して、この地上に命を与えてくださった。生かしてくださっている。私たちは神様の許しがなければ何にもできない。今日このところまで、何十年かの地上の旅路を生きて来た。苦しいこともつらいことも楽しいことも喜怒哀楽、沢山のいろいろなことの中を通って来ました。しかし、どれもこれも神様が許して、そのことをさせてくださった。いろいろなことに私たちを置いてくださった。これを認めるのが、神に造られた者であることを信じることに他ならない。だから、過去を振り返って、「あんなことがなければ良かった」、「このことがもうちょっとこうであったら良かった」と悔んだりしますが、それは神様を認めない、神様に対して申し訳ない話です。「私がもう少し背が高かったら、歴史が変わった」と、そんなことはありません。まさに神様がなさるとおりです。それを神様が「良し」とおっしゃってくださる。これを認めることがへりくだることです。だから、生まれてから今に至るまで全てのことを神様が「良し」として造り出してくださった。「私にとって最高の生涯でした」と、感謝して受ける。

 

これが4節の言葉です。「神の造られたものは、みな良いものであって」と。いま皆さんがいろいろな問題の真っただ中に置かれている。悩みや、悲しみや、苦しいといわれる事態や事柄があるかもしれません。それとても神様が私たちにそれが必要だから「良し」として与えてくださる。

 

いろいろな病気に遭うこともあります。「こんな病気になってどうしようか」と、思い煩うことがありますが、実はその病気すらも神様が与えられたものです。私はどちらかというと病弱のほうでありましたから、いろいろな病気をしました。しかし、いま振り返ってみたら、どれもこれも、その時、その時に必要な神様の備えられた恵みであったと言う他はありません。「感謝して受ける」こと、これが何よりも大切なことです。いまどんな状態の中に置かれても、人が不幸だとか、不運だとかいう悲しい事態の中に置かれても、人がそう決めるのであって、神様は「それでよろしい」と。またその中で耐える力を与え、逃がるべき道を備え、私たちが神様と共に生きる喜びと恵み、神様の祝福を受けることができるようにしてくださるのです。だから、どんなことも、自分のことも、また周囲の家族のことについてもそうです。「私は親だから、もっとこうしておけば良かった、ああしておけば良かった」とか、「私の働きが悪かったから、私に知恵がなかったからああなった、こうなった」と、つい自分を責めますが、それはあまりにも傲慢です。

 

父が元気な頃、家内が「私がもうちょっとこうだったら良かった」と父につぶやいたのです。「文子さん、それほどあなたは偉いんかね」と叱(しか)られていましたが、「私はもっとああなっておけば良かった」、「こうなっておけば良かった」と言うなら、「あんたはそんなに偉いのかね」と言われますよ。私たちは何もできない。無能無力です。弱い者を主が憐れんで、力を与え、今に至るまでこうして支えていてくださる。『いまにいたるこそ主のめぐみなれ まもりのみてをばなどうたがふべき』(霊感賦26)と歌われています。神様が私たちを造って、生かして、そして「良し」としておられる。

 

 だから、生まれてから今に至るまでの人生、この全てをまず感謝して、「主が私のために最高の人生を備えてくださいました」と、感謝して受けようではありませんか。そうしますと、「何ひとつ捨てるべきものはない」。どんなことも無駄なこと、「もう捨ててしまいたい」と言うような事柄は一つもない。全部「良し」です。

 

 これはこの地上の生涯を終わるときもそうです。いよいよ「ご臨終です」と言われるとき、「生きていて良かった。ここまで神様、あなたが祝福して恵んでくださいました。感謝です」と、感謝して終わろうではありませんか。「後ろ髪引かれる。もうちょっと生きていたい」と不平不満を言わないために、一日、一日を「今日も主が造り出してくださった一日」と感謝する。朝、元気に目が覚めて、「今日も主が生かしてくださる」、「今日の一日も神様、あなたのものです。あなたと共に歩んで行きます」と、主と共に一日を過ごそうではありませんか。人の言葉によらない。誰かによらない。自分の感情に任せて事を進めるのではなく、どんな時にも主に祈り、祈り、神様の臨在、神様がそばにいらっしゃることを常に感じながら、主と共に生きて、一日を過ごし、夜休む時、「今日も、神様、あなたの恵みの中に生かしてくださいました」と、「もう今日死んでも感謝です」と言えるようにしておきたい。「まだやるべきことが残っている。明日また頑張らないかん」と言うのではなく、「これで目が覚めなくても、感謝です」と。いつそういう時が来るか分かりませんから、毎日、毎日「今日死んでも悔いなし」と言えるように生きる。そうなるには「神の造られたものは、みな良いもの」と、神様がしてくださった全てのことを感謝して受ける。

 

 このことを日々努めて行きたい。やがて終わるとき、喜んで「神様、あなたによって生かされた生涯でした」と感謝したい。

 

 4節にありますように、「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」。どんなことも無駄ではない。一つ一つ神様が「良し」とおっしゃってくださる。感謝しようではありませんか。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。 


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